第五章 夏の合宿
夏休みに入ってすぐ、俺たちのサークルは1週間の合宿に入った。
場所は富士五湖、河口湖の近くにある民宿だった。
敷地の中央には、昔は地域の集会所として使われていたという木造の建物がある。今では俺たちの練習場になっていて、午後の全体練習は基本的にそこで行うことになっていた。
宿泊場所は男女で完全に分離されている。
女子は別棟。
男子は大部屋がいくつもある古い宿舎。
当然、女子宿舎は男子立入禁止だった。
男だけの宿舎には、変な気楽さがあった。
夜になれば布団を並べて雑魚寝。誰かがくだらない話を始めれば、そこから全員で騒ぎ始める。
ただし、その前に毎朝の清掃が待っている。
「おーい、起きろ! 掃除!」
「眠い……」
「女子が来る前に終わらせろ!」
「女子、ここに来ないだろ!」
「合奏部屋からあぶれたら男子宿舎で個人練習なんだよ!」
そんなやり取りをしながら、俺たちは眠い目を擦って廊下を掃き、洗面所を磨き、散らかった大部屋を片付ける。
男の宿舎というものは、油断するとあっという間に汚くなる。
だから朝一番に全員で掃除する。
それも合宿の一部だった。
掃除が終われば朝食。
朝食が終われば練習。
昼食を挟んで、また練習。
夕方に全体練習。
夕食後も練習。
寝る直前まで誰かしら楽器を触っている。
普段なら、これほど音楽だけに時間を使うことはできない。
だからこそ、1週間という時間は思っていた以上に濃かった。
初日は合わなかった音が、3日目には合うようになる。
5日目には、互いに顔を見なくても相手の呼吸が分かるようになってくる。
音楽だけじゃない。
同じ場所で寝起きして、食事をして、練習して、笑って、失敗する。
それだけのことで、団員同士の距離は急速に近くなっていった。
俺は、この合宿が楽しかった。没頭した。
そして、その中で特に一緒にいる時間が増えたのが葵だった。
「景、そこ違う」
「また?」
「また」
「厳しいな」
「本番で失敗するよりいいでしょ」
「はいはい」
同じ弦楽器ということもあって、俺たちはパート練習で顔を合わせることが多かった。
葵は普段から真面目だ。
でも、合宿で一緒にいる時間が増えて、その真面目さだけではない部分も見えてきた。
負けず嫌い。
意外と頑固。
自分が納得するまで絶対に妥協しない。
そのくせ、他人の失敗には驚くほど優しい。
「今の、俺が遅れたよな」
「私も合わせられなかった」
「でも……」
「2人とも悪くないよ。もう1回やろう」
そう言って笑う。
そんな葵を見るのが、俺は好きだった。
5日目の夕方。
練習が終わったあと、俺と葵は旧公民館の外に出た。
湖の向こうに夕日が沈みかけている。
「景色、綺麗だね」
「ああ」
「こういうところ、普段なら来ないよね」
「大学と家の往復だからな」
「みんなそうだよね」
葵は少し黙った。
「合宿、終わってほしくないな」
「楽しいから?」
「うん。それもあるけど」
葵がこちらを見る。
「景と、こんなに一緒にいられるから」
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
「大学に戻ったら、こんなに一緒にいられないでしょ」
「まあな」
「だから、ちょっと寂しい」
普段の葵からは、あまり聞かない言葉だった。
俺は少し驚いた。
「葵って、寂しがりなんだな」
「……悪い?」
「いや」
俺は笑った。
「意外だっただけ」
「私だって寂しいときくらいあるよ」
「そりゃそうか」
「景は?」
「俺?」
「寂しくない?」
俺は少し考えた。
「……寂しいかもな」
そう答えると、葵が嬉しそうに笑った。
「そっか」
その笑顔を見て、俺は自分の気持ちを認めざるを得なくなった。
俺は、葵が好きなんだと思う。
たぶん、もうずっと前から。
ただ、そのことを誰かに話す気にはなれなかった。
桜子のことがある。
メグミ先輩のこともある。
そして何より。
俺自身が、もう一度恋愛に踏み込むことを怖がっていた。
メグミ先輩への恋は、もう終わっている。
それは分かっている。
先輩にとって俺は恋人ではない。
寂しさを埋めるための相手。
その現実を知ったときは、かなり苦しかった。
けれど、今はもう、それを覆そうとは思っていない。
俺がどれだけ先輩を好きでも、先輩の中にあるものを変えることはできない。
だから諦めた。
……たぶん。
ただ、憧れまで消えたわけではない。
それを胸の奥にしまって、これから先を歩いていく。
それしかないと思っていた。
*
合宿が終わって数日。
大学の食堂で、俺は桜子と昼食を食べていた。
「そういえば、今日友達が来るから」
「友達?」
「高校からの友達」
桜子がそう言った直後。
「桜子ー!」
明るい声が響いた。
そこに現れたのは、陽に透けるような金髪ロングをゆるく巻いた、いかにもギャルといった雰囲気の女の子だった。濃いめのアイメイクに長いまつげ、艶のある唇、短めのスカートと派手なアクセサリー。大学の中でもひときわ目を引く華やかさだ。
「久しぶり!」
「玲子」
桜子の表情が一気に柔らかくなる。
「元気だった?」
「元気。桜子は?」
「私も」
「嘘。顔が疲れてる」
「そんなことないよ」
「あるって」
玲子は桜子の顔を覗き込み、それから俺を見た。
「この人?」
「うん」
「へえ」
玲子は俺を頭の先から足元まで眺めた。
「初めまして。赤坂玲子」
「景。よろしく」
「景?」
「俺、そう呼ばれてるから」
「ふーん」
玲子はニヤッと笑った。
「じゃあ、あたしも景でいい?」
「いいよ」
「じゃあ景。よろしく」
「ああ」
そのとき、桜子が少しだけ落ち着かない様子で俺と玲子を交互に見ていた。
「何だよ?」
「何でもない」
「そう?」
「うん」
玲子がそんな桜子を見て笑う。
「桜子、分かりやす」
「玲子!」
「はいはい」
桜子は頬を赤くして俯いた。
その仕草が、妙に可愛かった。
「桜子って、昔からこんな感じ?」
「どんな感じ?」
「好きな人が絡むとすぐ顔に出る」
「……」
桜子の顔がさらに赤くなる。
「もう、玲子……」
「ごめんごめん」
玲子は笑っている。
でも、俺には分かった。
からかっているだけじゃない。
桜子のことを、本当に大切にしている。
*
昼食のあと、桜子が用事で先に戻った。
俺が一人で歩いていると、玲子が後ろから追いついてきた。
「景」
「ん?」
「ちょっといい?」
「いいけど」
「桜子のことなんだけど」
玲子の声が少し低くなった。
「桜子が俺のこと好きって話?」
「……知ってるんだ」
「何となく」
「そっか」
玲子はため息をついた。
「じゃあ話は早い」
「何?」
「あたし、景のこと嫌いだから」
「いきなりだな」
「大事な桜子を振った男だから」
「……」
俺は黙った。
「桜子がどれだけ景のこと好きか、あたしは知ってる」
「そうなのか」
「高校の頃からずっと見てるんだから、分かるよ」
「俺は、桜子に告白されたわけじゃないけど」
「そういう理屈じゃないの」
「はいはい」
「桜子は自分から言える子じゃないから」
玲子は少し怒った顔をしていた。
「景がメグミ先輩って人に夢中になってるから、自分じゃ無理だって勝手に身を引いてる」
「……」
「だから余計に腹が立つ」
「俺は桜子を傷つけるつもりはないよ」
「知ってる」
「なら……」
「だから余計に面倒なの」
玲子は腕を組んだ。
「悪気がないから許されるってわけじゃないでしょ」
その言葉は、少し胸に刺さった。
俺は桜子をどうしたいのか。
考えたことはある。
可愛いと思う。
一緒にいると落ち着く。
大切な友達だ。
でも、今の俺の心が向いている先は、桜子ではない。
葵だった。
それを玲子に話すつもりはない。
「……桜子には、ちゃんと向き合うよ」
「どう向き合うの?」
「それは、まだ分からない」
「ふーん」
玲子は俺をじっと見た。
「でも、曖昧なままにするのはやめて」
「分かった」
「それと」
「まだあるの?」
「ある」
玲子は指を立てた。
「桜子を泣かせたら、あたしが許さないから」
「怖いな」
「本気だから」
「分かったよ」
玲子は満足そうに頷いた。
「よし」
その顔を見て、俺は少し笑った。
「玲子って、見た目より真面目だな」
「何それ」
「もっと適当な人かと思ってた」
「失礼!」
玲子は俺の肩を軽く叩いた。
「ギャルだからって、友達まで適当に扱うわけないじゃん」
「それもそうか」
「桜子は大事な友達だからね」
玲子は笑った。
その笑顔には、嘘がなかった。
*
数日後。
サークルの練習中、桜子が譜面を落とした。
「あっ」
慌てて拾おうとして、別の譜面まで床に落とす。
「桜子、大丈夫?」
「う、うん……」
俺が一緒に拾うと、桜子が小さな声で言った。
「ありがとう」
「気をつけろよ」
「ごめん」
「何で謝るんだよ」
「……何となく」
桜子は困ったように笑った。
その笑顔が可愛くて、俺も笑う。
「桜子」
「うん?」
「今日、帰り一緒に――」
「桜子ー!」
後ろから玲子の声がした。
「終わった? 帰るよ!」
「玲子、待って」
「何してんの?」
「今、景が……」
「景が?」
玲子が俺を見る。
「……何でもない」
桜子が慌てて首を振った。
玲子は何かを察したようだったが、何も言わなかった。
「じゃ、またね」
「ああ」
桜子が玲子と一緒に歩いていく。
少し離れたところで、桜子が振り返った。
俺と目が合う。
すると。
桜子は小さく手を振った。
俺も手を振り返す。
桜子は嬉しそうに笑って、玲子の隣へ戻っていった。
「……あれは反則でしょ」
思わず呟いた。
あんな顔をされたら、意識するなというほうが無理だ。
でも。
俺はもう、自分の気持ちを知っている。
桜子を大切に思っている。
けれど、それは今のところ恋とは違う。
俺の中で、葵の存在が少しずつ大きくなっている。
そのことを、俺は誰にも話さない。
*
帰り道。
「ねえ、桜子」
「何?」
「今日、景と何話してたの?」
「別に」
「嘘」
「本当に何でもない」
桜子は顔を赤くした。
玲子はため息をついた。
「ほんっと分かりやすい」
「玲子……」
「まあ、いいけど」
玲子は桜子の肩を軽く抱いた。
「無理はしないでね」
「うん」
「景のこと好きなのはいい」
「……うん」
「でも、自分を傷つけるほど追いかけちゃ駄目だから」
桜子は少し考えてから、小さく頷いた。
「分かってる」
その声は、いつもより少し寂しそうだった。
玲子は何も言わなかった。
桜子の頭をぽん、と軽く叩く。
「ほら。今日は甘いもの食べて帰ろ」
「え?」
「駅前のクレープ」
「でも……」
「いいから」
「……玲子って、優しいね」
「今さら?」
「うん」
「遅いよ」
二人で笑った。
*
その夜。
俺は一人でベッドに横になっていた。
メグミ先輩のことを考える。
もう、戻るつもりはない。
先輩との関係がこれからどうなるのかは分からない。
ただ、恋人になれるとは思っていない。
それでも、あの人に憧れていたことまで否定したくはなかった。
俺にとって、あの人との時間は間違いなく特別だった。
苦しかった。
嬉しかった。
そして、いろいろなことを教えてもらった。
だから。
それを胸の奥にしまっておけばいい。
いつか、過去として振り返れる日が来る。
そう思うことにした。
そして今。
俺の周りには、魅力的な女の子がたくさんいる。
桜子。
葵。
静ちゃん。
涼子さん。
そして、今日知り合った玲子。
誰もが違う魅力を持っている。
俺は今まで、一人の女性に憧れることだけで精一杯だった。
でも、これからは違う。
過去を捨てる必要はない。
忘れる必要もない。
ただ、前を向けばいい。
そう思えた。
翌日。
「景!」
大学へ向かう途中、葵が走ってきた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日、練習終わったら一緒に帰ろ」
「ああ」
葵が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、俺も笑った。
まだ何も始まっていない。
誰にも、自分の気持ちを伝えていない。
それでも。
少しずつでいい。
俺も前に進んでみようと思った。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
ただ――。
夏は、まだ終わっていなかった。




