第四章 しまった音
6月に入った。
梅雨らしい曇り空が続いている。
今日の講義を終え、俺と崇は学食へ向かっていた。
「なあ、多田野」
「ん?」
「桜子って、今日もオケ?」
「たぶん。昨日も練習してたし」
「そっか」
崇はそれだけ言って黙った。
何となく気になった。
「どうした?」
「いや、別に」
「何かあるだろ」
「……お前さ」
「うん」
「桜子と、よく一緒にいるよな」
俺は少し考えた。
「そうか?」
「そうだよ」
「同じサークルの同じ初心者だし、練習も一緒になること多いから」
「帰りも?」
「たまに」
崇は黙った。
その顔を見て、ようやく分かった。
「……もしかして」
「何?」
「崇、お前」
「何だよ」
「桜子のこと、好きなのか?」
崇は数秒黙った。
それから、ため息をついた。
「……今さら聞く?」
「いや、知らなかった」
「嘘つけ」
「本当に」
「まあいいけど」
崇は頭を掻いた。
「好きだよ」
思ったよりも、はっきりした声だった。
「いつから?」
「結構前」
「へえ」
「へえじゃねえよ」
「いや……」
俺は少し困った。
桜子の顔が浮かぶ。
よく笑う。
真面目で、少し地味に見えるけれど、よく見るとかなり可愛い。
一緒にいると楽しい。
練習も一緒にしてきた。
俺にとっても、大切な友達だ。
そして最近は、桜子が俺を見る目が以前とは少し違うことにも気づいていた。
「多田野」
「ん?」
「お前はどうなんだ?」
「どうって?」
「桜子のこと」
答えに迷った。
「好きか嫌いかって言われたら、好きだよ」
「……そっか」
「でも」
そこで言葉を止めた。
恋愛として好きなのか。
それは、自分でもよく分からない。
それに。
崇が桜子を好きだと知った今、自分から何かをする気にはなれなかった。
「俺は、まだよく分からない」
「何が?」
「自分の気持ち」
崇は俺を見た。
しばらくして、小さく笑った。
「そういうところ、お前らしいな」
「何だよ」
「別に」
それ以上、崇は何も言わなかった。
*
その日の練習後。
桜子と一緒に大学を出た。
「ねえ、多田野」
「ん?」
「大森君と何か話してた?」
「昼のこと?」
「うん」
「桜子の話」
「……私?」
「崇がお前のこと好きなんだって」
桜子の足が止まった。
「え?」
「本人が言ってた」
「……そう」
桜子はしばらく黙った。
「多田野は?」
「俺?」
「どう思ってるの?」
また聞かれた。
俺は少しだけ空を見上げた。
「分からない」
「そっか」
「でも、崇は本気だと思う」
「うん」
桜子は小さく笑った。
「知ってた」
「そうなの?」
「何となく」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
ただ、帰り道。
いつもより少しだけ桜子との距離が遠く感じた。
*
数日後。
練習室にメグミ先輩が来た。
「多田野君」
「はい?」
「今日、時間ある?」
「あります」
即答してしまった。
メグミ先輩が笑う。
「じゃあ、前に話してた練習しようか」
「はい!」
憧れの先輩と二人で練習。
それだけで、朝から少し浮かれていた。
練習室には俺とメグミ先輩しかいない。
俺がヴァイオリンを構え、メグミ先輩がフルートを持つ。
「じゃあ、ゆっくりでいいから」
「はい」
音を出す。
最初は少し合わない。
俺が遅れる。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
メグミ先輩は笑った。
「もう一回」
「はい」
今度は少しマシだった。
フルートの柔らかな音に、ヴァイオリンの音が重なる。
不思議だった。
一人で練習しているときとは、まるで違う。
自分の音を聴きながら、相手の音も聴く。
次に来る音を予想する。
呼吸を合わせる。
それだけで、音楽らしくなっていく。
「……楽しい」
思わず口に出た。
「うん」
メグミ先輩が笑う。
「私も楽しいよ」
その言葉が、妙に嬉しかった。
練習が終わったあとも、俺たちはしばらく話していた。
大学のこと。
オーケストラのこと。
俺の高校時代のバンドのこと。
「多田野君って、ギターも上手だったんだよね?」
「上手いってほどじゃないです」
「でもライブやってたんでしょう?」
「まあ」
「見てみたかったな」
「そんな大したものじゃないですよ」
「ふふ」
メグミ先輩が笑う。
その笑顔を見ると、胸の奥が温かくなった。
やっぱり、この人は特別だ。人を惹きつける何かをもってる。
そう思った。
*
それから、メグミ先輩と話す機会が増えた。
練習のときに声をかけてもらう。
帰りが一緒になることもある。
俺が上手く弾けたときには、
「すごいね」
と笑ってくれる。
失敗したときには、
「大丈夫」
と言ってくれる。
時々、俺のことをじっと見ることもあった。
「どうしました?」
「ううん」
メグミ先輩は首を振る。
「何でもないよ」
その一連のやり取りに、少しだけ寂しさが混じっているように見えた。
でも、その理由を俺は知らなかった。
*
ある夜。
練習が終わったあと、雨が降っていた。
「傘、持ってる?」
「あります」
「そっか」
メグミ先輩が少しだけ残念そうな顔をした。
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろうか」
「はい」
駅へ向かって歩く。
雨音が傘を叩いていた。
「多田野君」
「はい」
「大学生活、楽しい?」
「最近は」
「最初は?」
「最初は、結構大変でした」
「ヴァイオリン?」
「それもあります」
俺は笑った。
「でも、今は楽しいです」
「そっか」
メグミ先輩は前を向いたまま言った。
「よかった」
その声が、妙に優しかった。
駅に着く。
「じゃあ、またね」
「はい」
別れようとしたとき。
「多田野君」
「はい?」
「……もう少し、一緒にいたい?」
突然の言葉だった。
俺は答えられなかった。
メグミ先輩は少し困ったように笑う。
「ごめん。変なこと言ったね」
「いえ」
その日は、それで別れた。
でも。
帰り道も、部屋に戻ってからも。
その言葉が頭から離れなかった。
*
それから何度か、俺とメグミ先輩は二人で会うようになった。
練習のあとに食事をした。
大学の外で話した。
映画を見たこともあった。
俺は少しずつ、先輩との距離が近くなっている気がしていた。
そして。
ある夜。
先輩の部屋で、俺たちは長い時間話をした。
その夜のことを、俺は今でも忘れられない。
言葉だけではなく。
触れ合うことでしか伝わらないものがあることを、初めて知った。
翌朝。
目を覚ますと、隣にメグミ先輩がいた。
俺はしばらく何も言えなかった。
先輩が目を覚ます。
「おはよう」
「……おはようございます」
メグミ先輩は、いつものように笑った。
その笑顔を見て、俺も笑った。
嬉しかった。
憧れていた人と、こんな関係になれた。
そんなふうに思っていた。
その時の俺は。
*
それからも、俺たちは何度か会った。
そのたびに、俺は先輩との距離が近づいていると思った。
恋人とは違う。
でも、それに近い何か。
そんな曖昧な関係が、俺には心地よかった。
少なくとも、その頃は。
ある日の夜。
俺は先輩の部屋で、ふと尋ねた。
「先輩」
「ん?」
「俺のこと、どう思ってます?」
メグミ先輩は黙った。
そして、少し困ったように笑った。
「どうして?」
「いや……」
言葉に詰まる。
「俺、先輩のことが好きだから」
言ってしまった。
メグミ先輩の表情が止まった。
数秒。
何も言わない。
やがて、先輩は小さく息を吐いた。
「……そっか」
それだけだった。
「先輩は?」
俺が聞くと。
メグミ先輩は答えなかった。
ただ、俺の頭を撫でた。
「ごめんね」
「何がですか?」
「ううん」
また笑った。
「何でもない」
そのときの俺は、その意味を考えなかった。
*
数週間後。
俺は偶然、メグミ先輩の昔の話を聞いた。
練習後。
団員の一人が、何気なく言った。
「中野って、弟さんいたよな」
「……うん」
「確か、昔……」
そこで会話が止まった。
メグミ先輩の顔から、笑顔が消えていた。
「弟?」
俺が聞く。
誰も答えない。
メグミ先輩が俺を見る。
弟、年下の男、大学という社会で例えるなら、後輩の男子。
「……多田野君」
「はい」
「ちょっと、話そうか」
その日の帰り。
俺たちは静かな公園のベンチに座った。
メグミ先輩はしばらく黙っていた。
「弟がいたの」
「はい」
「私より三つ下」
風が吹いた。
「昔は、すごく生意気でね。私のことをお姉ちゃんって呼んで、何でもついてきて」
メグミ先輩は笑った。
でも、その笑顔はいつものものとは違った。
「交通事故だった」
俺は何も言えなかった。
「突然だった」
メグミ先輩は膝の上で手を握った。
「昨日まで普通にいた人が、次の日にはいなくなってた」
声が震えた。
「それから、年下の男の子を見ると……どうしても気になっちゃうの」
「……俺も?」
「うん」
メグミ先輩は頷いた。
「多田野君を最初に見たときから、少しだけ弟に似てると思った」
「俺が?」
「雰囲気がね」
胸の奥が、重くなった。
「だから、放っておけなかった」
俺は何も言えなかった。
これまでのことが、頭の中で一つずつ繋がっていく。
優しくしてくれたこと。
練習を見てくれたこと。
失敗して落ち込んでいたとき、いつも励ましてくれたこと。
二人で過ごした時間。
俺は、それを全部。
自分への特別な気持ちだと思っていた。
「……じゃあ」
声が出なかった。
「俺が好きだって言ったときも」
「……ごめんね」
メグミ先輩の目から、涙が落ちた。
「私も、分からなくなってた」
「何が?」
「多田野君が弟に似ているから大切なのか。それとも、一人の男の人として大切なのか」
涙を拭う。
「一度、ちゃんと考えようと思った。でも……」
メグミ先輩は苦笑した。
「考える前に、時間が過ぎちゃった」
俺は俯いた。
悲しかった。
自分が勘違いしていたことが。
先輩が今まで抱えてきたものを何も知らなかったことが。
そして。
俺たちが過ごした時間まで、嘘だったように思えてしまったことが。
「……すみません」
「どうして謝るの?」
「俺、勝手に勘違いして」
「違うよ」
メグミ先輩は首を振った。
「私も悪かった」
「でも」
「違うの」
先輩は涙を流しながら笑った。
「私が、多田野君に甘えてたんだと思う」
その笑顔が、あまりにも悲しかった。
*
その日は、それ以上何も言わなかった。
俺は一人で帰った。
雨が降っていた。
傘を差しているのに、冷たかった。
俺はメグミ先輩が好きだった。
今でも好きだ。
でも。
その「好き」は、もう以前と同じではなかった。
憧れ。
尊敬。
恋のようなもの。
そして、少しの悲しさ。
いろんなものが混ざっていた。
*
数日後。
メグミ先輩から連絡が来た。
『今夜、会えないかな』
俺は少し迷ってから、
『はい』
と返した。
会うと、先輩はいつもの笑顔だった。
「多田野君」
「はい」
「この前はごめんね」
「俺もです」
「ううん」
先輩は首を振る。
「もう謝るのはやめよう」
「……はい」
「これからどうする?」
俺は答えられなかった。
「私は、多田野君と過ごした時間をなくしたくない」
先輩は言った。
「恋人にはなれないと思う」
「……はい」
「でも」
先輩が笑う。
「今しかできないことって、いっぱいあると思うの」
その言葉を聞いて、俺は黙った。
それでいいのか。
分からなかった。
また傷つくかもしれない。
自分がもっと好きになってしまうかもしれない。
それでも。
俺は先輩と過ごした時間を、全部なかったことにはしたくなかった。
「……分かりました」
「本当に?」
「はい」
「無理してない?」
「ちょっとは」
メグミ先輩が笑った。
「正直だね」
「でも」
俺も笑った。
「先輩と過ごした時間は、俺にとって大事だったから」
メグミ先輩の目に、また鈍い光が射した。
「……ありがとう」
今度は、俺も泣かなかった。
ただ。
その涙を見ているのが、少しだけ辛かった。
*
それから俺たちは、以前と同じように会った。
大学で話した。
一緒に食事をした。
練習もした。
時々、二人きりで過ごした。
でも。
俺はもう、恋人になることを期待しなかった。
メグミ先輩も、それ以上を約束しなかった。
それでも。
一緒にいると楽しかった。
くだらない話をした。
音楽の話をした。
将来の話をした。
俺は知らなかった。
人を好きになるということが、必ずしもその人を自分のものにすることではないということを。
好きだった人と別れることだけが、恋の終わりではないということを。
そして。
誰かの過去を知ることで、その人を見る目が変わることがあるということを。
俺は、少しだけ大人になった気がした。
たぶん。
これも、憧れた東京の、大学に来たからこそ経験できたことなのだと思う。
*
ある日の帰り。
メグミ先輩と別れる。
「じゃあ、また明日」
「はい」
先輩は振り返る。
「多田野君」
「はい?」
「頑張ってね」
いつもの笑顔。
明るくて。
優しくて。
少しだけ寂しい。
「はい」
俺も笑った。
先輩の姿が見えなくなってから、俺は空を見上げた。
俺は、メグミ先輩への憧れを捨てたわけじゃない。
たぶん、これからも忘れない。
忘れる必要もない。
ただ。
胸の奥の、誰にも触れられない場所にしまっておけばいい。
そして俺は、自分の人生を進める。
*
「多田野」
後ろから声がした。
振り返る。
崇だった。
「今までメグミ先輩と一緒だったのか?」
「うん」
「そっか」
崇はそれ以上聞かなかった。
俺も何も言わなかった。
「桜子、先に帰ったぞ」
「そうなんだ」
「追いかけなくていいのか?」
「……今日はいい」
「ふーん」
崇が笑った。
「じゃあ帰るか」
「うん」
二人で歩き出す。
少しだけ風が吹いていた。
俺の中には、桜子がいる。葵がいる。そして、メイツ馬場に帰れば、静ちゃんと涼子さんがいる。
今まで俺は、メグミ先輩しか見えていなかったのかもしれない。
でも。 よく考えてみれば。
俺の周りには、魅力的な女性がたくさんいる。
それぞれ違う。
桜子は真面目で、一緒にいると落ち着く。
葵は何を考えているのか分からないところがあるけれど、一緒にいると不思議と楽しい。
静ちゃんは、会えばいつも元気だ。
涼子さんは、少しだけ謎めいているけれど、帰ってくると安心する。
そして。
メグミ先輩は。
俺に、忘れられない時間をくれた。
それでいい。
今は、そう思おう。
*
翌週。
講義が終わったあと、桜子に呼び止められた。
「多田野」
「ん?」
「紹介したい人がいるの」
「紹介?」
「高校のときからの友達」
桜子の隣を見る。
そこに、一人の女の子が立っていた。
肩に桜子の隣に立っていた女の子へ、俺は改めて視線を向けた。
肩に届くくらいの柔らかな髪が、顔の輪郭に沿って軽やかに揺れている。
桜子が落ち着いた雰囲気の美人なら、この子はもう少し人目を引くタイプだった。
整った顔立ちなのに、どこか親しみやすい。
大きすぎない目はよく笑い、口元には最初から薄い笑みが浮かんでいる。
化粧が濃いわけでもない。
派手な服装をしているわけでもない。
それなのに、なぜか目が離れなかった。
かかるくらいの髪。
明るい表情。
桜子とは全く雰囲気が違う。
「赤坂玲子」
その子が名乗った。
「初めまして」
「あ、初めまして。多田野景です」
「知ってる」
「え?」
玲子は笑った。
「桜子からよく聞いてるから」
俺は桜子を見る。
「何を話してるんだよ」
「別に変なことは言ってないよ」
「本当に?」
「本当」
玲子が笑う。
「桜子、高校の頃から多田野君の話するときだけ、ちょっと違うんだよね」
「玲子!」
桜子が慌てる。
「え?」
俺には意味が分からない。
玲子は楽しそうに俺を見る。
「へえ」
「何?」
「なるほどね」
「だから何が?」
玲子は答えなかった。
ただ、面白そうに笑っている。
その笑顔を見て。
俺は、ほんの少しだけ思った。
――この子も、かなり魅力的だな。
そんなことを考えた自分に、少し驚いた。
ついこの間まで。
俺の世界には、メグミ先輩しかいないと思っていた。
でも。
違った。
世界は思っていたより広い。
大学生活も。
音楽も。
人との関係も。
そして、恋も。
まだ何も終わっていない。
むしろ。
これから始まるのかもしれない。
俺は玲子を見る。
玲子も俺を見ていた。
「ねえ、多田野君」
「何?」
「今度、桜子抜きで話してみたいな」
「え?」
「駄目?」
俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
桜子が隣で、
「玲子、何言ってるの」
と呆れたように言う。
玲子は笑った。
「だって、面白そうじゃん」
俺もつられて笑った。
「まあ……いいけど」
その瞬間。
胸の奥にしまったはずのメグミ先輩への憧れが、ほんの少しだけ遠くなった気がした。
消えたわけじゃない。
消すつもりもない。
ただ。
俺はもう一度、前を向いて歩いてみようと思った。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
桜子なのか。
葵なのか。
それとも。
今日初めて会った、赤坂玲子なのか。
あるいは、まだ知らない誰かなのか。
今は分からない。
でも。
それでいい。
大学生活は、まだ始まったばかりなのだから。




