第三章 揺れる音、揺れる気持ち
6月に入った。
大学生活にも慣れ、管弦楽団での練習も日常になっていた。
けれど、慣れることと、上手くなることは別だった。
「……また、ここだ」
俺は楽譜を見つめた。
何度やっても、同じところで音が乱れる。
指が追いつかない。
弓が安定しない。
頭では分かっているのに、身体がその通りに動いてくれない。
「もう一回」
俺はヴァイオリンを構えた。
弾く。
失敗する。
また弾く。
また失敗する。
気づけば、額に汗が滲んでいた。
「多田野君」
声をかけられ、顔を上げる。
桜子だった。
「ちょっと休んだら?」
「大丈夫」
「でも、さっきからずっと同じところやってるよ」
「分かってる」
少し強い声になった。
桜子が黙る。
景はすぐに後悔した。
「……ごめん」
「ううん」
桜子は小さく首を振った。
「多田野が頑張ってるのは分かってるから」
そう言って、自分のチェロに目を向ける。
「私だって、上手くいかないときあるし」
「桜子も?」
「あるよ。いっぱいある」
桜子は笑った。
「だから、あんまり根を詰めない方がいいよ」
「……うん」
景は小さく頷いた。
*
その日の合奏では、さらに落ち込むことになった。
初心者だから仕方ない。
そう言い聞かせていた。
けれど、合奏が始まれば「初心者だから」という言葉は何の慰めにもならない。
周囲の音に、リズムについていけない。
自分だけ違う場所にいるような感覚。
流れに乗らなければならないところで遅れる。
休むべきところで音を出しかける。
先輩たちから指摘を受けるたび、胸の中が重くなった。
「多田野君、焦らなくていいよ」
休憩中、メグミ先輩が声をかけてきた。
「でも……」
「最初から上手に弾ける人なんていないから」
「メグミ先輩も?」
「私も最初はひどかったよ」
メグミ先輩は笑った。
「フルートを始めたばかりの頃なんて、音を出すだけで精一杯だった」
「想像できないです」
「そう?」
「先輩、何でもできそうだから」
言ったあとで、少し恥ずかしくなった。
メグミ先輩は一瞬目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「多田野君って、たまにすごいこと言うよね」
「すみません」
「謝らなくていいのに」
柔らかな声。
その笑顔を見ると、景の胸にあった重さが少しだけ軽くなる。
やっぱり、この人は特別だ。
俺はそう思った。
憧れ。
尊敬。
そして、それだけでは説明できない何か。
自分でもまだ、それをどう呼べばいいのか分からない。
「頑張って」
メグミ先輩の笑顔は眩しく、優しい。
その時、少し離れた場所で桜子が見ていた。
桜子は何も言わなかった。
*
練習後。
俺は一人で片付けをしていた。
「まだ残ってたんだ」
葵だった。
「うん。ちょっと練習していこうと思って」
「真面目だね」
「早川に負けたくないから」
「また言ってる」
葵は笑った。
「でも、今日の多田野君、ちょっと怖い顔してた」
「そう?」
「うん」
葵はヴィオラケースを置いた。
「私も残る」
「葵も?」
「うん。合わせようよ」
「いいけど……」
「嫌?」
「いや、助かる」
二人で並んだ。
葵が楽譜を開く。
「ここ、さっき私も間違えた」
「本当?」
「だから、一緒にやればいいかなって」
「なるほど」
弾き始める。
最初は合わない。
途中で止まる。
もう一度。
また止まる。
それでも、二人で笑った。
「今の酷かったね」
「酷かった」
「もう一回」
「うん」
不思議だった。
さっきまであれほど苦しかったのに、葵と一緒だと楽しい。
失敗しても、笑える。
音を外しても、もう一度やろうと思える。
「多田野君」
「ん?」
「ヴァイオリン、好きになってきた?」
景は少し考えた。
「……うん」
以前なら、迷わず答えられなかった。
でも今は違う。
「たぶん、好きになってきた」
「そっか」
葵は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、やっぱり少しだけ邪悪だった。
「じゃあ、よかった」
「何が?」
「私が誘った甲斐があった」
「葵が?」
「そう」
葵は少しだけ顔を伏せた。
「……多田野君が楽しそうだと、私も嬉しいから」
「?」
俺は意味を深く考えなかった。
けれど葵は、その横顔を見ていた。
……そうか、似てるんだ。うまくいかない、思いどおりにならない、だけど好きだからやめられない。昨日より少しうまくいったら、生きる喜びを感じるほどの感動。他に何もなかった私と彼は厳密には違うだろうけど、根っこは近似。
いつの間にか。
彼女の中で、景の存在が少し意味を変えてきていた。
*
翌日の昼。
「多田野」
桜子が声をかけてきた。
「今日、一緒に食べない?」
「いいよ」
「じゃあ、行こう」
いつもなら三人で食べることが多い。
けれど、その日は桜子が自然に景の隣へ座った。
「昨日、葵と残ってたでしょ」
「見てた?」
「うん」
「一緒に練習してた」
「楽しそうだったね」
「楽しかった」
景が素直に答えると、桜子の箸が一瞬止まった。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、私とも練習しようよ」
「もちろん」
「約束ね」
「分かった」
桜子は景を見る。
景は気づかない。
葵が景を見る目。
景が葵といるときの表情。
そして――自分自身に足りていなかったもの。
だから、少しだけ頑張って動いてみようと思った。
*
その週末。
メイツ馬場では、珍しく崇と景が部屋で遊んでいた。崇が言う。
「これ絶対、俺の勝ち」
「いや、まだわからない」
「わかるって」
「最後までやれよ」
ゲームをしていると、ドアがノックされた。
「多田野さん、いる?」
静ちゃんだった。
「いるよ」
「お母さんが、お菓子あるって」
「今行く」
リビングへ行くと、涼子さんが笑顔で待っていた。
「二人とも食べる?」
「ありがとうございます」
崇も頭を下げる。
「大森君も遠慮しないでね」
「はい」
静ちゃんが景の隣に座る。
「大学って楽しい?」
「まあまあ」
「管弦楽団は?」
「楽しいよ」
「ヴァイオリン?」
「そう」
「聴いてみたい」
「下手だけどいい?」
「いいよ」
静ちゃんは楽しそうに笑った。
俺は少し照れながら頷いた。
「じゃあ今度」
「約束ね」
「うん」
静にとって、景は少し年上の近所のお兄さん。
何でも話せるわけではない。
けれど、会えば嬉しい。
学校とは違う話を聞ける。
少し大人に見える。
なぜか最近、景が帰ってくる時間を気にすることが増えていた。
「静、そんなに多田野君のことばっかり見てたら、お菓子なくなるよ」
涼子さんが笑う。
「見てないし!」
静ちゃんが慌てて顔を逸らした。
崇が笑う。
「仲いいな、親子」
「そう?」
涼子さんが景を見る。
「ねえ、多田野君」
「はい?」
「うちの娘、最近ちょっと生意気になったと思わない?」
「そうですか?」
「そうよ」
「前からじゃない?」
「多田野さんまで!」
静ちゃんが抗議する。
部屋に笑い声が響いた。
景はこういう時間が好きだった。
大学の練習で疲れていても、ここに帰ってくると少し気持ちが楽になる。
涼子さんも、そんな景を眺めながら微笑んでいる。
「多田野君」
「はい?」
「最近、顔つきが変わったよね」
「そうですか?」
「うん。前より楽しそう」
「……そうかもしれません」
「オーケストラのおかげ?」
「たぶん」
涼子さんは少しだけ目を細めた。
「それなら、よかった」
その言い方が妙に優しくて、景は少し戸惑った。
「今度、ゆっくり話を聞かせてね」
「はい」
涼子さんはそれ以上何も言わなかった。
けれど、その笑顔にはどこかやりきれなさがあった。
*
月曜日。
練習室。
「多田野、ここ」
恒一が楽譜を指した。
「この入り、少し遅れてる」
「分かってる」
「じゃあ次は合わせよう」
自分が至らないことはわかっているが、恒一に指摘されるのは面白くない。
才能の差があるとしても、音楽のキャリアは俺も負けてない。
だから、迅速に問題点を見出し改善する。その能力は経験で培われる。
そして、その日の練習では、景の音が少しだけ変わった。
力みが取れている。
先輩からも、
「多田野、良くなってきたな」
と声をかけられた。
嬉しかった。
練習が終わった後、葵が近づいてきた。
「良かったね」
「ありがとう」
「やっぱり、頑張ってる人って格好いいね」
「何それ」
「そのまま」
葵は笑った。
その笑顔を見て、俺も笑う。
何となく、落ち着く。
葵といると、変に気を張らなくていい。
メグミ先輩の前では、少しでも格好よく見られたい。
桜子の前では、妙に意識することがある。
恒一の前では、負けたくない。
でも葵といるときだけは、そんなものを全部忘れられる。
景自身も、そのことに気づき始めていた。
*
そして、その日の帰り道。
「多田野君」
メグミ先輩が呼び止めた。
「はい?」
「少し、一緒に歩かない?」
「もちろん」
二人で駅へ向かう。
いつもの道。
けれど、今日はメグミ先輩が少し静かだった。
「先輩?」
「ん?」
「どうかしました?」
「ううん」
メグミ先輩は小さく笑った。
「最近、多田野君、楽しそうだなって」
「そうですか?」
「うん」
「管弦楽団が楽しくなってきたから」
「そう」
メグミ先輩は頷いた。
「桜子ちゃんとも、葵ちゃんとも仲良くなったよね」
「はい。仲良し同期です」
「そっか」
再び歩き出す。
しばらくして、メグミ先輩が言った。
「ねえ、多田野君」
「はい」
「今度、私とも練習しない?」
「え?」
「木簡と弦って、普段あまり一緒に練習しないでしょう?」
「確かに」
「だから、一度くらい」
「ぜひお願いします」
俺は嬉しかった。
憧れの先輩と二人で練習できる。
それだけで胸が高鳴った。
「約束ね」
「はい」
メグミ先輩は笑った。
その笑顔はいつもと同じだった。
けれど。ほんの少しの違和感。
別れ際、メグミ先輩は景の背中をしばらく見つめていた。
*
その頃、景は夜の高田馬場を歩いていた。
今日は静ちゃんと涼子さんいるかな。
そして頭の中にあるのは、明日の練習のこと。
恒一には負けたくない。
桜子とも合わせたい。
葵ともまた練習したい。
そして――。
メグミ先輩との約束。
景の青春は、少しずつ複雑に動き始めていた。
まだ本人だけが、その変化に気づいていなかった。




