第二章 音がつなぐもの
少しずつ、大学生活が楽しくなってきた。
ヴァイオリンは、まだ思うようには弾けない。
それでも、昨日までできなかったことが、今日はほんの少しだけできる。
その小さな変化が、今の多田野景には嬉しかった。
そんな景の前に、新たな仲間が現れる。
独特な雰囲気を持つヴァイオリン初心者、水野葵。
そして、同じヴァイオリンを担当する早川恒一。
音を合わせる楽しさを知り、初めて「負けたくない」という気持ちを知る。
音楽を始めたことで、景の世界は少しずつ広がっていく。
――そして、大学の外にも。
高田馬場のアパート「メイツ馬場」。
そこで暮らす元気な中学生・仲本静と、その母親である大家の仲本涼子。
親子との何気ない交流が、景の日常に新しい色を加えていく。
友情。
音楽。
競争心。
そして、少しだけ気になる大人の女性。
まだ始まったばかりの大学生活。
景の周りに集まり始めた人々は、これからどんな関係を築いていくのだろうか。
これは、まだ自分の「音」を探している十八歳の青年の、青春の一ページ。
私立・青嶺大学
東京都内にある、創立約70年の総合大学。
学生数は約15,000人。法学部、文学部、経済学部、理工学部、農学部、短大部などを擁する中規模の私立大学。
東京都新宿区、高田馬場駅を最寄り駅とし、春には正門から続く桜並木が満開となり、近隣住民のみならず各所から人が集まる。老人や犬を連れた人、子連れ家族の散歩コースとしてもよく利用される。
*
そんな青嶺大学で景がヴァイオリンを始めてから、2か月が過ぎようとしていた。
相変わらず、上手くはない。
それでも、最初の頃とは少しだけ違っていた。
「じゃあ、今日は隣の人と合わせてみようか」
弦楽器の練習室。
神谷先輩の声に、景はヴァイオリンを構え直した。
今日の練習は、いつもの基礎練習に加えて、2人1組で音を合わせる練習をするらしい。
「多田野君、一緒にやらない?」
声をかけてきたのは、法学部1年の女子、ヴィオラの水野葵だった。
肩に届くくらいの黒髪。色白の肌に、黒を基調とした服装。目を引くのは、前髪の右側を留めている2本のヘアピンだ。黒髪の上で交差したピンが、まるで小さな「X」の印のように見える。
どこか病んでるっぽいというか、下手に話しかけたら妙な世界へ連れていかれそうな危うさを感じる。なんとなく本能が危険信号を送ってくるような。笑顔もなんとなく邪悪だ。
だが同じ楽器の同じ初心者同士何度か言葉を交わすうちに軽く雑談する程度には関係が近くなっていた。なんというか謎に面白くて不思議な空気感を持つ子だ。
「ああ、いいよ」
彼女もヴィオラを始めたのは俺と同じく大学に入ってからだ。
ただ、俺とは少し違うところがある。
葵は音を出すことそのものが好きらしい。
基礎練習でも嫌な顔をせず、何度失敗しても楽しそうに楽器を弾いている。
なんで大学から初心者でヴィオラを始める気になったか聞いたことがある。
その時の返答は
「私、ヴィオラの音が好きなんだ。あの中途半端に低い音」
何でも理詰めで考えがちな俺とは違う独特な感性に興味を持ったのを覚えている。
「じゃあ、これ」
葵が楽譜を見せてくる。
「ここから?」
「うん。先輩がさっき説明してたところ」
2人で楽譜を覗き込む。
楽譜上に記されたものは比較的簡単なフレーズだった。
けれど、2人とも初心者だ。
最初の1回は、見事に揃わなかった。
「ごめん、俺、早かった」
「私も早かった」
「じゃあ、どっちも悪いな」
「うん」
「もう一回やろう」
「了解」
2回目。
今度は少し揃った。
音程は怪しい。
弓の動きも完璧ではない。
それでも、2人の音が重なった瞬間、景は小さな驚きを感じた。
1人で弾いているときとは違う。
自分の音の隣に、もう1つの音がある。
バンドではギター1本編成だったのもあり、それが妙に心地よかった。
「今の、ちょっと良くなかった?」
「うん」
葵も嬉しそうだった。
「もう1回」
「やろう」
3回目。
4回目。
5回目。
少しずつ、2人の呼吸が合っていく。
「多田野君、意外と合わせやすいね」
「そう?」
「うん。ちゃんとこっちの音聴いてる」
「バンドやってたからかな」
「そういうの関係あるの?」
「たぶん」
「じゃあ私もギター始めようかな」
「何でそうなるんだよ」
それから俺と葵は、時々一緒に音を合わせるようになった。
別に特別なことではない。
初心者同士が練習仲間になった。
ただ、それだけだ。
それでも俺にとっては、管弦楽団に新しい友人ができたことが嬉しかった。
仲良くなっても笑顔はそこはかとなく邪悪なままだが。
*
その一方で、少し気になる存在もいた。
早川恒一。
同じ一年生で、ヴァイオリン担当。
いかにも真面目ですといった雰囲気の委員長タイプの男で、正直俺は苦手だった。
練習には絶対遅れない。
基礎練習も手を抜かない。
先輩の指示を一度聞けば、次の練習ではきちんと修正してくる。
そして何より――上達が早かった。
「早川、今のいいぞ」
「ありがとうございます」
先輩に褒められた恒一が、軽く頭を下げる。
俺は何となく、その様子を見ていた。
自分だって、以前より上手くなったと思っている。
開放弦しか弾けなかった頃に比べれば、ずいぶん進歩した。
それでも。
同じ初心者なのに、早川は一歩先を進んでいるように見えた。
その日の練習が終わった後、俺は早川に声をかけた。
「早川」
「ん?」
「今日の練習、どれくらいやった?」
「家で?」
「うん」
「一時間くらい」
「俺も」
「そうなんだ」
「……なのに、早川のほうが上手いよな」
早川は少し困ったように笑った。
「そんなことないって」
「いや、あるだろ」
「多田野はギターやってたんだから、俺より音楽経験あるじゃん」
「楽器もジャンルも違うからな」
「まあ、それはそうだけど」
練習を重ねるうちに、ほんの少しだけ競争心が生まれ出した。
昨日より上手くなりたい。
先輩に褒められたい。
曲を弾けるようになりたい。
そして――早川には負けたくない。
それは不思議な感情だった。
高校時代、バンドでは仲間と音を合わせることばかり考えていた。
オーケストラも、みんなで一つの音楽を作るものだと思っていた。
もちろん、それは間違っていない。
けれど、同じ場所で同じ楽器を弾く人間がいれば、自然と比べてしまう。
「多田野君、最近練習熱心だよね」
葵に言われた。
「そうかな」
「前より練習してる」
「ちょっと負けたくない奴がいて」
「早川君?」
「何で分かった?」
「分かりやすいから」
葵は少し邪悪な顔で笑った。
「いいんじゃない?」
「そう?」
「うん。競争相手がいるほうが頑張れるし」
「葵もそう思う?」
「私は誰かと比べるより、自分が昨日より上手くなってれば嬉しいかな」
「なるほど」
練習室には、まだ拙いヴァイオリンの音が響いている。
*
その日の夜。
メイツ馬場へ帰ると、101号室の前に大家さんの娘、静ちゃんがいた。
仲本静、中学2年生。陸上部で短距離走を担当するボブカットの14歳で、朝か夜、見かける時はだいたいジャージ姿の元気な女子だ。
「あ、お帰り」
「ただいま」
「今日も遅かったね」
「練習が9時までだから」
「毎日?」
「平日はね」
「大変じゃん」
「まあね」
静は景の持っているヴァイオリンケースを覗き込んだ。
「それ、重い?」
「まあまあ」
「貸して」
「いいよ」
「何で?」
「私、陸上部だから」
「関係ある?」
「体力には自信ある」
「じゃあ持ってみる?」
「うん」
景がケースを渡すと、静は両手で持ち上げた。
「……軽いじゃん」
そのとき、目の前の部屋のドアが開いた。
「静、何してるの?」
大家の仲本涼子さんだ。
仲本家は101号室で母娘の2人暮らしと聞いている。
涼子さんは確か今年で37歳とのことだが、中学生の娘がいるとは思えない綺麗な女性だ。長い髪は肩からゆるやかに流れ、派手な化粧をしているわけでもないのに、目元には自然な華やかさがあった。 何度会っても、折にふれ漂う色気に10代の純真な俺はドキっとさせられる。若い女の子の華やかさとは違う、もっと静かで、落ち着いていて、それでいてどこか抗いにくい。
大人の女性だけが持つ、柔らかな色気。
部屋着の上からもわかる女性らしい柔らかな曲線、さりげなく首を傾げてこちらを見る仕草、どれも露骨なものではない。はたして自分のことをよくわかってるのかわかってないのか…
こういう人がいずれ美魔女とか呼ばれるのか。東京にはいろんな人がいる。
「多田野さんのヴァイオリン持ってた」
「もう、勝手に持っちゃ駄目でしょう」
「だって軽かったから」
「そういう問題じゃないの」
涼子さんが苦笑する。
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
「今日も練習だったの?」
「はい」
「毎日よく頑張るわね」
涼子さんは俺の顔を見ながら言った。
「最初は辞めようかなって言ってたのに」
「え?」
唐突な発言に驚く。
「そんなこと言いましたっけ?」
「言ってたじゃない」
「そうだったかな……」
「覚えてないの?」
涼子は笑った。
「私は覚えてるよ」
少し気恥ずかしくなった。
入居してから、涼子さんとは顔を合わせる機会が多かった。
ゴミ出しのことを教えてもらったり。
宅配便を預かってもらったり。
たまに夕食のお裾分けをもらったり。
大家と入居者。
それだけの関係のはずだった。
けれど、最近は少し違う。
「今日はご飯食べた?」
「まだです」
「じゃあ、これ持っていく?」
「いいんですか?」
「作りすぎちゃったから」
「ありがとうございます」
「遠慮しなくていいのよ」
涼子さんが笑う。
静ちゃんが横から口を挟む。
「お母さん、多田野さんに甘くない?」
「そう?」
「うん」
「そうかしら」
「だって私には何もくれない」
「あなたにはちゃんとご飯作ってるでしょう」
「それとこれは別」
「何が別なのよ」
涼子さんはほんのり笑っている。
その笑顔は、母親らしい優しいものだった。
ただ。
景には時々、涼子の視線が少し長く感じられることがあった。
何かを見定めるような。
あるいは、何かを考えているような。
けれど、その意味は分からない。
「じゃあ、これ持っていって」
「ありがとうございます」
「明日も練習?」
「はい」
「無理しないでね」
「分かりました」
階段へ向かう。
「多田野さん」
涼子さんに呼び止められた。
「はい?」
「……また、ゆっくり話しましょうね」
一瞬。
俺はどう返事をすればいいのか分からなかった。
「はい」
結局、それだけ答えた。
部屋へ戻る。
ドアを閉めてから、俺は首を傾げた。
―――何だったんだ?
深く考えても分からない。
そのまま机の上に置いたヴァイオリンケースを見る。
明日も練習だ。
明日は恒一に負けたくない。
葵ともまた合わせたい。
桜子とも話したい。
そして、帰り道ではメグミ先輩に会えるかもしれない。
そんなことを考えて今日は早めに眠った。
*
翌日の昼。
「多田野、今日の練習終わったら一緒に帰らない?」
桜子が言った。
「いいよ」
「じゃあご飯食べていこうか」
その会話を少し離れたところで聞いていた崇が、何となく視線を向け、逸らした。
景は気づいていない
桜子が少し柔らかい表情になったことにも。
崇が少し複雑な感情を抱いていることにも。
そして、大学生活の中で出会った人たちとの関係が、少しずつ変化し始めていることにも。
ただ、景自身も変わり始めていた。
ヴァイオリンを始めたばかりの頃は、ただ音を出すことだけで精一杯だった。
今は違う。
もっと上手くなりたい。
誰かと音を合わせたい。
誰かに負けたくない。
誰かと一緒に帰りたい。
そして、誰かに自分の音を聴いてもらいたい。
音楽を始めたことで、景の大学生活は少しずつ広がっていた。
新しい仲間。
新しい友人。
小さな競争心。
まだ自分でも名前をつけられない感情。
そして5月の終わり。
新宿区を吹き抜ける風は、いつの間にか夏の匂いを含み始めていた。
景たちの4年間は、まだ始まったばかりだった




