第一章 春-まだ音楽にならない
高校時代、俺はギターを弾いていた。
好きなのは、歪んだギターの音と、身体の奥まで響くようなハードロック。
だから、大学に入ったらオーケストラでヴァイオリンを弾くことになるなんて、あの頃の自分は想像もしていなかった。
きっかけは、高校最後の春に聴いた、生のオーケストラだった。
何十人もの奏者が、それぞれの楽器で一つの音楽を作り上げていく。
その圧倒的な音に、俺は初めてクラシックというものに心を奪われた。
そして大学入学。
東京・高田馬場。
18歳の俺は、ほとんど何も分からないまま管弦楽団の門を叩いた。
そこで出会った、憧れの先輩。
同じ初心者として一緒に楽器を始めた女の子。
そして、大学生活を共にする友人たち。
最初は、毎日続く基礎練習が退屈で仕方なかった。
何度弾いても、思うような音が出ない。
こんなことなら、ギターを弾いていたほうが楽しい。
そう思ったことも、一度や二度ではない。
それでも、なぜか辞めることができなかった。
仲間と笑った帰り道。
昨日までできなかったことが、ほんの少しだけできた瞬間。
そして――まだ名前もつけられない、小さな恋。
これは、音楽のことなんて何も分からなかった18歳の俺が、初めて「自分の音」を見つけるまでの物語。
――そして、あの春に出会った彼女たちと過ごした、忘れられない四年間の物語だ。
4月、大学生活が始まって3週間が過ぎた。
多田野景は、青嶺大学の広いキャンパスを歩きながら、右手に持った1枚の紙を眺めていた。
「……6号館って、こっちで合ってるよな」
「合ってる。たぶん」
隣を歩く大森崇が、いかにも適当な返事をする。
身長175cmくらい。短く整えられた髪に長袖Tシャツとデニムという風体で、うっすらスポーツマン風の雰囲気を持っている。実際にそうかは知らないが。
「たぶんって何だよ」
「俺たち、入学して3週間だぞ。まだこの広大な大学の全部を把握してる奴なんていないって」
「それもそうか」
2人は同じ農学部の1年生だった。
入学後すぐに知り合った二人だが、偶然住んでいるアパートも同じだった。大学から歩いて15分ほどの、学生向けの古い2階建てアパートである。
同学部であることもあり、履修している一般教養もいくつか重なっている。
入学式の翌週、講義室で隣の席になったことをきっかけに話すようになり、今ではすっかり大学でいちばんよく話す相手になっていた。
「今日の昼、学食?」
「そうする。午後も講義あるし」
「じゃ、いつもの定食だな」
二人がそんな話をしながら講義室へ向かっていると、前方から見知った女の子が歩いてきた。
「あ、多田野」
大野桜子だった。
ロングストレートの黒髪。肩を過ぎてもなお真っ直ぐに落ちる髪は、派手な手入れをしているようには見えないのに、不思議と目を引く。白いブラウスに淡い色のスカートというシンプルな服装 で、ぱっと見少し地味っぽくも見えるが、少し切れ長の目に整った鼻筋、薄いメイクの下の素顔は十分に可愛い部類に入る。
「おはよう」
「おはよ」
桜子は景の隣に並んだ。
「大森君もおはよう」
「おはよう。今日、眠そうじゃない?」
「昨日ちょっと遅くまで勉強してたから」
「真面目だなあ。俺なんて昨日10時には寝たよ」
「それ、勉強してないだけじゃない?」
「正解」
桜子が笑う。
景もつられて笑った。
3人は同じ一般教養の講義を受けていた。
学部は違う。
景と崇は農学部、桜子は法学部。
専門分野はまるで違うのに、週に何度か同じ講義で顔を合わせるうち、自然と三人で話すようになった。
景にとって、大学での生活は思っていたよりも忙しかった。
高校までとは違い、時間割は自分で組まなければならない。
講義室も毎回違う。
昼食をどこで食べるかも自分で決める。
高校時代のように、同じ教室に行けば同じ顔が並んでいるわけではない。
そんな中で、気軽に声をかけられる2人がいることは、景にとってとても大きかった。
友人のいない大学生活は味気なさすぎる。
*
景には、大学に入ったらどうしてもやってみたいことがあった。
音楽だった。
高校時代、景は友人たちとバンドを組んでいた。
担当はギター。
特に好きだったのはHR、HMだった。
歪んだギターの音。
大音量のドラム。
地を這うような極低音のベースとギターが重なったときの、身体の奥まで響くような感覚。
速いギターソロを弾けたときの気持ちよさ。
景にとって音楽の楽しさとは、そういう爽快感と満足感だった。
クラシックには、ほとんど興味がなかった。
高校3年の秋までは。
学校行事で、たまたま生のオーケストラを聴く機会があった。
最初は正直、退屈すると思っていた。
ところが、実際に目の前で演奏が始まると、景の予想は完全に外れた。
CDや動画で聴く音とは違った。
何十人もの奏者が一斉に音を出した瞬間、空気そのものが震えた。
弦楽器の音が重なり、木管がその上を走り、金管が遠くから押し寄せる。
そして、その中でも景の耳に強く残ったのがヴァイオリンだった。
ギターと同じ弦楽器なのに、音の出し方も表情もまるで違う。
それなのに、なぜか近いものを感じた。
それ以来、景は少しずつクラシックを聴くようになった。
そして大学に入ったら、一度でいいからオーケストラの中に入ってみたいと思った。
その思いを現実にしたのが、青嶺大学管弦楽団、通称青管だった。
*
「お前、本当にヴァイオリン始めたんだな」
昼休み。
学食のテーブルで、崇が感心したように言った。
「始めたよ」
「ギターやってたのに、なんでヴァイオリン?」
「前に話しただろ。高校のときオーケストラ聴いて、興味持ったって」
「聞いた。でも俺だったら、ギター経験あるならそのままバンドやるけどな」
「それも考えた」
景は箸を止めた。
「けどオーケストラって一回やってみたかったんだよ。それで新しい楽器始めるわけだからバンドとの両立は厳しいと思って。」
「へえ」
「それに……」
「それに?」
景は少し迷ってから言った。
「新入生勧誘会で話した先輩がいてさ」
「ほう」
崇の顔が急に楽しそうになる。
「女?」
「まあ」
「可愛い?」
「……綺麗」
「なるほど」
「何だよ」
「いや、理由の4割くらい、それじゃない?」
「違…わないかもな。」
即否定しようとしたが、どう考えても嘘になると思いやめた。
*
中野メグミ。
経済学部の3年生、フルート担当。
綺麗な茶髪のセミロングが柔らかく揺れる、落ち着いた空気と整った顔立ち。服の上からでも分かるほど美しい女性らしいスタイル、しかし近寄りがたいということはなく、どこかふんわりとした雰囲気の笑顔の素敵な年上の女性。大学にはこんな綺麗な人がいるんだなと思った。
新歓コンパの日、声をかけてくれた。
『オーケストラに興味あるの?』
『はい。高校のときに一度聴いて、それからちょっと』
『じゃあ、ぜひ来て来て。初心者でも大歓迎だから』
そのときの笑顔が、今の状況に繋がっているのは事実だ。
*
「まあ、いいんじゃない?」
崇が言った。
「大学なんて、そういうきっかけで何か始めるもんだろ」
「そうかな」
「そうだよ」
そのとき、桜子がトレーを持ってやってきた。
「何の話?」
「多田野が中野先輩を気にしてるって話」
「大森!」
「冗談だって」
桜子は景を見る。
「中野先輩?」
「……まあ、うん」
「綺麗だよね」
「だろ?」
「大森君、なんで嬉しそうなの?」
「いや、多田野がこういう話するの珍しいしさ」
崇は何食わぬ顔で昼食を食べ始めた。
*
管弦楽団の練習は、景が想像していたものとはかなり違っていた。
「まず、開放弦」
「はい」
「右手の力を抜いて」
「はい」
「弓をまっすぐ」
「はい」
「鏡見て」
「はい」
鏡に映る自分の体勢と弓の向きを確認しながら、ひたすら弓の上下動を繰り返す。
景は楽器を構えたまま、心の中でため息をついた。
ギターなら、コードを覚えれば簡単な曲なら弾ける。
高校時代には、友人たちと何度もライブハウスのステージに立った。
多少間違えても、そのまま勢いで乗り切ることもできた。
ところがヴァイオリンは少し勝手が違った。
左手で押さえる位置が少しずれただけで音程が外れる。
弓が傾けば音が濁る。
力を入れすぎれば音が硬くなる。力を抜きすぎれば、かすれる。
「……難しい」
思わず口から出た。
隣では桜子がチェロを抱えている。
「何?」
「いや、思ったより難しい」
「私も」
桜子は弓を持ったまま苦笑した。
「チェロって、もっと優雅に弾くものだと思ってた」
「違うの?」
「今のところ、弓を持ってる腕が筋肉痛になる楽器」
「ヴァイオリンは両腕疲れるぞ」
「じゃあ仲間だね」
「何の?」
「筋肉痛仲間」
桜子が笑う。
景も笑った。
こうして二人は、練習のたびに顔を合わせるようになった。
最初のうちは、話題のほとんどが楽器のことだった。
今日は何を練習した。
指が痛い。
弓がうまく動かない。
楽譜が難しい。
先輩たちはどうしてあんなに簡単そうに弾けるのか。
そんな話をしているうちに、少しずつ音楽以外の話もするようになった。
「多田野って、普段何聴くの?」
ある日の練習後、桜子が尋ねた。
「ハードロックとかメタルとか」
「へえ」
「桜子は?」
「クラシック……って言いたいところだけど、私もそんなに詳しくないよ」
「じゃあ何聴くの?」
「最近は普通に流行ってる曲」
「普通だな」
「悪かったね」
景にとって、桜子と話す時間は楽しかった。
特別なことをするわけではない。
練習の帰りにコンビニへ寄る。
大学まで一緒に歩く。
講義の課題について話す。
学食で昼飯を食べる。
そんな何でもない時間だった。
*
五月に入る頃には、景のヴァイオリン生活は少しずつ変化していた。
とはいえ、別に特別上手くなったわけではない。
本人の感覚では、相変わらず下手だった。
だが、入団直後と比べれば確かに違った。
最初は開放弦ですら安定しなかった。
今は、少なくとも弓を一定に動かせるようになっている。
音階も、ゆっくりなら弾ける。
音程が合った瞬間には、自分でも分かる。
それが少しだけ嬉しかった。
ある日の練習で、景は何度目かのスケールを弾いていた。
一本。
二本。
三本。
同じ音を繰り返す。
以前なら、こんな練習は退屈で仕方がなかった。
しかし、その日は違った。
弓を返す。
指を置く。
音を聴く。
少し外れた。
もう一度。
今度は合った。
「……」
景は手を止めた。
ほんの一瞬だった。
たった一つの音。
けれど、確かに自分が思った場所に音が入った。
ギターなら、そんなことは当たり前だった。
しかしヴァイオリンでは違う。
正しい音程で、狙った音を鳴らす。
それだけのことが、今の景には小さな達成感になった。
「今の、ちょっと良くなかった?」
隣で桜子が言った。
「聞いてた?」
「聞こえた」
「どう?」
「うん。前よりは」
「前よりは、か」
「だって初心者でしょ」
桜子は笑った。
「でも、ちょっと嬉しそう」
「……まあ」
景はヴァイオリンを見る。
「ちょっとだけ」
*
それでも、辞めようと思ったことは一度ではなかった。
六月に入ったある日、景は練習を休んだ。
理由は「用事がある」とだけ伝えた。
本当は、ただ行きたくなかった。
練習しても、すぐには上手くならない。
経験者たちはどんどん先へ進んでいく。
自分はその後ろを、必死についていくだけ。
何より、基礎練習が多すぎる。
音楽をやりたくて入ったのに、音楽をしている実感が薄かった。
その夜、アパートの廊下で崇に会った。
「今日オケは?」
「休んだ」
「珍しいな」
「ちょっと疲れた」
「ふーん」
崇はそれ以上聞かなかった。
二人で階段を上がる。
しばらく沈黙が続いた。
「なあ、崇」
「ん?」
「俺、オケ辞めようかな」
崇が足を止めた。
「え?」
「思ってたより大変だった」
「でも、まだ二か月くらいだろ」
「二か月やっても、まだまともに弾けない」
「そんなもんじゃないの?」
「分かってるけどさ」
景は自分の部屋のドアを見た。
「ギターなら、もっと弾けるんだよ。好きな曲とか」
「それは経験者だからだろ」
「そうなんだけど……」
そこで景は言葉を切った。
「……何か、違うんだよな」
その翌日。
昼休み、三人で学食にいると、桜子が突然言った。
「昨日、休んだでしょ」
「え?」
「オケ」
「……うん」
「辞めるの?」
景は箸を止めた。
「何で知ってるんだよ」
「昨日、先輩が言ってた」
「そっか」
桜子はしばらく黙った。
「そっか、じゃないよ」
「え?」
「多田野が辞めたら、私困る」
「何で?」
「初心者仲間が減るから」
桜子は少しだけ暗い表情で言った。
「私だって、まだ全然弾けないんだから」
「……」
「一緒に始めたじゃん」
その言葉に、景は何も返せなかった。
確かにそうだった。
入団した日も。
初めて楽器を持った日も。
弓を持つ手が痛かった日も。
初めて音階を弾いた日も。
桜子はいつも隣にいた。
桜子の存在は、いつも自分の励みになっている。
「……………分かった」
「何が?」
「もうちょっと続ける」
「ほんと?」
「うん」
桜子の表情が明るくなった。
「よかった」
その笑顔を見て、景も笑った。
*
その週の練習に、景は戻った。
相変わらず基礎練習は退屈だった。
弓を動かす。
指を置く。
音程を確認する。
同じことを繰り返す。
だが、その日の景は以前とは少し違っていた。
練習の途中で、コンサートマスターの神谷先輩が言った。
「多田野、前より音が安定してきたね」
「本当ですか?」
「うん。ヘタなりにだけど」
「それは言わなくていいです」
神谷先輩が笑う。
景も笑った。
そして、もう一度ヴァイオリンを構えた。
弓を弦に置く。
ゆっくり動かす。
音が伸びる。
以前より、ほんの少しだけ綺麗だった。。
……気がつけば、練習時間は終わっていた。
「多田野、帰らないの?」
桜子が声をかける。
「ああ、もうこんな時間か」
「何してたの?」
「分かんない」
景は苦笑した。
「もう一回、同じ音を出そうとしてた」
「出た?」
「たまに」
「進歩してるのね。じゃあ帰ろうか」
「うん」
二人で練習室を出る。
廊下の向こうから、フルートの音が聞こえてきた。
景は足を止めた。
聞き覚えのある音だった。
メグミ先輩だ。
柔らかく、それでいて芯のある音。
景はしばらく黙って聴いた。
「好きなんだね」
桜子が言った。
「え?」
「あの音」
「ああ……うん」
景は少し照れた。
「中野先輩の音、好きだな」
桜子は何も言わなかった。
そして二人は、並んで練習棟を出た。
外はもうすっかり夜だった。
桜の花はほとんど散っていた。
春の終わりを告げるように、キャンパスには若葉が増えている。
景は歩きながら考えていた。
ヴァイオリンを始めた理由は、いくつもあった。
オーケストラに憧れたから。
クラシックをもっと知りたかったから。
中野メグミという先輩に憧れたから。
そして、桜子や他の団員たちと出会ったから。
どれが一番大きな理由なのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
最初はつまらないと思っていた。
地味で、難しくて、なかなか上手くならない。
それでも。
昨日より少しだけ良い音が出たとき、嬉しい。
自分の手で出した音が、ほんの少しだけ綺麗に響いたとき、もっと弾きたくなる。
そして何より、練習が終わったあとにみんなと話す時間が好きだった。
「……もうちょっと続けてみるか」
景が小さく呟いた。
「何か言った?」
「いや」
桜子が景を見る。
「変なの」
「何が?」
「最近、多田野、ちょっと楽しそう」
景は答えなかった。
その言葉を否定することもできなかった。
大学から始めたヴァイオリン。
まだ、まともな曲すら弾けない。
オーケストラの一員として演奏するには、遠すぎる。
それでも。
景の中で何かが、ほんの少しだけ動き始めていた。
まだ、それが何なのかは分からない。
ただ、音を出すことが少しだけ楽しくなっていた。
そして景は知らなかった。
これから先、何度も壁にぶつかることを。
自分よりはるかに上手い人間を見て、悔しくなることを。
自分の音が嫌になることを。
それでも、もう一度楽器を手に取ることを。
そしていつか――
自分の音を、誰かに聴いてほしいと思う日が来ることを。
その頃の景には、まだ分からなかった。
ただ今は、春の終わりのキャンパスを歩きながら、隣の桜子とくだらない話をしている。
それだけでよかった。
ヴァイオリンは、まだ音楽になっていない。
けれど。
景の最初の一音は、確かに鳴り始めていた。




