第十章 言えなかった言葉
2限の講義を終えた俺は、教室を出て食堂へ向かっていた。
その途中で、崇を見つけた。
「崇」
「ああ、景か」
崇はベンチに座って、スマートフォンを眺めていた。
「飯食わないのか?」
「もう少ししたら行く」
「珍しいな。いつもなら腹減ったって騒いでるのに」
「うるせえな」
崇が笑う。
いつもの崇だった。
俺は隣に腰を下ろした。
「そういえば、今日一般教養だろ?」
「うん」
「桜子も?」
「たぶん」
崇は何気なく答えた。
その返事に、俺は特に何も感じなかった。
俺にとっては、ただの確認だった。
けれど。
崇にとっては、少し違っていた。
桜子と出会ったのは、その一般教養の講義だった。
学部は違う。
桜子は経済学部。
崇は農学部。
普段なら、ほとんど接点のない2人だった。
出身地だって違う。
桜子は東京。
崇は茨城。
高校も違えば、育った環境も違う。
それでも。
大学という場所で、たまたま同じ教室に座った。
最初は、それだけだった。
*
桜子は講義が始まる少し前に教室へ入った。
空いている席を探していると。
「あ、ここ空いてるよ」
声をかけてきたのが崇だった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
桜子はその隣に座った。
それが始まりだった。
最初は講義の内容について話した。
次第に、大学の話になった。
そして、出身地の話になった。
「東京なんだ?」
「はい」
「俺、茨城」
「そうなんだ」
「東京って、やっぱ人多い?」
「場所によるけど……多いと思う」
「だよなあ」
そんな他愛のない会話だった。
けれど。
崇は桜子のことが気になり始めた。
理由は、特別な出来事ではなかった。
講義中に真剣にノートを取る姿。
分からないところがあると、少し眉を寄せる表情。
誰かに話しかけられれば、必ず相手の目を見て答えること。
派手ではない。
むしろ控えめだった。
けれど。
知れば知るほど、もっと知りたくなる。
そんな女の子だった。
だから崇は、この講義がある日を楽しみにするようになった。
それから、少しずつ話す時間が増えた。
昼休みに一緒に食事をすることもあった。
試験前にはノートを見せ合った。
講義が終わったあと、駅まで一緒に歩いたこともある。
そうして。
いつの間にか、友人になっていた。
そして崇は。
友人という距離から先へ進めなくなった。
*
俺は崇と食堂へ向かった。
「今日、桜子と会うんだろ?」
「一般教養でな」
「そうか」
俺はそれ以上聞かなかった。
崇も、それ以上話さなかった。
ただ。
食堂へ向かう途中、崇が何度もスマートフォンを確認していたことには気づかなかった。
*
午後。
桜子と崇は一般教養の講義を受けていた。
講義が終わる。
学生たちが次々と教室を出ていく。
「桜子」
「うん?」
「今日、少し時間ある?」
「このあと?」
「うん」
桜子は少し考えた。
「図書館に行こうと思ってたけど……」
「じゃあ、終わるまで待つよ」
「どうしたの?」
「ちょっと話したいことがある」
その言葉に、桜子は崇の顔を見た。
いつもと違う。
そう感じた。
「……分かった」
*
大学の裏手にある小さな公園。
秋の風が吹いていた。
崇はベンチに座り、桜子はその隣に少しだけ距離を空けて座った。
「……桜子」
「うん」
「俺さ」
崇は一度、深く息を吸った。
「ずっと言おうと思ってたことがある」
「……何?」
「俺、桜子のことが好きだ」
桜子は黙った。
驚きはしなかった。
薄々気づいていたからだ。
崇が自分を見る目。
講義が終わると必ず声をかけてくること。
自分が景の話をすると、ほんの少しだけ寂しそうになること。
それらを見ていれば、分からない方がおかしかった。
「……いつから?」
「いつからだろうな」
崇は苦笑した。
「最初は、ちょっと気になるくらいだった」
「うん」
「東京ってどんなところなんだとか、桜子はどういう高校にいたんだとか」
崇は笑う。
「そんなことばっかり考えるようになって」
「……」
「気づいたら、一般教養の日が楽しみになってた」
桜子は胸が痛くなった。
「農学部と経済学部だから、普段は全然会わないだろ?」
「うん」
「だから余計に、講義が終わると寂しかった」
崇は俯いた。
「俺、桜子のことをもっと知りたかった」
静かな声だった。
「好きなものとか」
「……」
「嫌いなものとか」
「……」
「どういうときに笑うのかとか」
桜子は膝の上で手を握った。
優しい人だと思った。
本当に。
だからこそ。
これから言う言葉が、ひどく残酷に思えた。
「桜子」
「……うん」
「俺と付き合ってほしい」
風が吹いた。
桜子の髪が頬にかかる。
桜子はそれを耳にかけながら、ゆっくりと首を横に振った。
「……ごめんなさい」
崇は目を閉じた。
「そっか」
「本当にごめん」
「謝らなくていいよ」
「でも……」
「わかってたから」
崇は笑った。
「桜子が景を好きなのは、知ってる」
「……」
「だから、俺が勝手に期待してただけ」
桜子の胸が痛む。
「崇くんは悪くないよ」
「桜子も悪くない」
崇はそう言って、少しだけ空を見上げた。
「ただ、俺が遅かっただけだな」
「……違うよ」
「同じことだよ」
崇は笑った。
「好きな人に好きな人がいる。それだけ」
その言葉は、あまりにも静かだった。
だからこそ。
桜子には、崇がどれほど傷ついているのかが分かった。
「……私」
「ん?」
「勉強とサークルが忙しいから」
桜子は俯いた。
「今は、誰かと付き合う余裕がないの」
崇はしばらく黙った。
そして。
「……そっか」
それだけ答えた。
本当の理由を言えなかったことが、桜子には苦しかった。
でも。
景が好きだから。
それだけは、どうしても言えなかった。
目の前にいる崇を、これ以上傷つけたくなかった。
*
公園を出たあと。
2人は大学まで戻った。
途中で崇が言った。
「なあ、桜子」
「うん?」
「これからも友達でいてくれる?」
「もちろん」
「よかった」
崇は笑った。
「じゃあ、俺も普通にするから」
「……うん」
「変に気を遣うなよ」
「崇くんもね」
「ああ」
そう言って、崇は手を振った。
「じゃあ、俺、農学部の方行くわ」
「うん」
「また一般教養で」
「うん。またね」
崇は背を向けた。
桜子も反対方向へ歩き始める。
数歩進んだところで。
桜子は振り返った。
崇はまだこちらを見ていた。
目が合う。
崇は笑った。
桜子も笑い返した。
それから。
2人は別々の方向へ歩いていった。
*
崇は農学部の建物まで戻った。
人の少ない階段に腰を下ろす。
「……終わったな」
誰にも聞こえない声で呟く。
ポケットからスマートフォンを取り出した。
そこには、桜子とのメッセージ履歴がある。
初めて話した日のこと。
講義について質問したこと。
試験前に励まし合ったこと。
くだらない話。
たった数年。
それだけの時間だった。
高校時代からの幼馴染でもない。
同じ高校だったわけでもない。
同じ学部でもない。
出身地だって違う。
それでも。
自分にとっては、大切な時間だった。
「……好きだったな」
崇はスマートフォンを握った。
目を閉じる。
「……本当に」
声が震えた。
慌てて顔を伏せる。
誰かに見られたくなかった。
農学部の学生が階段を通り過ぎる。
崇は顔を上げなかった。
やがて。
足音が遠ざかる。
「……馬鹿だな、俺」
小さく笑う。
「最初から分かってたじゃん」
桜子が誰を見ているのか。
その視線の先に、自分の居場所がないことくらい。
それでも。
好きになってしまった。
好きになったことだけは、どうしようもなかった。
*
その日の夜。
俺はサークルの練習を終え、大学の構内を歩いていた。
桜子がいた。
「桜子」
「……景」
「今帰り?」
「うん」
「一緒に帰る?」
桜子は少しだけ迷った。
それから笑った。
「うん」
俺たちは並んで歩き始めた。
「今日、一般教養だったんだろ?」
「うん」
「崇も?」
「……うん」
桜子の返事が少し遅れた。
「崇、何か言ってた?」
「ううん」
桜子は首を横に振った。
「特に何もないよ」
「そう?」
「うん」
俺はそれ以上聞かなかった。
桜子も何も言わない。
ただ。
歩く速度だけは、いつもより少し遅かった。
*
その夜。
玲子のところに桜子から連絡が入った。
『今日、崇くんに告白された』
玲子はしばらく画面を見つめた。
『それで?』
『断った』
『そっか』
短い返信。
少ししてから。
『桜子は大丈夫?』
桜子から返事が来る。
『うん。でも、崇くんがつらそうだった』
玲子は小さく息を吐いた。
『崇、いい奴だからね』
『うん』
『でも、仕方ないよ』
『……うん』
玲子はそこでスマートフォンを置いた。
桜子が悪いわけじゃない。
崇が悪いわけでもない。
ただ。
好きな人が同じではなかった。
それだけだった。
それだけなのに。
人は簡単に傷つく。
*
翌日。
俺は大学の食堂で崇と向かい合っていた。
「昨日、桜子と会ったんだろ?」
俺が何気なく聞くと。
崇は一瞬だけ箸を止めた。
「ああ」
「何かあった?」
「別に」
「そうか」
俺は気にせず飯を食べた。
崇も食べ始めた。
「景」
「ん?」
「お前、桜子のことどう思ってる?」
突然の質問だった。
「どうって?」
「だから……」
崇は少し迷った。
「好きなのか?」
俺は黙った。
桜子の顔が浮かんだ。
いつも控えめに笑う姿。
俺の隣を歩くときの、少し嬉しそうな顔。
自分の肩に頭を預けて眠ったこと。
小指を絡めて「約束」と言ったこと。
可愛いと思う。
大切だと思う。
でも。
「……わからない」
俺は答えた。
崇は少しだけ悲しげに笑った。
「そっか」
「何だよ」
「いや」
崇は箸を動かした。
「お前らしいなって」
「そうか?」
「ああ」
それ以上、崇は何も聞かなかった。
俺も聞かなかった。
だから。
俺は知らない。
昨日、崇が桜子に告白したことも。
そして。
その告白が、崇にとってどれほど大切なものだったのかも。
*
翌日の夕方。
桜子は1人で図書館にいた。
参考書を開いている。
けれど、文字が頭に入ってこない。
昨日の崇の顔が浮かぶ。
笑っていた。
最後まで優しかった。
だからこそ、胸が痛かった。
そして。
もう1人。
頭に浮かぶ顔があった。
「……景」
小さく呟く。
自分はどうして、ここまでこの人を好きになったのだろう。
答えは分からない。
ただ。
景といると、普通の日が少しだけ特別になる。
何でもない会話が嬉しい。
隣を歩くだけで幸せになる。
だから。
崇を傷つけてしまっても。
自分が誰かを傷つけることになっても。
この気持ちだけは、捨てられなかった。
桜子は参考書に視線を戻す。
勉強をしなければならない。
サークルにも行かなければならない。
やることはたくさんある。
だから。
恋なんて後回しにすればいい。
そう思いながら。
桜子は胸の奥にある景への想いを、そっとしまった。
捨てることはできない。
けれど。
今は、それでいいと思った。
*
そして。
崇もまた、自分の中で何かを整理しようとしていた。
桜子のことを忘れるつもりはなかった。
忘れられるとも思わなかった。
ただ。
これ以上、桜子を困らせることだけはしたくない。
それが。
告白した自分にできる、最後のことだった。
翌朝。
崇はいつも通り大学へ向かった。
一般教養の教室へ入る。
桜子がいた。
「おはよう、崇くん」
「おはよう、桜子」
2人ともほんのり笑った。
何も変わっていないように。
けれど。
昨日までと同じではなかった。
桜子の隣には、もう崇の居場所はない。
それでも。
同じ教室で笑えるだけでいい。
崇はそう思おうとした。
窓の外から、秋の風が吹き込んでくる。
桜子の黒髪が揺れた。
崇は一瞬だけ、その姿を見つめた。
そして。
誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……好きだったよ」
過去形にするには。
まだ少しだけ早かった。




