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はじまりの音  作者: Randa
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11/15

第十一章 届かない場所

 崇が桜子に告白してから、1週間が過ぎた。

 大学では、何も変わっていないように見えた。

 講義があり、昼休みがあり、サークルがある。

 俺はいつも通り大学へ行き、いつも通り友達と話し、いつも通り練習に参加する。

 桜子も変わらなかった。

 廊下ですれ違えば笑う。

 食堂で会えば、一緒に食事をすることもある。

 サークル活動がある日は、少し忙しそうにしている。

 たしか英語スピーチサークルだったか。

 だから俺は、崇との一件も、もう落ち着いたのだと思っていた。

 けれど。

 何となく、違和感があった。

「景、おはよう」

「おはよう」

 朝、大学の門の前で会った桜子は、いつも通りだった。

 長い黒髪。

 薄い化粧。

 派手さのない服装。

 そして、少し控えめな笑顔。

「今日、1限?」

「ああ」

「私も」

「じゃあ一緒に行くか」

「うん」

 並んで歩く。

 以前なら、それだけで桜子は嬉しそうにしていた。

 もちろん、今だって笑っている。

 ただ。

 何かが違う。

「桜子」

「ん?」

「最近、忙しい?」

「え?」

「なんか前より会わない気がする」

 桜子は一瞬だけ目を伏せた。

「そうかな」

「ああ」

「……ちょっとだけ、サークルが忙しくて」

「英語スピーチ?」

「うん。大会もあるから」

「そっか」

「それに勉強もしないといけないし」

 桜子は笑った。

「だから大丈夫」

「何が?」

「何でもない」

 そう言って、また笑う。

 俺には、その笑顔の意味が分からなかった。

 ただ。

 以前より少しだけ遠くなった。

 そんな気がした。

     *

 桜子は、景と並んで歩きながら、自分の胸の奥にある気持ちを必死に押し込めていた。

 崇に告白されたとき。

 桜子は、自分が景をどれほど好きなのかを改めて思い知らされた。

 崇は優しかった。

 一緒にいて安心できる人だった。

 同じ講義を受けて。

 試験前に励まし合って。

 くだらない話をして。

 大学生活の中で、少しずつ距離を縮めてきた。

 だから。

 もし景と出会っていなかったら。

 もし、景を好きになっていなかったら。

 きっと崇の気持ちを嬉しいと思えた。

 もしかしたら。

 付き合っていたかもしれない。

 でも。

 崇の告白を聞いた瞬間に、桜子の頭に浮かんだのは景だった。

 それが答えだった。

 自分は、景が好きなのだ。

 それだけは、もう誤魔化せない。

 だから断った。

 そして。

 断ったことで、逆に迷いがなくなった。

 景が好き。

 もっと一緒にいたい。

 景の隣にいたい。

 本当は、それだけだった。

 けれど。

 その気持ちを認めたあと。

 桜子の胸には、別の問題が浮かんできた。

 メグミ先輩。

 景が以前から憧れていた人。

 そして。

 自分よりずっと大人で、綺麗で、優しくて。

 何より。

 景と、とても親しい人。

 桜子は、メグミ先輩を嫌いにはなれなかった。

 むしろ。

 何度か話したことがあるからこそ、その人柄が分かってしまう。

 優しいて深い人だ。

 誰に対しても柔らかく接する。

 でも。

 景に対する態度は、少し違う。

 それを桜子は気づいていた。

     *

 その日の昼休み。

 俺が食堂へ向かっていると、桜子がいた。

「景」

「一緒に食べる?」

 俺が先に声をかける。

 桜子は少し驚いた顔をしてから笑った。

「うん」

 二人で席を探す。

 窓際の席が空いていた。

「ここでいい?」

「うん」

 弁当を広げる。

 桜子は小さく息を吐いた。

「どうした?」

「え?」

「いや、ため息ついたから」

「……何でもない」

「最近、それ多いな」

 桜子は困ったように笑った。

「景って、意外とよく見てるんだね」

「そうか?」

「うん」

「前からだろ」

「……そうかな」

 桜子は弁当のおかずを箸でつついた。

「ねえ、景」

「ん?」

「私って……どういう人に見える?」

 唐突な質問だった。

「どういう人?」

「うん」

「真面目」

「それだけ?」

「優しい」

「……うん」

「あと、意外と頑固」

「えっ」

 桜子が顔を上げる。

「私、頑固?」

「ああ」

「どこが?」

「自分で決めたこと、なかなか曲げないだろ」

「……そうかも」

「でも、そこが桜子らしいと思う」

「……」

 桜子が黙った。

 それから、小さく笑った。

「景は、ずるいね」

「何が?」

「そういうこと、普通に言うから」

「普通のことしか言ってないけど」

「それがずるいの」

 桜子は笑っている。

 でも。

 その目は少しだけ寂しそうだった。

     *

 午後の講義が終わると、桜子はサークルへ向かった。

 俺はオケの練習がある。

 別々の場所へ向かう前。

「景」

「ん?」

「また明日」

「ああ」

「……明日も、一緒にお昼食べない?」

「いいぞ」

 桜子は笑った。

「約束ね」

 そう言って歩いていく。

 俺はその背中を見送った。

 以前より。

 なぜだろう。

 ほんの少しだけ、遠く感じた。

     *

 数日後。

 俺は大学の講義が終わったあと、メグミ先輩に呼び止められた。

「景くん」

「先輩?」

「今日、少し時間ある?」

「ありますけど」

「じゃあ、少し付き合って」

 いつもの柔らかい笑顔だった。

 俺は迷わなかった。

「はい」

 それが今の俺とメグミ先輩の関係だった。

 恋人ではない。

 それは分かっている。

 先輩が俺に向けている感情も、俺が先輩に抱いている感情も、単純な恋愛ではない。

 それでも。

 会えば嬉しい。

 触れれば胸が高鳴る。

 一緒にいれば、昔の憧れが蘇る。

 だから。

 俺は完全には離れられなかった。

 その日も。

 俺たちは人目を避けるように、大学から少し離れた場所へ向かった。

 そして。

 その帰り道。

 俺は、桜子と鉢合わせした。

「……景?」

 桜子が立っていた。

 隣には、サークルの友人らしい女子学生がいる。

「あ」

 俺は足を止めた。

「桜子」

「……どうしたの?」

「ちょっと先輩と」

 俺がそう言うと。

 メグミ先輩が柔らかく笑った。

「こんにちは、桜子ちゃん」

「……こんにちは」

 桜子も笑う。

「景と先輩一緒だったんですね」

「うん」

 メグミ先輩は自然に俺の腕に触れた。

「景くんに少し付き合ってもらってたの」

「……そうなんですか」

 ほんの一瞬。

 桜子の表情が固まった。

 俺には、それが分からなかった。

「じゃあ、俺たち行くよ」

「うん。またね、桜子ちゃん」

「はい」

 俺とメグミ先輩は、その場を離れた。

 しばらく歩いてから。

「景くん」

「はい」

「さっきの子、どうしたの?」

「桜子です」

「うん。知ってる」

「友達です」

 俺はそう答えた。

 メグミ先輩は少し笑った。

「そう」

 それ以上、何も言わなかった。

     *

 桜子は、その場に立ち尽くしていた。

「桜子?」

 一緒にいた女子が声をかける。

「……ううん」

「どうしたの?」

「何でもないよ」

 桜子は笑った。

 でも。

 自分でも分かっていた。

 今の笑顔は、うまく笑えていない。

 景の腕に触れたメグミ先輩。

 それを当たり前のように受け入れていた景。

 2人の距離。

 言葉にできない親密さ。

 全部。

 見たくなかった。

 でも。

 見てしまった。

 桜子は俯いた。

 胸の奥が痛かった。

 それなのに。

 メグミ先輩を責めることはできなかった。

 景を責めることもできない。

 自分には、そんな権利がない。

 付き合っているわけではない。

 景から告白されたこともない。

 自分から告白したこともない。

 ただ。

 勝手に好きになって。

 勝手に期待して。

 勝手に傷ついているだけだ。

「……バカみたい」

 小さく呟いた。

「え?」

「何でもない」

 桜子は笑った。

「帰ろう」

     *

 その夜。

 桜子は自分の部屋で、机に向かっていた。

 英語の教材を開いている。

 けれど。

 何度読んでも、頭に入ってこない。

 視界の端にスマートフォンがある。

 景から連絡が来るかもしれない。

 そんなことを期待している自分が嫌だった。

 画面を伏せる。

 そして。

 また教材を見る。

 勉強しなければ。

 サークルもある。

 やらなければならないことはたくさんある。

 だから。

 恋愛なんて考えなければいい。

 崇にもそう言った。

 勉強とサークルが忙しいから。

 今は誰かと付き合う余裕がない。

 それは嘘ではない。

 けれど。

 本当の理由は別にある。

 景が好きだから。

 それだけ。

 桜子はペンを握った。

 ――私は、景が好き。

 心の中で、もう一度言う。

 やっぱり好きだった。

 何度考えても。

 誰かに告白されても。

 別の人と比べても。

 最後に残るのは、景だった。

 だったら。

 諦めなければいい。

 そう思った。

 一瞬だけ。

 けれど。

 今日見た光景が蘇る。

 メグミ先輩。

 綺麗だった。

 大人だった。

 景と自然に並んでいた。

 自分にはないものを、たくさん持っている。

 それに。

 景は、メグミ先輩をずっと憧れの人として見ていた。

 その気持ちが、今も消えていないことくらい分かる。

「……かなわないよ」

 桜子は呟いた。

 涙が落ちた。

「私じゃ……かなわない」

 その言葉を口にした瞬間。

 自分の心が、決まってしまったような気がした。

     *

 翌日。

「おはよう、桜子」

「おはよう、景」

 大学の門で会った。

 景はいつもと変わらない。

「昨日、帰り大丈夫だった?」

「うん」

「そうか」

「景こそ」

「俺?」

「うん」

「大丈夫だったけど」

 桜子は笑った。

「そっか」

「どうした?」

「何でもない」

 また、その言葉。

 景は少しだけ眉を寄せた。

「桜子」

「ん?」

「本当に何でもない?」

「うん」

「ならいいけど」

 俺は歩き始めた。

 桜子も隣を歩く。

 以前なら。

 この距離が嬉しかった。

 今も嬉しい。

 だからこそ。

 離れなければならないと思った。

 桜子は、自分の胸の中でそう決めた。

 景の邪魔をしてはいけない。

 景には、景の人生がある。

 好きな人がいるなら。

 その人と幸せになればいい。

 自分は、それを遠くから願えばいい。

 それでいい。

 そう思おうとした。

     *

 昼休み。

「桜子、一緒に食べよう」

 桜子は一瞬だけ迷った。

「……ごめん」

「え?」

「今日は、友達と食べる約束してて」

「そうなのか」

「うん」

「じゃあ、また今度」

「うん」

 景は何も疑わなかった。

 桜子はその背中を見送った。

 胸が痛い。

 でも。

 これでいい。

 そう思った。

「桜子」

 後ろから声がした。

 玲子だった。

「何してんの?」

「玲子……」

 玲子は桜子の顔を見る。

 そして。

「……あんた、泣きそうな顔してる」

「してないよ」

「してる」

「本当に大丈夫」

 桜子は笑った。

 玲子は何も言わなかった。

 しばらくして。

「景?」

「うん」

「昨日、見た」

「……そっか」

「メグミ先輩と一緒だった」

「うん」

「……それで?」

 桜子は黙った。

「桜子」

「私、思ったの」

「何を?」

「私じゃ、かなわないなって」

 玲子の顔から笑みが消えた。

「何言ってんの」

「本当だよ」

「桜子」

「メグミ先輩、綺麗だし」

「それが?」

「大人だし、景と似合ってる」

「似合ってるって……」

「私なんかより、ずっと」

 玲子は桜子の肩を掴んだ。

「バカ」

「……玲子」

「誰が誰にかなわないって決めたのよ」

「でも……」

「でもじゃない」

 玲子は強い口調で言った。

「桜子が好きなら、それでいいじゃん」

「……」

「景が誰を好きなのかなんて、本人にしか分かんないでしょ」

「でも」

「でも?」

 桜子は俯いた。

「……怖い」

 その一言に。

 玲子は黙った。

「景に嫌われるのが怖い」

「……」

「今の関係までなくなるのが怖い」

「桜子」

「だから」

 桜子は笑おうとした。

「このままでいい」

「……本当に?」

「うん」

 けれど。

 その笑顔には、涙が浮かんでいた。

「景が幸せなら、それでいい」

 玲子は何も言えなかった。

 親友として。

 何か言わなければいけないと思う。

 けれど。

 桜子がどれだけ景を好きなのかを知っているからこそ。

 簡単な言葉では、救えないことも分かっていた。

     *

 その日の夕方。

 俺はオケの練習を終えた。

 片付けをしていると、葵が声をかけてきた。

「景」

「ん?」

「今日、一緒に帰らない?」

「ああ」

 俺は笑った。

 葵と並んで歩く。

 音楽の話。

 次の練習の話。

 くだらない話。

 自然に笑える。

 俺は思った。

 こういう時間が好きだ。

 葵といると、余計なことを考えなくていい。

 ただ、一緒にいられる。

 それが心地よかった。

「景」

「ん?」

「最近、桜子ちゃんとよく一緒にいるね」

「そうかな」

「うん」

「入学すぐからの友達だからな」

「そっか」

 葵はそれ以上聞かなかった。

 俺も聞かなかった。

 ただ。

 少しだけ。

 桜子のことが気になった。

 最近、明らかに距離を取られている。

 何かあったのだろうか。

 俺には分からない。

     *

 夜。

 桜子は自分の部屋で、机の前に座っていた。

 参考書を開く。

 英語の文章を読む。

 声に出してみる。

 何度も繰り返す。

 けれど。

 集中できない。

 景の顔が浮かぶ。

 笑顔。

 優しい声。

 一緒に歩いた時間。

 肩に寄りかかった日のこと。

 小指を絡めた日のこと。

 全部。

 大切な思い出だった。

 そして。

 その思い出があるからこそ。

 手放すのが怖い。

 それでも。

 桜子は決めた。

「……もう、困らせない」

 景に好きだと言わない。

 景を困らせるようなこともしない。

 2人で出かけることも。

 少しずつ減らしていく。

 景が自分をただの友達として見ているなら。

 その場所にいればいい。

 それでいい。

 それが一番、景のためだ。

 涙が一粒、ノートの上に落ちた。

 桜子は慌てて手で拭った。

「……泣かない」

 誰に言うでもなく呟く。

「泣かないって決めたから」

 もう1度、参考書を見る。

 文字が滲んで見えた。

 それでも。

 桜子はページをめくった。

     *

 翌週。

 桜子は少しずつ、俺から離れていった。

 昼休みを一緒に過ごすことが減った。

 帰り道も別々になることが増えた。

 メッセージも少なくなった。

 俺が誘えば断らない。

 でも。

 桜子から誘ってくることはなくなった。

 俺は、それを忙しいからだと思っていた。

 勉強。

 サークル。

 大学生活。

 やることはいくらでもある。

 だから。

 俺は深く考えなかった。

 ただ。

 時々。

 桜子が遠くから俺を見ていることだけは、何となく分かった。

 目が合うと。

 すぐに逸らす。

 そして。

 小さく笑う。

 まるで。

 それだけで満足しているように。

     *

 ある日の夕方。

 俺は桜子を見つけた。

「桜子」

「景」

「今から帰る?」

「うん」

「一緒に行こう」

「……ごめん」

「え?」

「今日は玲子と約束してるから」

「そうか」

「また今度ね」

「ああ」

 桜子は笑った。

 その笑顔は。

 以前と同じだった。

 けれど。

 俺にはなぜか。

 とても遠く見えた。

 桜子が去っていく。

 俺は、その背中を見ながら立ち尽くした。

 何かがおかしい。

 そう思った。

 でも。

 何がおかしいのかは、分からなかった。

     *

 玲子は桜子と並んで歩いていた。

「……本当にこれでいいの?」

「うん」

「後悔しない?」

「すると思う」

「じゃあ、やめなよ」

「でも」

 桜子は笑った。

「景が幸せなら、それでいい」

「桜子」

「私ね」

 桜子は空を見上げた。

「景のことが好き」

 その言葉を。

 今度は、隠さなかった。

「すごく好き」

 玲子は何も言わなかった。

「だから」

 桜子は胸元に手を当てた。

「好きだから、身を引くことにした」

「……バカじゃないの」

「うん」

「ほんと、バカ」

「分かってる」

 桜子は笑った。

 涙を浮かべながら。

「でも、好きな人には幸せになってほしいから」

 玲子は桜子の肩を抱いた。

「……あたし、あんたのそういうところ嫌い」

「そう」

うっすら笑う。

「褒めてない」

「うん」

「でも」

 玲子は小さく息を吐いた。

「放っておけない」

 桜子は何も言わなかった。

 ただ。

 玲子の肩に少しだけ頭を預けた。

 2人はそのまま歩いた。

     *

 その頃。

 俺は1人で大学の中庭にいた。

 夕暮れの空を見上げる。

 どうしてだろう。

 何か大切なものを、知らないうちに失いかけている。

 そんな気がしてならなかった。

 でも。

 俺には、それが何なのか分からない。

 桜子のことなのか。

 葵のことなのか。

 メグミ先輩のことなのか。

 それとも。

 自分自身のことなのか。

 答えは出なかった。

 ただ。

 秋の風が吹いていた。

 俺はその風の中で。

 まだ見えない未来を、ぼんやりと見つめていた。

 そして。

 桜子もまた。

 自分の胸に残る恋心を抱えたまま。

 静かに、俺から離れる道を選び始めていた。

 それが正しいことだと。

 自分に言い聞かせながら。

 ――本当は。

 最後の最後まで。

 そばにいたいと思っているのに。


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