第十二章 見えない答え
秋の気配が、少しずつ濃くなっていた。
朝晩は肌寒くなり、キャンパスを歩く学生たちの服装も、夏の名残を残したものから少しずつ変わっている。
俺は講義を終え、いつものようにサークルの練習場所へ向かっていた。
「景」
後ろから声がした。
振り返る。
「ああ、葵」
「今から練習?」
「ああ」
「私も」
「じゃあ、一緒に行くか」
「うん」
並んで歩く。
最近、こういう時間が増えた。
練習前に少し話す。
練習が終われば、一緒に片付ける。
帰る時間が合えば、そのまま駅まで歩く。
特別な約束をしているわけではない。
それでも、気づけばいつも近くにいる。
「景、今日のところさ」
「ん?」
「もう少しだけ合わせたい」
「さっきの?」
「うん。私、どうしてもあそこ苦手で」
「じゃあ、練習終わったらやろう」
「本当?」
「ああ。俺もあそこ、まだ納得してないし」
葵の顔が明るくなる。
「よかった」
その笑顔を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
音楽を始める前の俺は、こんな感覚を知らなかった。
誰かと同じ音を出す。
相手の呼吸を感じる。
少しずれれば、互いに修正する。
うまくいけば、言葉にしなくても分かる。
葵とは、それが自然にできるようになっていた。
「景」
「ん?」
「なんか、最近上手くなったね」
「葵もだろ」
「そうかな」
「ああ」
「じゃあ……景のおかげってことにしようかな」
「何で俺のおかげなんだよ」
「教えてくれるから」
「自分で練習してるだろ」
「でも、景がいると練習はかどる」
その言葉に、俺は一瞬だけ返事ができなかった。
葵は気づいていないようだった。
譜面を見ながら、楽しそうに笑っている。
俺はその横顔を見つめた。
――好きだ。
もう、それは自分でも分かっていた。
けれど、まだ言葉にはしたくなかった。
言葉にした瞬間、今まで自然に積み重ねてきたものが変わってしまいそうだった。
だから。
今は、このままでいい。
そう思っていた。
*
「……あれ?」
その様子を、少し離れた場所から見ている人間がいた。
玲子だった。
練習場所へ向かう途中、偶然目に入った。
景と葵。
2人で譜面を覗き込みながら話している。
距離が近い。
けれど、嫌な近さではない。
むしろ。
長い時間を一緒に過ごしてきた人間にしか作れないような、自然な距離だった。
「……葵ちゃんと、あんな感じなんだ」
玲子は足を止めた。
景は笑っている。
葵も笑っている。
何でもない光景。
なのに、妙に気になった。
桜子から聞いていた話では、景はメグミ先輩に夢中だった。
だから桜子が身を引こうとしている。
玲子は、そう理解していた。
でも。
今、目の前にいる景は。
メグミ先輩のことなど忘れているように見えた。
もちろん、玲子は景とメグミの関係を詳しく知らない。
ただ、桜子があそこまで思い詰めるほどの関係なのだと思っていた。
「……待って」
玲子は眉を寄せた。
「じゃあ、桜子は何を見てるの?」
景はメグミ先輩だけを見ている。
そう思っていた。
でも。
違うのではないか。
そんな疑問が、初めて玲子の中に生まれた。
*
その日の練習が終わったあと。
玲子は景を待っていた。
「景」
「ん?」
「ちょっといい?」
「何?」
「少し話そう」
景は不思議そうな顔をした。
「また桜子のこと?」
「……まあ、それもある」
「何だよ、それ」
「いいから」
2人で大学の中庭へ向かった。
夕方のキャンパスには、講義を終えた学生たちが行き交っている。
ベンチでは数人組の学生が談笑し、少し離れたところでは、何人かが楽器を片付けていた。
玲子はその様子を眺めながら言った。
「景ってさ」
「ん?」
「メグミ先輩のこと、まだ好きなの?」
景の表情が変わった。
「……何で?」
「気になっただけ」
「桜子から聞いた?」
「それだけじゃない」
玲子は景を見る。
「前に見たから」
「何を?」
「一緒にいるところ」
景は黙った。
「……まあ」
「まあ?」
「憧れはある」
「今も?」
「ああ」
玲子は少し意外に思った。
「好きなの?」
「それは……」
景は言葉を探す。
「よく分からない」
「分からない?」
「あの人は、俺にとって特別だったから」
「だった?」
「今も特別だよ」
景は少し笑った。
「でも、それが即恋愛なのかというとそうじゃない」
玲子は黙った。
「じゃあ、桜子は?」
今度は、景の表情が曇った。
「桜子?」
「好きなの?」
「……」
「答えにくい?」
「そういうことじゃない」
「じゃあ何?」
「桜子は大事な存在だよ」
玲子はため息をついた。
「それ、桜子が一番聞きたくない答えじゃない?」
「……そうかもしれない」
「なのに、あんたは優しくする」
「傷つけたくないから」
「それが余計に傷つけることもあるんじゃない?」
「わかってる」
景は静かに答えた。
「でも、どうすればいいのか分からない」
その声には、取り繕った感じがなかった。
玲子は少しだけ驚いた。
もっと自分勝手な男だと思っていた。
桜子を振って。
メグミ先輩を追いかけて。
葵と妙に仲が良くて。
そのくせ桜子には優しくする。
そういう男だと思っていた。
でも。
違う。
少なくとも、本人は自分が何をしているのか分からないほど鈍感なだけなのかもしれない。
「……あんたって、本当に面倒くさいね」
「よく言われる」
「褒めてないから」
「知ってる」
景が笑う。
玲子も、思わず笑った。
「何笑ってんの」
「いや」
「何よ」
「玲子と話してると楽だなと思って」
「……は?」
「何でも言えるから」
玲子は一瞬、言葉を失った。
それから顔を背ける。
「……そういうこと、さらっと言うのやめて」
「何で?」
「知らない」
胸の奥が、少しだけ騒がしかった。
*
翌日。
玲子は桜子と昼食を食べていた。
「ねえ、桜子」
「何?」
「景ってさ」
桜子の箸が止まる。
「うん」
「メグミ先輩と付き合ってるの?」
「……わからない」
「わからない?」
「私も、ちゃんと聞いたことないから」
「そっか」
玲子は考え込んだ。
「景、あんたが思ってるほどメグミ先輩だけを見てないんじゃない?」
「え?」
「昨日、葵ちゃんと話してるところ見た」
桜子の顔が少し曇った。
「葵ちゃん?」
「うん」
「……仲いいよね」
「かなりね」
玲子は言った。
「でも、桜子」
「何?」
「景がメグミ先輩しか見てないって、誰が決めたの?」
桜子は答えなかった。
「……私」
「どうして?」
「だって」
桜子は俯いた。
「景がずっと憧れてた人だから」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど……」
「桜子」
「うん」
「本当に、それだけ?」
桜子は黙った。
玲子には、分からなかった。
なぜ桜子が、そこまで自分を低く評価するのか。
景が誰を好きなのか。
それは本人にしか分からない。
なのに桜子は、最初から負けを認めている。
「……もう少し、景本人を見たほうがいいんじゃない?」
玲子はそう言った。
「私が?」
「そう」
「でも……」
「まあ、あたしが口出すことじゃないけど」
玲子は弁当をつついた。
「ただ、あんたが勝手に諦めるのは違う気がする」
桜子は玲子を見る。
「玲子……」
「何?」
「ありがとう」
「何で?」
「私のこと、考えてくれてるから」
「当たり前じゃん」
玲子は笑った。
「親友なんだから」
その言葉は、本心だった。
それだけは間違いなかった。
*
数日後。
俺と玲子は、大学から一緒に駅へ向かっていた。
「今日、サークルないの?」
「ない」
「珍しいな」
「今日は教室が取れなくて休み」
「そっか」
駅までの道を歩く。
「景」
「ん?」
「この前の話だけど」
「何?」
「葵ちゃんのこと」
俺は少し黙った。
「……何?」
「好きなの?」
また、その質問。
「玲子、お前最近そればっかりだな」
「気になるんだもん」
「何で?」
「桜子のため」
即答だった。
俺は苦笑する。
「本当に桜子のこと好きだな」
「当たり前」
「でも、何で俺にそこまで聞くんだ?」
「……」
玲子は黙った。
「桜子が好きだから」
「それだけ?」
「それだけ」
言い切る。
なのに。
自分の胸の奥に、わずかな違和感が残った。
景と話しているとラクだ。
言葉が合う。
変に気を遣わなくていい。
自分が思ったことを、そのまま言える。
そんな相手は、玲子にとって珍しかった。
「……あんたさ」
「ん?」
「意外と話しやすいね」
「今さら?」
「今さら」
「最初は嫌ってただろ」
「そりゃそうでしょ」
「桜子を振った最低男だから?」
「そう」
玲子は笑った。
「でも、ちょっと違った」
「どう違う?」
「思ってたより、ちゃんとしてる」
「褒めてる?」
「一応」
「ありがとう」
「調子乗らないで」
2人で笑う。
駅が見えてきた。
そのときだった。
「あれ?」
聞き覚えのある声。
俺が振り返る。
「涼子さん?」
そこには、涼子さんと静ちゃんがいた。
「こんばんは、景くん」
「こんばんは」
静ちゃんが俺を見る。
「景くん、その人は?」
「ああ」
俺は玲子を見る。
「友達。赤坂玲子」
「よろしく」
玲子が笑う。
「赤坂玲子です」
「こちらこそ」
涼子さんは玲子をじっと見た。
金髪のロング。
華やかな服装。
明るい笑顔。
大学生らしい若さと、どこか人を惹きつける雰囲気。
涼子さんは、ふっと笑った。
「景くんも、やるね」
「何がですか?」
「こんなキラキラした女子大生と一緒に歩いてるなんて」
「いや、そういうんじゃ……」
「ふふ」
涼子さんは楽しそうだった。
一方。
静ちゃんは笑っていなかった。
「……」
玲子を見つめている。
「静ちゃん?」
「……何でもない」
「どうした?」
「別に」
静ちゃんは玲子から目を逸らした。
けれど。
その視線には、明らかな警戒があった。
涼子さんは玲子に興味を持っている。
でも。
静には別の感覚があった。
この人は危ない。
理由は分からない。
ただ。
景くんの近くにいると、何かが変わってしまう。
そんな気がした。
「じゃあ、またね」
「はい」
涼子さんと静ちゃんが去っていく。
玲子はその背中を見ながら笑った。
「何あれ」
「いつもあんな感じ」
「面白い親子だね」
「まあな」
「……景」
「ん?」
「景くんって呼ばれてるんだ」
「そうだけど」
「へえ」
玲子は少しだけ笑った。
「人気者じゃん」
「全然」
「いやいや」
玲子は景の顔を見る。
「自覚なさすぎ」
「何の?」
「……何でもない」
玲子は前を向いた。
*
翌日の夕方。
俺は練習室で葵と2人きりになった。
「みんな帰ったね」
「ああ」
「もう少し練習する?」
「葵がいいなら」
「したい」
2人で楽器を構える。
音を合わせる。
何度も繰り返す。
最初は合わなかった部分が、少しずつ噛み合っていく。
最後の音が消えた。
葵が俺を見る。
「……今の、よかったね」
「ああ」
「景」
「ん?」
「私、景と一緒に楽器弾くの好き」
「俺も」
葵は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、もっと上手くなろう」
「ああ」
「一緒に」
その言葉が、妙に胸に響いた。
一緒に。
その2文字が、何度も頭の中に残る。
俺はもう一度、葵を見る。
好きだ。
やっぱり。
でも。
まだ言わない。
この時間を大切にしたかった。
*
その帰り。
玲子が大学の門の傍らにいた。
偶然だった。
少なくとも、本人はそう思っていた。
そして。
また、景と葵を見た。
2人は楽しそうに話している。
葵が笑う。
景も笑う。
その距離は近い。
けれど、2人ともそれを意識していないように見える。
「……やっぱり」
玲子は小さく呟いた。
メグミ先輩だけじゃない。
景には、葵との間にも何かがある。
それは恋なのか。
それはまだ分からない。
でも。
桜子が考えているほど単純な話ではない。
そう確信した。
そして同時に。
玲子自身にも、変化が起きていることを認めざるを得なかった。
景と話したい。
もう少し、景のことを知りたい。
あいつが何を考えているのか。
何を大切にしているのか。
どうして、あんなに不器用なのか。
気になって仕方がない。
「……何であたしが」
玲子は苦笑した。
もちろん。
理由は分かっている。
桜子のためだ。
親友が好きになった男だから。
だから気になる。
……そういうことだ。
*
翌週。
昼休み。
俺が食堂へ向かっていると、玲子がいた。
「景」
「また?」
「また」
「最近よく会うな」
「大学狭いからね」
「そうかな」
「そうだよ」
玲子は笑った。
「一緒に食べる?」
「ああ」
自然に並んで歩く。
以前なら考えもしなかったことだった。
桜子の親友。
俺を警戒していたギャル。
それだけの関係だった。
なのに。
今は、妙に話しやすい。
「景」
「ん?」
「今度、桜子と一緒に遊ぶんだけど」
「へえ」
「景も来る?」
「いいの?」
「別に」
「じゃあ行く」
「即答なんだ」
「桜子が喜ぶだろ」
「……そっか」
玲子は少しだけ笑った。
「そういうところなんだよね」
「何が?」
「何でもない」
玲子は前を向いた。
胸の奥が、また少しだけ騒いだ。
けれど。
それを深掘りはしない。
大切な親友が好きな男なのだから。
その一線だけは、越えてはいけない。
*
その頃。
桜子は1人で大学の図書館にいた。
参考書を開いている。
英語の長文。
経済学の課題。
次のサークル活動の準備。
やることはいくらでもある。
だから。
景のことを考える暇なんてない。
そう思っていた。
けれど。
ふと顔を上げる。
窓の向こうに、景の姿が見えた。
隣には玲子がいる。
2人で話している。
玲子が笑う。
景も笑う。
桜子はしばらく、その光景を見つめていた。
「……玲子」
少し不思議だった。
玲子が景とこんなに自然に話している。
最初はあれほど嫌っていたのに。
桜子は小さく笑った。
「よかった」
自分の親友が。
景と普通に話せるようになった。
それだけなのに、嬉しかった。
でも。
胸の奥には、ほんの少しだけ寂しさが残った。
自分が離れようとしている場所へ。
玲子が近づいていく。
そんな感覚があった。
それでも。
桜子は何も言わなかった。
もう、自分で決めたことだから。
景を困らせない。
景の幸せを邪魔しない。
そのために。
自分は少し離れたところにいる。
それでいい。
そう思いながら。
桜子は再び参考書へ目を落とした。
*
ある日の夜。
俺は1人で大学を出た。
空が赤く染まっている。
今日も、いろいろなことがあった。
葵と練習して。
玲子と話して。
桜子とも少しだけ言葉を交わした。
メグミ先輩からは、帰り際に短いメッセージが届いていた。
『今度、また会おうね』
画面を見つめる。
胸の奥に、昔から変わらない感情が少しだけ蘇った。
憧れ。
恋。
それとも、そのどちらでもないもの。
まだ、俺には分からない。
でも。
今の俺の周りには、いろいろな人がいる。
桜子。
葵。
メグミ先輩。
玲子。
そして、涼子さんや静ちゃん。
それぞれが違う形で、俺の日常の中にいる。
以前の俺なら。
こんなことを考えもしなかった。
ただ1人の人を追いかけて。
その人に振り向いてもらうことだけを考えていた。
今は違う。
俺はまだ、恋愛が得意じゃない。
臆病でもある。
それでも。
少しずつ、前に進んでいる気がする。
誰かを好きになること。
誰かに好かれること。
誰かを傷つけてしまうこと。
その全部を経験しながら。
俺は少しずつ、自分が何を望んでいるのかを考え始めていた。
そして。
その変化に気づいている人間が、俺の知らないところで増えていた。
葵は、自分の気持ちを確かなものにしつつある。
桜子は、好きだからこそ身を引こうとしている。
玲子は、桜子のためという理由を抱えたまま、少しずつ俺自身を見るようになっている。
そして。
まだ誰も、その先にある答えを知らない。
ただ。
秋の風が吹いていた。
俺は空を見上げる。
そして。
明日もまた大学へ行く。
そんな当たり前の日常が。
少しずつ、何かを変え始めていた。




