↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
はじまりの音  作者: Randa
PR
13/15

第十三章 憧れを、胸の奥へ

 その日の講義が終わったのは、16時を少し回った頃だった。

 いつもなら、そのままサークル棟へ向かう。

 管弦楽団の練習は18時から21時まで。

 それまでの時間に軽く食事を済ませたり、楽器の準備をしたりするのが、最近の俺の日課になっていた。

 けれど、その日はすぐには向かわなかった。

 大学の中庭にあるベンチに座って、ぼんやりと空を眺めていた。

 秋の気配が少しずつ混じり始めた空は、高く、青かった。

「……メグミ先輩」

 口に出してしまってから、自分でも少し驚いた。

 最近、以前ほど先輩のことを考えなくなっていた。

 葵と一緒にいる時間が増えた。

 桜子や玲子と話すことも増えた。

 大学生活そのものが忙しくなって、その中にいるだけで1日が終わる。

 だから、メグミ先輩との関係について考える時間は、少しずつ減っていた。

 それでも。

 忘れたわけではない。

 忘れられるわけもない。

 俺にとって、あの人は初めて本気で憧れた女性だった。

 綺麗で。

 優しくて。

 少し大人で。

 俺が知らなかった世界を、いくつも見せてくれた。

 そして俺は、その人と体を重ねた。

 何度も。

 そのたびに、もしかしたらいつか、この関係が別のものになるんじゃないかと思った。

 恋人になれるんじゃないか。

 いつか先輩が、俺だけを見てくれるんじゃないか。

 そんな希望を捨てきれなかった。

 でも。

 今なら分かる。

 俺は、最初からわかっていたのだ。

 メグミ先輩にとって、俺は恋人ではなかった。

 寂しい夜にそばにいてくれる人。

 自分を求めてくれる年下の男。

 そして、先輩自身も気づいていなかった何かを埋めてくれる存在。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 それなのに俺は、その関係に自分で意味を与えようとしていた。

 好きだから。

 憧れているから。

 だから、いつか変わるはずだと。

「……バカだな、俺」

 苦笑した。

 でも。

 バカだったからこそ、分かったこともある。

 人を好きになることは、相手から何かをもらうことじゃない。

 まして、相手を自分のものにすることでもない。

 好きになった。

 それだけで、その気持ちは自分の中に残る。

 たとえ叶わなくても。

 たとえ相手に同じ気持ちがなくても。

 それは、自分が過ごした時間まで嘘にするものじゃない。

「……そういうことなのかな」

 誰に聞くでもなく呟いた。

「何が?」

「うわっ」

 突然、後ろから声がして、俺は本気で驚いた。

「そんなに驚く?」

「葵……」

 葵が立っていた。

 肩から楽器ケースを下げている。

「景、こんなところにいたんだ」

「ああ。ちょっと考え事」

「珍しいね」

「そうか?」

「うん。景って、考え事してても顔に出ないから」

「俺ってわかりやすい?」

「今日はわかった」

 葵は隣に座った。

「何考えてたの?」

「……昔のこと」

「昔?」

「ああ」

 俺は少し迷った。

 メグミ先輩のことを話すつもりはなかった。

 葵に隠し事をしたいわけではない。

 ただ、今の俺には、まだ言葉にして整理できていない部分があった。

「昔の自分のこと」

 そう答えると、葵はそれ以上聞かなかった。

「そっか」

「聞かないの?」

「話したくなったら話してくれるでしょ」

「……たぶんな」

「じゃあ、待ってる」

 葵は笑った。

 その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥が軽くなる。

「そろそろ行く?」

「うん」

 立ち上がった葵が、俺の顔を見た。

「少し元気になった?」

「……ああ」

「よかった」

 その一言が、妙に嬉しかった。

     *

 18時。

 練習が始まった。

 いつものように基礎練習から入り、その後、全体合奏へ移る。

 ホールに響く音。

 何十人もの楽器が重なり、1つの音楽になっていく。

 春のころとは明確に違う。明らかに完成度は上がっている。

 曲が終わった。

 指揮者から指示が飛ぶ。

「もう1度、同じところから」

 俺たちは楽器を構える。

 葵と目が合った。

 ほんの一瞬。

 それだけで、葵が小さく笑った。

 俺も笑う。

 そして、また音楽が始まった。

 21時。

 練習が終わった。

「疲れた……」

 葵が伸びをする。

「今日、結構やったからな」

「景、このあと帰る?」

「ああ」

「じゃあ駅まで一緒に行こう」

「うん」

 並んで歩く。

 夜の大学は、昼間とはまるで違っていた。

 学生の姿も少なく、建物の明かりだけが道を照らしている。

「今日ね」

 葵が言った。

「何?」

「合奏してるとき、景の音がすごく近くに感じた」

「近く?」

「うん」

 葵は少し照れたように笑った。

「前より、景と一緒に弾いてるって感じがした」

「……なんか、わかるかも」

 自然に言葉が出た。

「俺も、そう思った」

 葵がこちらを見る。

「本当?」

「ああ」

 それ以上は言わなかった。

 でも、胸の中では分かっていた。

 俺は今、この時間を大切にしたいと思っている。

 過去ではなく。

 まだ来ていない未来でもなく。

 今、この瞬間を。

     *

 その数日後。

 俺はメグミ先輩から連絡をもらった。

『今日、少し会えない?』

 スマートフォンの画面を見つめる。

 以前なら、迷わなかった。

 会いたい。

 その気持ちだけで動いていた。

 今は違う。

 会えば、きっと嬉しい。

 会えば、昔みたいに胸が高鳴る。

 それでも。

 俺はしばらく画面を見たまま動けなかった。

 そして、返信した。

『わかりました』

 結局、会うことにした。

 最後に。

 そんな気持ちが、自分の中にあった。

     *

 待ち合わせたのは、大学から少し離れた静かな場所だった。

「景くん」

 メグミ先輩が笑う。

「久しぶり」

「そうですね」

「なんだか、少し雰囲気変わった?」

「そうですか?」

「うん」

 先輩は俺の顔を覗き込んだ。

「大人っぽくなった」

「先輩に言われると変な感じですね」

「どうして?」

「昔は子供扱いされてたから」

「あはは。そうだったね」

 先輩が笑う。

 その笑顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。

 懐かしい。

 やっぱり、好きだったんだと思う。

 今でも。

 完全になくなったわけではない。

 ただ。

 もう、それを追いかけようとは思わなかった。

「景くん」

「はい」

「最近、忙しい?」

「講義とか課題とかサークルとか」

「そっか」

 先輩は少し寂しそうに笑った。

「私、ちょっと寂しいかも」

 その言葉に、以前なら飛びついていた。

 俺が必要とされている。

 そう思えたから。

 でも、今は違った。

「……先輩」

「うん?」

「俺たち、このままじゃいけないと思います」

 メグミ先輩の表情が止まった。

「……どうして?」

「俺が、先輩に期待し続けるから」

「期待?」

「恋人になれるんじゃないかって」

 先輩は何も言わない。

「でも、もうわかってます」

 言葉にすると、不思議なくらい静かだった。

「先輩にとって俺は、恋人じゃない」

「景くん……」

「だからって、今までのことを後悔してるわけじゃないです」

 それだけは、本当だった。

「俺、先輩にたくさんのものをもらいました」

「……何それ」

「恋愛だけじゃなくて」

 俺は笑った。

「人を好きになることとか。誰かを求めることとか。自分がどういう人間なのかとか」

 メグミ先輩の目が少し潤んだ。

「そんなこと言わないでよ」

「すみません」

「謝らないで」

 先輩は俯いた。

「私は……」

 声が震える。

「私は、景くんに甘えてただけなのかもしれない」

「……」

「景くんなら、私を嫌いにならないと思ってた」

 その言葉を聞いて、胸が締め付けられた。

 先輩は泣いていた。

「ごめんね」

「先輩」

「ごめん……」

 俺は何も言えなかった。

 抱きしめることもできた。

 昔なら、きっとそうしていた。

 でも。

 今はできなかった。

 それをしたら、また同じところに戻ってしまう。

「先輩」

 俺は静かに言った。

「俺、先輩のこと嫌いになれません」

 先輩が顔を上げる。

「でも、もう恋人になりたいとも思いません」

「……うん」

 涙を拭いながら、先輩が笑った。

「そっか」

「はい」

「景くん、大人になったね」

「先輩のおかげです」

「それ、ずるいなあ」

 先輩は泣きながら笑った。

 いつもの笑顔だった。

 俺が憧れていた、あの笑顔。

 それを見た瞬間。

 俺の中で、何かが静かに終わった。

 嫌いになったわけじゃない。

 むしろ、これからもきっと好きだ。

 でも。

 追いかけることはやめる。

 この人を、自分の未来に置こうとすることもやめる。

 憧れは憧れのまま。

 俺の胸の奥に、大切にしまっておけばいい。

     *

 帰り道。

 俺は1人で夜の街を歩いた。

 不思と、悲しくなかった。

 もっと泣くと思っていた。

 もっと苦しくなると思っていた。

 でも。

 胸の中にあったのは、寂しさよりも、どこか清々しい感覚だった。

 終わった。

 ようやく。

 本当に。

 俺は前を向ける。

 そう思った。

 スマートフォンが震えた。

 葵からだった。

『今日はお疲れさま。明日、また練習で会おうね』

 俺は画面を見て、自然に笑っていた。

『うん。明日もよろしく』

 送信する。

 それだけなのに。

 胸が温かくなる。

 俺は歩きながら、これまでのことを思い返した。

 桜子。

 葵。

 玲子。

 涼子さん。

 静ちゃん。

 そして、メグミ先輩。

 気づけば、俺の周りにはたくさんの人がいる。

 その一人一人が、違う形で俺の人生に関わっている。

 誰かを好きになることも。

 誰かに好かれることも。

 誰かとすれ違うことも。

 全部、これからの俺を作っていくのだろう。

「……よし」

 小さく呟いた。

 まだ、何も決まっていない。

 桜子の気持ちにも。

 葵との未来にも。

 玲子との関係にも。

 何一つ答えは出ていない。

 でも。

 もう過去に答えを求める必要はない。

 メグミ先輩への憧れは、捨てない。

 忘れもしない。

 それは俺が確かに恋をした証だから。

 ただ。

 それを胸の奥にしまって、俺は自分の人生を歩いていく。

 駅へ向かう足取りが、少しだけ軽くなった。

     *

 翌日。

 講義が終わると、俺はいつものようにサークル棟へ向かった。

 18時からの練習。

 扉を開ける。

「景!」

 葵がこちらを振り向いた。

「遅いよ」

「まだ始まってないだろ」

「でも来るの遅かった」

「悪かった」

 葵が笑う。

 俺も笑う。

 そして楽器を手に取った。

 譜面台を立てる。

 弓を持つ。

 いつもの場所に座る。

 その瞬間。

 ふと思った。

 これでいい。

 俺はもう、過去を追いかけなくていい。

 今ここにある音を、今ここにいる人たちとの時間を大切にしていけばいい。

コンサートマスターが指揮棒を持って前に立った。

「それじゃあ、始めます」

 団員たちが一斉に楽器を構える。

 最初の音が鳴った。

 その音の中に、俺は自分のこれからを探していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。