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はじまりの音  作者: Randa
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第十四章 君と聴いた音

 秋が深まってきていた。

 講義を終えて大学を出る頃には、空が少しずつ暗くなっている。

 俺は楽器ケースを肩に掛け、サークル棟へ向かっていた。

 18時から21時までの練習。

 それが、最近の俺にとって当たり前の時間になっている。

 扉を開けると、すでに何人かの団員が来ていた。

「景、お疲れ」

「お疲れ」

 声を掛けながら自分の場所へ向かう。

 少し離れたところで、ヴィオラを持った葵がこちらに気づいた。

「あ、景」

「お疲れ」

「今日、早いね」

「いつも通りだろ」

「そう?」

 葵が笑う。

 その笑顔を見ただけで、胸の奥が少し温かくなった。

 最近、こんなことが増えた。

 葵を見つけるだけで嬉しい。

 練習が始まる前に少し話せるだけで嬉しい。

 同じ曲を演奏して、どこかで音が重なれば嬉しい。

 練習が終わって、帰る時間が同じなら、それだけで一日の終わりが少し楽しみになる。

 俺はもう、気づいていた。

 ずっと前から。

 ただ、それを認めるのが怖かっただけだ。

「景?」

「ん?」

「どうしたの?」

「いや」

 俺は笑った。

「今日も楽しいと思って」

「……何それ」

 葵が笑う。

「変なの」

「そうか?」

「うん。でも、いいんじゃない」

 その言葉を聞いて、俺も笑った。

     *

 その日の合奏は、いつもより長かった。

 何度も同じ部分を繰り返す。

 俺の音。

 葵のヴィオラ。

 それぞれの場所から聞こえてくる音が、全体の中で一つになっていく。

 以前は、ただ楽譜を追っていた。

 今は違う。

 音楽そのものが楽しい。

 そして、その中に葵がいることが嬉しい。

 21時。

 練習が終わった。

 団員たちが楽器を片付け始める。

「景」

「ん?」

「ちょっとだけ残らない?」

「いいけど」

「さっきのところ」

「ああ」

 葵と2人で、少しだけ残る。

 ヴィオラと俺のヴァイオリン。

 同じフレーズを何度か繰り返す。

「もう一回」

「うん」

「今の、ちょっと早かった」

「景も」

「俺も?」

「うん」

「じゃあ、お互い様だな」

「そういうこと」

 葵が笑う。

 何度か繰り返して。

 ようやく、ぴたりと合った。

 音が消える。

 静寂が戻る。

「……今の」

「うん」

「よかったね」

「ああ」

 葵が楽器を下ろした。

「なんか、嬉しい」

「俺も」

「最初の頃、こんなに合わなかったのに」

「そうだったな」

「今は、景の音が分かる」

 葵がそう言った。

「景が少し迷ったときも分かる」

「そんなに?」

「分かるよ」

 葵は笑った。

「ずっと一緒に練習してるから」

 その言葉に、胸の奥が強く揺れた。

 ずっと一緒に。

 それは、音楽の話だ。

 分かっている。

 それでも。

 俺には、その言葉が別の意味を持って聞こえた。

「葵」

「ん?」

「俺さ」

 言葉が止まる。

「どうしたの?」

「……いや」

「?」

「帰ろう」

「うん」

 その日は、それ以上言えなかった。

     *

 大学から駅へ向かう夜道。

 俺と葵は並んで歩いていた。

 21時を過ぎている。

 昼間の学生たちの姿はほとんどなく、街灯の下を俺たちだけが歩いている。

「今日、寒いね」

「ああ」

「冬になったら、もっと寒くなるね」

「そうだな」

「今年もあっという間だったな」

「まだ終わってないだろ」

「でも、もう秋だよ」

 葵が空を見上げる。

「春に会って、夏に合宿して……」

「合宿、結構前のことみたいだな」

「うん」

 葵が笑う。

「でも、全部覚えてる」

「ああ、そうだな」

 あの頃のことを思い出す。

 朝から夜まで音楽のことばかり考えていた日々。

 疲れ切って、それでも誰かと話したくて。

 くだらないことで笑った。

 その中で、葵と過ごした時間が少しずつ増えていった。

 俺は、その頃からもう始まっていたのだと思う。

 ただ、それを恋と認める余裕がなかった。

 メグミ先輩のこと。

 桜子のこと。

 自分の過去。

 いろいろなものが邪魔をしていた。

 けれど。

 今なら分かる。

 俺が前を向こうとしたとき。

 一番自然に隣にいたのは、葵だった。

「景」

「ん?」

「また、来年も一緒に弾けたらいいね」

 葵が言った。

 俺は足を止めた。

「景?」

 葵も止まる。

 街灯の下。

 俺たちは向き合っていた。

「……来年だけじゃなくて」

「え?」

「もっと先も」

 葵の目が少し大きくなる。

「ずっと一緒に弾けたらいいと思う」

「……うん」

 葵が小さく頷いた。

 俺はその顔を見ていた。

 もう、逃げる理由はなかった。

 怖い。

 もちろん怖い。

 もし断られたら。

 もし今までの関係に戻れなくなったら。

 それでも。

 言わなければ、何も始まらない。

 メグミ先輩とのことを終わらせたとき。

 俺は過去を胸の奥にしまった。

 それは、誰かを好きになることをやめるという意味じゃない。

 むしろ。

 もう一度、自分の気持ちを信じるためだったのだと思う。

「葵」

「うん」

「俺、葵のことが好きだ」

 言った。

 とうとう。

 ずっと胸の中にあった言葉を。

「友達としてとか、音楽仲間としてとかじゃなくて」

 葵は黙っている。

「一緒にいたいと思ってる」

 喉が乾く。

「もっと、葵のことを知りたい」

 葵の目が潤んだ。

「だから……」

 俺は一度、息を吸った。

「俺と付き合ってほしい」

 長い沈黙だった。

 葵は俯いた。

 俺は何も言わずに待った。

 やがて。

「……ずるい」

「え?」

「景、ずるいよ」

 葵は泣きそうな顔で笑った。

「私だって、ずっと好きだった」

 その瞬間。

 胸の奥にあったものが、一気にほどけた。

「……本当?」

「本当」

 葵が頷く。

「ずっと、景のことが好きだった」

 そして。

「だから……よろしくお願いします」

 葵は恥ずかしそうに笑った。

「こちらこそ」

 俺も笑った。

 それだけだった。

 派手なことなんて何もない。

 夜の大学から駅へ向かう道。

 街灯。

 冷たい風。

 それだけ。

 でも。

 俺にとっては、人生で忘れられない瞬間になった。

     *

 翌日。

 俺はいつもと同じように大学へ行った。

 何かが劇的に変わったわけではない。

 講義を受けて。

 昼食を食べて。

 講義を受けて。

 サークルへ行く。

 ただ。

 今までと一つだけ違うことがあった。

 葵と目が合うと。

 2人とも、少し照れて笑ってしまう。

「おはよう」

「おはよう」

「……なんか変だね」

「何が?」

「昨日まで普通だったのに」

「そうだな」

「でも……」

 葵が小さく笑った。

「嬉しい」

「俺も」

 それだけで、十分だった。

     *

 その日の昼。

 桜子と玲子は、大学の食堂にいた。

「ねえ、桜子」

「何?」

「景、何か変じゃない?」

「え?」

「今日、なんか妙に機嫌よくない?」

 桜子は少しだけ顔を上げた。

 視線の先。

 景がいた。

 葵と話している。

 2人とも笑っている。

 そして。

 葵が景を見る目を見て。

 桜子は、すぐに感じた。

「……そうだね」

「やっぱり?」

 玲子も見ている。

 そして、玲子は小さく息を吐いた。

「そっか」

「玲子?」

「いや」

 玲子は笑った。

「なんとなくわかった」

 桜子は何も言わなかった。

 胸の奥が、少しだけ痛い。

 でも。

 同時に。

 どこか納得していた。

 景は、葵を見ている。

 その目は。

 以前、自分が見ていた景の目とは違う。

 もっと自然で。

 もっと柔らかい。

 そして。

 嬉しそうだった。

「……葵ちゃんなんだ」

 桜子が小さく呟く。

「たぶんね」

 玲子は答えた。

「……そっか」

 桜子は笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。

「桜子」

「大丈夫」

「無理しなくていいよ」

「大丈夫だから」

 桜子はもう一度笑った。

「景が幸せなら、それでいい」

 その言葉を聞いて。

 玲子は何も言えなかった。

 それが桜子の本心なのか。

 自分に言い聞かせているだけなのか。

     *

 その日の夕方。

 崇は大学の構内で景を見つけた。

「景」

「ああ、崇」

「ちょっといいか?」

「何?」

 崇は少し迷った。

「……水野さんと、付き合うことになったんだって?」

 景は驚いた。

「何で知ってる?」

「桜子から聞いた」

「そうか」

「おめでとう」

「ありがとう」

 崇は笑った。

 けれど、その笑顔は少し複雑だった。

 景は気づかなかった。

 崇にとっては。

 桜子を好きだった時間がある。

 そして今でも。

 完全に諦めたわけではない。

 けれど。

 桜子が景を好きだということも知っている。

 だからこそ。

 景が誰かを選んだことに、文句を言うつもりはなかった。

「……景」

「ん?」

「桜子のこと」

 景は黙った。

「ちゃんと大事にしてやってくれ」

「……ああ」

 崇はそこで苦笑した。

「まあ、もう俺が言うことじゃないけどな」

「崇?」

「いや」

 崇は景の肩を軽く叩いた。

「幸せになれよ」

「お前もな」

 崇は笑った。

 その笑顔の奥にあるものを。

 景は知らない。

     *

 メグミ先輩にも、俺は自分から伝えた。

「先輩」

「どうしたの?」

「俺、付き合ってる人ができました」

 先輩は一瞬だけ目を見開いた。

「……そう」

「はい」

「葵ちゃん?」

「……知ってたんですか?」

「なんとなく」

 メグミ先輩は笑った。

「最近の景くん、葵ちゃんと話してるとき、すごく嬉しそうだったから」

 俺は少し恥ずかしくなった。

「そうでした?」

「うん」

 先輩は優しく笑った。

「よかったね」

「ありがとうございます」

「ちゃんと大事にしてあげてね」

「はい」

 それから少しだけ沈黙した。

「景くん」

「はい」

「私とのことも、無理に忘れなくていいからね」

 俺は先輩を見た。

「……はい」

「私も、景くんと過ごした時間は忘れない」

 先輩はいつもの笑顔だった。

 少しだけ寂しそうで。

 でも。

 どこか嬉しそうだった。

 俺は思った。

 これで、本当に終わったんだ。

 寂しくないと言えば嘘になる。

 でも。

 もう振り返る必要はない。

 俺は前を向く。

 葵と一緒に。

     *

 夜。

 俺がアパートへ帰る途中。

「景くん」

 声を掛けられた。

「涼子さん」

 仲本親子だった。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 静ちゃんも隣にいる。

「景くん」

「ん?」

「最近、何か嬉しいことあった?」

「え?」

「顔が違う」

 静ちゃんはじっと俺を見る。

「そう?」

「うん」

 涼子さんが笑った。

「もしかして、好きな人でもできた?」

「……まあ」

「あら」

 涼子さんは楽しそうに笑う。

「おめでとう」

「ありがとうございます」

「景くんも、ついにねえ」

「ついにって……」

 涼子さんが俺の腕を軽く叩く。

「でも、寂しくなるわね」

「何でですか?」

「さあ?」

 涼子さんは意味ありげに笑った。

「これからも私は景くんの味方だけど」

「それは助かります」

「ただし」

 涼子さんが少し近づく。

「困ったことがあったら、いつでも私のところに来てね」

「はい」

「夜でもいいから」

「……はい」

 俺は少しドキッとした。

 相変わらず距離が近い。

 涼子さんは笑っている。

「ふふ」

「何ですか?」

「景くん、ちょっと顔赤いよ」

「寒いからです」

「そういうことにしておこうか」

 涼子さんは楽しそうだった。

 その横で。

 静ちゃんは黙っていた。

 景くんに好きな人ができた。

 たぶん。

 それだけじゃない。

 誰なのか。

 いつからなのか。

 静はまだ聞いていない。

 でも。

 最近の景くんの様子。

 大学から帰ってくる時間。

 スマートフォンを見るときの顔。

 そして。

 時々、何かを思い出したように笑うこと。

 静は、それらを頭の中で一つずつ繋げていた。

「……」

 何を考えているのか。

 母にも。

 景にも。

 静自身からは何も分からない。

「静ちゃん?」

「ん?」

 涼子さんに声をかけられ、軽く首を傾げた。

「帰ろう」

「そうだね」

 3人はそれぞれの部屋へ向かった。

     *

 翌週。

 玲子は、景と駅まで歩いていた。

「ねえ」

「ん?」

「葵ちゃんと付き合ったんだって?」

「ああ」

「おめでとう」

「ありがとう」

「……そっか」

 玲子は少しだけ空を見た。

 自分でも不思議だった。

 もっと何か思うと思っていた。

 寂しいとか。

 悔しいとか。

 そういう感情が出てくると思っていた。

 けれど。

 実際には、思ったより静かだった。

 むしろ。

 安心していた。

 景は、ちゃんと自分の気持ちを決めた。

 桜子でもなく。

 メグミ先輩でもなく。

 曖昧なままではなく。

 自分が好きだと思った人を、自分の意思で選んだ。

 玲子はそれが嬉しかった。

「景」

「ん?」

「あんた、ちゃんと男だったんだね」

「何それ」

「最初はさ」

 玲子は笑った。

「桜子を振った最低男だと思ってた」

「ひどいな」

「だって本当じゃん」

「まあ……そうだけど」

「でも」

 玲子は少しだけ景を見る。

「今は、そこまで嫌いじゃない」

「それはよかった」

「むしろ」

 言葉が止まる。

 胸の奥に、小さな違和感が生まれた。

 それ以上考えない。

「何でもない」

「そう?」

「うん」

 玲子は笑った。

 それから。

「葵ちゃん、大事にしなよ」

「もちろん」

「ならいい」

 駅が近づいてくる。

 玲子はその横顔を見ながら思った。

 もし。

 ほんの少しだけ早く。

 景のことを知っていたら。

 もし。

 桜子の親友という立場でなかったら。

 そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。

 玲子はすぐに消した。

 まだ恋なんかじゃない。

 そうなる前に。

 自分で閉じてしまえばいい。

「じゃあね」

「また明日」

「うん」

 玲子は手を振った。

 景が去っていく。

 その背中を見ながら。

 玲子は静かに佇んでいた。

     *

 そして。

 桜子は1人、大学の図書館にいた。

 参考書を開いている。

 けれど。

 文字が頭に入ってこない。

 景と葵。

 2人が付き合った。

 その事実を、もう知っている。

 おめでとう、と言った。

 笑って。

 祝福もした。

 それは嘘ではない。

 本当に。

 景には幸せになってほしいと思っている。

 けれど。

 ページをめくる指が止まった。

「……」

 胸の奥が痛い。

 好きだった。

 ずっと。

 今も。

 その気持ちは消えていない。

 景が葵を選んだからといって。

 それだけで、自分の気持ちがなくなるわけではない。

 そんな当たり前のことに。

 桜子は今さら気づき始めていた。

「……私」

 小さく呟く。

 何を考えているのか、自分でも分からない。

 諦めると決めた。

 景の幸せを邪魔しないと決めた。

 なのに。

 胸の奥には。

 まだ消えていないものがある。

 それは嫉妬なのか。

 未練なのか。

 それとも。

 もっと別のものなのか。

 桜子には、まだ分からなかった。

 ただ。

 1つだけ。

 どうしても消えない思いがある。

 ――私は、景が好き。

 その事実だけは。

 何をしても消えてくれなかった。

 桜子は目を閉じる。

 そして、ゆっくり息を吐いた。

 今は。

 まだ何も決めなくていい。

 そう思った。

 けれど。

 このとき、桜子の胸の奥で。

 小さな何かが、確かに動き始めていた。

     *

 その夜。

 俺は葵と電話をしていた。

「今日、楽しかったね」

「ああ」

「なんか変な感じ」

「何が?」

「景と付き合ってるって」

「俺も」

「明日も会える?」

「サークルあるだろ」

「そうじゃなくて」

 葵が笑う。

「会える?」

「会えるよ」

「よかった」

 その声を聞きながら、俺は窓の外を見る。

 夜空に星が見えた。

 思えば。

 俺はずっと迷っていた。

 誰かを好きになることが怖かった。

 失うことが怖かった。

 傷つくことが怖かった。

 でも。

 怖いままでも、一歩進むことはできる。

 それを教えてくれたのは。

 今、電話の向こうにいる葵だった。

「葵」

「ん?」

「これからもよろしく」

「うん」

 少しだけ間があって。

「こちらこそ」

 その声が、嬉しかった。

 俺は笑った。

 これで。

 きっと。

 俺たちの物語は、幸せな結末へ向かっている。

 桜子との関係も。

 崇との関係も。

 玲子との関係も。

 メグミ先輩との関係も。

 涼子さんや静ちゃんとの関係も。

 それぞれが、それぞれの場所へ収まった。

 そんな気がした。

 だから。

 俺は思った。

 ――これでいい。

 これで、よかったんだ。

 そう思っていた。

 けれど。

 まだ俺は知らなかった。

 物語には。

 最後の一言が残されていることを。

 そして。

 その言葉を口にするのが。

 誰なのかも。

 まだ、俺は知らなかった。


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