最終章 本心
大学の講義が終わった午後、俺はキャンパスのベンチで葵を待っていた。
以前なら、誰かを待つという行為に、これほど心が浮つくことはなかったと思う。
けれど今は違う。
スマートフォンを確認する。
『あと5分くらい』
葵から届いた短いメッセージを見て、自然と頬が緩んだ。
たったそれだけのことで嬉しくなる。
自分でも笑ってしまうくらい、単純だった。
「景」
顔を上げる。
葵がこちらへ歩いてくる。
ヴィオラを背負った姿は、いつもの練習のときと変わらない。
けれど、以前とは何かが違って見えた。
「待った?」
「いや。今来たところ」
「絶対嘘」
「なんでだよ」
「景、暇になるとすぐスマホ見るから」
「……見てた?」
「見てた」
葵が笑う。
俺も笑った。
こんなくだらないやり取りが、今はたまらなく嬉しい。
「今日はどうする?」
「駅前寄ってから帰る?」
「いいね」
葵が俺の隣に並ぶ。
肩が触れそうなくらい近い。
それだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
恋人になった。
それは、たった一言で表せる変化だった。
けれど、俺にとっては、それまでの時間全部をひっくり返すくらい大きな出来事だった。
誰かを好きになること。
その気持ちを認めること。
そして、自分から誰かを選ぶこと。
俺には、ずっとできないと思っていた。
メグミ先輩への憧れを捨てられず、桜子の気持ちを知りながら答えを出せず、葵への想いにも気づかないふりをしていた。
そんな俺が。
今は、葵と一緒に歩いている。
「景」
「ん?」
「なんか嬉しそう」
「そう?」
「うん」
葵が少しだけ俺の顔を覗き込む。
「私といるの、そんなに楽しい?」
「……楽しいよ」
「そっか」
葵は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見る。
俺は、この笑顔を守りたいと思った。
それは、これまで感じたどんな憧れとも違う感情だった。
*
その日の練習終了後。
外へ出ると、すっかり夜だった。
「疲れた……」
葵が肩を回す。
「今日、結構きつかったな」
「景、途中から楽しそうだったけど」
「そう?」
「うん。音が違った」
「……葵には分かるのか」
「分かるよ」
そう言って葵が笑う。
俺は少し照れくさくなった。
音楽を通して互いを知る。
言葉だけでは伝わらないものを、音なら伝えられることがある。
その感覚を、俺たちは少しずつ共有するようになっていた。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
2人で夜道を歩く。
以前と同じ道。
同じ街。
なのに、景色は少し違って見えた。
葵が俺の袖を軽くつまむ。
「景」
「ん?」
「手、つないでもいい?」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
「……今さら聞く?」
「だって、一応」
「いいよ」
手を差し出す。
葵の手が重なる。
温かい。
そのまま歩く。
何も特別なことは起きない。
けれど。
俺には、それで十分だった。
*
週末。
メイツ馬場の前には、涼子さんが立っていた。
「あら、景くん」
「涼子さん」
「お帰り?」
「うん」
その隣には静ちゃんもいる。
「景くん」
「静ちゃんもいたのか」
「うん」
静ちゃんは俺と葵を見る。
そして、つないでいる手に視線を落とした。
「静ちゃん、どうしたの?」
葵が声をかける。
涼子さんと静ちゃんとは2人の時に何度かあっていて面識がある。
「何でもない」
静ちゃんはいつものように答えた。
けれど、その目だけは何かを考えているようだった。
涼子さんはそんな娘を見てから、俺たちを見る。
「葵ちゃん、最近ますます可愛くなったわね」
「えっ」
葵が照れる。
「景くんも幸せそう」
「……そう見えます?」
「見える」
涼子さんは楽しそうに笑った。
「よかったわね」
「ありがとう」
葵が頭を下げる。
「じゃあ、私たちは帰るから」
「またね、葵ちゃん」
「はい」
俺たちが歩き出す。
しばらくしてから振り返ると、静ちゃんがまだこちらを見ていた。
「静ちゃん、どうしたんだろう」
「さあ」
俺にはわからなかった。
ただ。
あの子は俺が思っているよりずっといろんなことを見ている。
そんな気がした。
*
翌週。
大学の中庭で、玲子と桜子が並んで座っていた。
「……本当に付き合ったんだ」
「うん」
玲子は空を見上げた。
「そっか」
それ以上、何も言わなかった。
桜子はそんな親友の横顔を見る。
「玲子」
「ん?」
「私……」
「いいよ」
「え?」
「言わなくてもわかる」
玲子は笑った。
「桜子がどんな顔してるかくらい、長い付き合いなんだからわかるって」
「……ごめん」
「謝らないで」
玲子は桜子の頭を軽く撫でた。
「それに、あたしも最初は景のこと最低な男だと思ってたけど」
「今は?」
「普通にいい奴だと思う」
「……そう」
「でも」
玲子は少しだけ笑った。
「だからって、桜子が諦めなきゃいけない理由にはならないんじゃない?」
桜子が顔を上げる。
「玲子……」
「ただし」
玲子は指を一本立てた。
「相手に彼女がいるんだから、ちゃんと筋は通しなよ」
「うん」
「無理やり奪うとかはなし」
「そんなことしない」
「知ってる」
玲子は笑った。
それから、桜子の肩に頭を預ける。
「……頑張れ、桜子」
小さな声だった。
*
同じ頃。
農学部の講義を終えた崇は、1人でキャンパスを歩いていた。
スマートフォンを見る。
桜子からの連絡はない。
当然だった。
もう、自分から連絡する理由もない。
以前の告白を思い出す。
『勉強とサークルが忙しいから』
あの言葉が本当の理由だったのか。
それとも。
自分を傷つけないための優しい嘘だったのか。
もう、どちらでもよかった。
ただ。
桜子が景と一緒にいるのを見ると、胸の奥が少し痛む。
それでも。
景が葵を選んだことは、崇も知っている。
曖昧なまま誰も選ばない男だったら、きっと今まで以上に嫌っていた。
けれど景は、最後には自分の気持ちを選んだ。
「……泣かすなよ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
そして。
自分もいつか、この恋を思い出として笑える日が来ることを願った。
*
メグミ先輩とも、俺はきちんと話をした。
「そう」
メグミ先輩は笑っていた。
「葵ちゃんと付き合ったんだ」
「はい」
「おめでとう」
その笑顔には、寂しさがほんの少しだけ混じっていた。
「先輩」
「うん?」
「俺……」
「言わなくていいよ」
メグミ先輩は笑った。
「私も、景くんには幸せになってほしいから」
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
メグミ先輩は、いつものように明るかった。
それが少しだけ切なかった。
俺にとって、メグミ先輩は特別な人だ。
たぶんこれからも。
憧れは消えない。
でも。
もう、それを恋と呼ぶ必要はない。
俺は胸の中に、その気持ちをそっとしまった。
大切な思い出として。
*
そして。
ある日の夕方。
俺は桜子と2人で大学の構内を歩いていた。
「景」
「ん?」
「少し話したい」
「いいけど」
桜子の声は、いつもより静かだった。
俺たちは人の少ない中庭へ向かった。
夕暮れの光が、校舎の壁を赤く染めている。
桜子が立ち止まった。
「景」
「うん」
「葵ちゃんと付き合ったんだよね」
「ああ」
「……おめでとう」
「ありがとう」
桜子は笑った。
少しだけ震えていた。
「私ね」
桜子は胸の前で手を握った。
「ずっと考えてた」
「何を?」
「景のこと」
俺は黙った。
「崇くんに告白されたときも」
「……うん」
「断ったあとも」
桜子はゆっくりと言葉を続ける。
「景のことが好きなのか、それともただ景の近くにいることが楽しいだけなのか、わからなくなったこともあった」
風が吹く。
桜子の長い黒髪が揺れた。
「でも」
桜子は俺を見る。
「やっぱり、好きだった」
胸が締めつけられた。
「景と一緒にいると楽しい」
「……うん」
「景に優しくされると嬉しい」
「……うん」
「景が誰かと楽しそうにしてると、少し寂しい」
桜子は笑った。
「そんな自分が嫌になることもあった」
俺は何も言えなかった。
「メグミ先輩のことを考えて、諦めようと思った」
桜子の目に、ほんの少し涙が浮かぶ。
「私にはかなわないって、ずっと思ってた」
「桜子……」
「でも違った」
桜子は首を横に振る。
「私が勝手にそう思ってただけだった」
そして。
涙を拭った。
「景は葵ちゃんを選んだ」
「ああ」
「それはわかってる」
桜子はまっすぐ俺を見る。
「だから、葵ちゃんから景を奪いたいわけじゃない」
「……」
「今すぐ振り向いてほしいわけでもない」
桜子は一度だけ深呼吸した。
そして。
今まで見たことのないほど強い目で俺を見つめた。
「でも」
声が震える。
それでも、言葉は止まらなかった。
「私は、やっぱり景のことを諦めない」
胸を張って。
泣きそうな顔で。
それでも笑おうとして。
「だって、好きだから」
俺は何も言えなかった。
桜子は笑った。
「困らせちゃったね」
「……いや」
「でも、これだけは言いたかった」
夕暮れの空を背に、桜子は俺を見ていた。
「これからも、私は私のやり方で頑張る」
「桜子」
「景の彼女は葵ちゃん」
「……ああ」
「それはちゃんとわかってる」
桜子は少しだけ笑う。
「だから、今までみたいに友達でいて」
「もちろん」
「それでいい」
そう言った桜子の目には、もう涙はなかった。
「いつか景が私を見てくれる日が来るかもしれない」
「……」
「来ないかもしれない」
それでも。
桜子は笑った。
「でも、それを決めるのは景だから」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
ただ。
この子は、俺が思っていたよりずっと強い人なのだと思った。
いつも控えめで。
少し臆病で。
自分の気持ちを胸の奥にしまってしまう。
そんな桜子が。
最後の最後に、自分の言葉で未来を選んだ。
「……わかった」
俺はそう言った。
桜子は一瞬だけ目を丸くして。
それから笑った。
「うん」
その笑顔は、今まで見たどの笑顔とも少し違っていた。
*
帰り道。
俺は1人で歩いていた。
スマートフォンを見る。
葵からメッセージが届いている。
『今日、夕飯どうする?』
俺は笑って返信した。
『一緒に食べよう』
すぐに返事が来る。
『うん』
その短い言葉を見る。
俺には、帰る場所がある。
待っていてくれる人がいる。
それだけで十分だと思った。
けれど。
それと同時に。
俺の背中には、別の未来を選んだ少女の声が残っていた。
『私は、やっぱり景のことを諦めない』
恋は終わらない。
始まったからといって、すべてが決着するわけでもない。
誰かを選んだからといって、他の誰かの想いが消えるわけでもない。
俺たちはこれからも大学へ行き。
講義を受け。
音楽を奏で。
笑って。
喧嘩して。
仲直りして。
それぞれの人生を歩いていく。
その途中で、また誰かを好きになるかもしれない。
誰かを傷つけるかもしれない。
思いがけない人に心を動かされることだってあるかもしれない。
涼子さんのような、大人の女性に振り回されることも。
静ちゃんの考えていることに驚かされることも。
玲子に呆れられることも。
崇のように、叶わない恋を抱えることも。
メグミ先輩のことを、ふと思い出す夜もあるだろう。
そして。
葵と過ごす日々の中で、俺自身もまだ知らない自分を見つけることになるのだと思う。
大学生活は、まだ終わっていない。
人生だって、始まったばかりだ。
俺は歩きながら、空を見上げた。
夕暮れは、いつの間にか夜へ変わり始めていた。
スマートフォンを握る。
もう一度、葵からのメッセージを見る。
そして。
少しだけ笑った。
俺の隣には、今、葵がいる。
それでいい。
今は、それでいい。
けれど。
俺の知らないところで。
桜子はきっと、また歩き始めている。
諦めることをやめた少女として。
自分の未来を、自分の足で選ぶために。
恋は、終わらない。
青春も。
人生も。
まだ、何も終わっていない。
だから俺も。
前を向いて歩いていく。
大切な人の手を取りながら。
そして。
その少し後ろから追いかけてくる、もう1つの想いを知らないまま。
俺たちの物語は、まだ続いていく。




