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旅の先にある食卓   作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第七章 高い棚


 二度目の英国旅行の前、私は父を訪ねた。

 

敏夫は新聞を読み、眼鏡を外すと、私の顔を少し見上げた。

「電話でよかったのに」

「来られたから」

「病院は」

「今日は休み」

「院長も休めるのか」

「休めるようにしてる」

 私は茶を淹れた。父が使う急須は蓋が少し欠けていた。新しいものを買おうかと言うと、これでいい、と答えた。

「何を持っていくんだ」

「佐里の頼んだもの。味噌とか、肌着とか」

「金で買えるものは、向こうにもあるだろう」

「味噌は、いつものがいいらしい」

「それなら、持っていくといい」

 父は茶をひと口飲んだ。

「お父さん」

「何だ」

「僕が生まれたとき、嬉しかった?」

 父は湯呑みを持ったまま、こちらを見た。

「妙なことを聞く」

「佐里の子供を見に行くから。ちょっと思って」

「嬉しかったよ」

 私はそれだけで済ませるつもりだった。ところが父は湯呑みを置いた。

「母さんは、ずいぶん苦労した」

「出産のとき?」

「そのあとも」

 香織は六十二歳で亡くなった。父はそれ以来、母の話をするときに、出来事の前と後を行き来することがあった。

「おまえ、よく泣いたんだ」

「聞いたことがある」

「どう持てばいいか、わからなかった」

「赤ん坊を?」

「ああ」

 私は湯呑みの底を見た。

「看護師さんに聞いたの」

「香織に聞いた。首を支えるんだって、何度も叱られた」

 父は少し笑った。

「医者だから、わかると思われる。わからんものは、わからん」

 私は、祖母の家の夕食を思い出した。父はどこから来たのかと尋ね、魚の骨を皿へ置いた夜だ。

「彩音おばあちゃんに、甘えたりした?」

 父は新聞の端を揃えた。

「よくしてもらった」

「うん」

「学校にも行かせてもらった。医者にしてもらった」

 私は待った。

「だから、困らせたくなかった」

 窓の外で、車が一台通り過ぎた。父はその音が消えるまで何も言わなかった。

「おまえが、落ちたときな」

「高校?」

「一年くらい、どうということはない、と言った」

「覚えてるの」

「おまえは、怒った」

「怒ったね」

「安心させたかったんだ」

 私は笑いかけたが、うまく笑えなかった。

「そうは聞こえなかった」

「そうだろうな」

 父は眼鏡を掛けた。しかし新聞は開かなかった。

 帰る前に、次はいつ来る、と父が聞いた。

「帰国したら、また電話する」

 父はうなずいた。私は玄関で靴を履きながら、それでは答えになっていない、と気づいた。

「帰って最初の日曜日。昼、一緒に食べよう」

「病院はいいのか」

「何かなければ。何かあったら、時間を変える」

「じゃあ、何を食べる」

「そのとき決めよう」

 父は、そうか、と言った。私は扉を閉める前に、もう一度その顔を見た。

 ロンドンでは、ダニエルが空港へ迎えに来た。車の後部座席には赤ん坊用の座席があった。いまは空のその席を見て、私は娘の家へ行くのだと実感した。

 家の扉を開けると、知っている顔の佐里が、知らない部屋に立っていた。

「長かった?」

「長かった」

「お父さん、顔がむくんでる」

「寝られなかったんだよ」

「いつも飛行機で寝てない?」

 私は鞄を置いた。娘を抱きしめようとしたが、佐里はすでに知恵の手から荷物を受け取っていた。

「それ重いから、下に置いて」

 台所から、湯の沸く音がした。ベビーベッドの中でマヤが眠っていた。

 佐里に抱かせてもらうと、私はまず首を支えた。

「そう。そこ」

 娘が言った。

「わかってる」

「緊張してるじゃん」

 孫は顔をしかめ、口を小さく開いた。抱く前に想像していたよりも軽い。しかし、腕を動かすのが怖くなる重さだった。

「お父さん、息して」

「してる」

「顔が、卒業式のときと同じ」

 ダニエルが写真を撮った。

 翌朝、知恵は台所に立ち、味噌汁を作ろうとした。佐里は薬の時間を確かめ、ダニエルは洗濯機を回していた。誰も大声を出さないのに、部屋はよく動いていた。

「ボウル、どこにあるの」

 知恵が尋ねた。

「上から二段目」

「また上に戻したの?」

「下の棚、マヤのものを置くことにした」

 知恵は棚を見た。そこには哺乳瓶や消毒の道具が並んでいた。

「そう。じゃあ、踏み台ある?」

 佐里が椅子を持ってきた。知恵は何も言わずに、ボウルを取った。

 昼前、マヤが泣いた。知恵は、お腹かしら、と言い、私は眠いのかもしれない、と言った。ダニエルは赤ん坊を抱いて、窓際へ歩いた。

「いまは、この歩き方が好きなんです」

 佐里が彼の言葉を訳した。

 ダニエルはゆっくり歩き、赤ん坊の背中に手を添えた。しばらくすると、泣き声が短くなった。彼は私たちを見ず、歩く速さを変えなかった。

 私は椅子へ戻った。

 その午後、佐里と近所を歩いた。赤ん坊はダニエルと知恵に任せた。娘はまだ歩幅が小さく、私は先へ行きそうになるたび、足を緩めた。

「傷、痛むか」

「ときどき」

「無理しなくていい」

「無理しないために、ちょっと歩いてる」

 公園のベンチに座った。湿った葉が、靴の底についていた。

「電話で、日本ならって言って、ごめんな」

 私は言った。

 佐里は前を見ていた。

「心配だったんでしょう」

「うん」

「私も、待ってるとき、何度も思った。日本なら、すぐお姉ちゃんたちに聞けるのにって」

「智彦にも、聞けたな」

「でも、ダニエルが隣にいたから」

 娘は上着の裾を引いた。

「あの人も、怖かったと思う。それでも、説明を聞いて、私に言い直してくれた」

「そうか」

「ここで産むって決めたから、怖くなくなるわけじゃないんだね」

 私は娘の横顔を見た。

「お父さんも、いまでも怖いことある?」

「ある」

「院長なのに?」

「院長だから、あることもある」

「大変だね」

 娘は少し笑った。

 帰り道、佐里が私の腕を取った。歩きにくいのかと思って止まると、いいから、と言った。そのまま、二軒分ほどを並んで歩いた。

 一週間は、授乳と洗濯と食事の間に過ぎた。

 私は観光へほとんど行かなかった。近所の店でパンを買い、頼まれたものを忘れ、もう一度買いに出た。午後にはソファで眠ってしまい、目を覚ますと、胸の上に薄い毛布が掛かっていた。

 帰国の前夜、ダニエルが食事を作った。知恵がマヤを抱き、佐里は久しぶりに温かいものを、温かいうちに食べた。

「ありがとう」

 私が言うと、ダニエルは料理のことだと思い、うなずいた。

「佐里と、マヤのこと」

 拙い英語で足した。

 彼は少し考えてから、自分の家族だから、と答えた。謝意を退ける声ではなかった。ただ、引き受けているものの名前を、彼は知っていた。

 佐里が私の皿にパンを置いた。

「お父さんも食べて。話してばかりだと冷める」

 私はパンをちぎった。

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