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旅の先にある食卓   作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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9/9

第八章 帰る日の朝


 出発の朝、雨が降っていた。

 ダニエルは車に荷物を積み、知恵は私の上着のポケットへ、旅券が入っているか確かめた。

「自分で確かめた」

「私も確かめたの」

 佐里はマヤを抱いていた。赤ん坊は寝ていて、別れのことを何も知らなかった。

「次は、いつ来る?」

 娘が聞いた。

「仕事と相談して」

 言い慣れた返事が出た。父の玄関が思い浮かんだ。

「来年の春に、まず予定を見てみる。決めたら、早めに言う」

「うん。まだ決められなくても、話して」

 知恵はクリスマスまで残る。娘の家で何をすればよいか、何を娘たちに任せるかを、妻は毎日覚えていた。私はその途中で帰る。

「お父さん、一人で大丈夫?」

「帰るだけだから」

「家で。お母さんいないよ」

「米は炊ける」

 佐里が笑った。

「水、少なめにね」

「あれは、たまたまだ」

「ずっと覚えてるよ」

 私は娘の肩へ手を置いた。今度は娘が先に寄ってきた。マヤを挟まないよう、身体を少し斜めにして、短く抱き合った。

「来てくれて、ありがとう」

「会いたかったんだよ」

 口に出すと、理由はそれだけだった。

 空港へ向かう車の中で、ダニエルは佐里の小さいころについて尋ねた。

 私は、よく話す子だった、と答えた。彼は、いまもそうだ、と笑った。

 しばらくして、静かになる時期もあった、と私は言った。彼はうなずいたが、説明を求めなかった。

 窓ガラスを、ワイパーが往復していた。

「あなたは、佐里から聞いているんだろう」

 私が尋ねると、彼は聞いている、と答えた。

「全部ではないと思うけれど」

 それから、少し考えて言った。

「必要なときに、話してくれます」

 私は何と答えてよいかわからず、前を見た。車は信号で止まった。雨に濡れた歩道を、子供が長靴で歩いていた。隣の大人は、その歩幅に合わせていた。

 空港で、私はダニエルと握手をした。彼がもう片方の手を私の肩へ添えたので、私もそうした。

「また」

 日本語で彼が言った。

「また」

 私は答えた。

 飛行機に乗るまでの間、家族の写真を何度も見た。そのたび、昨日は目につかなかったものが見えた。台所の高い棚。畳まれたタオル。ソファの脇に置かれた知恵の眼鏡。

 父に送る文章を打った。

〈これから帰る。日曜日、予定どおり行くよ〉

 少しして返事が来た。

〈わかった。気をつけて〉

 そのあと、もう一通届いた。

〈魚でいいか〉

 私は笑った。幼いころ、父が皿の端へ置いた骨まで思い出した。

〈いいよ。楽しみにしてる〉

 送信すると、搭乗を知らせる声が聞こえた。

 父は、私に与えられなかったものを、知っていたのだろうか。私は、佐里にしてやれなかったことを、どれほど知っているのだろう。答えを探すと、それぞれの食卓や廊下に立っている自分ばかりが見えた。向こう側にいた人の姿は、話を聞くまでわからなかった。

 それでも、もう聞けない人もいる。

 母なら何と言っただろう。私は母の声を思い出そうとして、先に、診療所の裏口に置かれていたサンダルを思い出した。片方だけ少し外へ向いていた。母が急いで診察室へ戻ったあとだったのかもしれない。

 機内で毛布を膝へ引き上げた。やがて、通路の向こうで赤ん坊が泣き始めた。母親らしい若い女性が立ち、困った顔で周囲へ目を配った。

 私は視線が合うと、小さくうなずいた。女性は赤ん坊を抱き直した。泣き声はすぐにはやまなかった。

 佐里が、部屋の向こうで同じことをしているかもしれない。知恵が湯を沸かし、ダニエルが眠りから起きようとしているかもしれない。父は日曜日の魚を買う店を、もう決めているだろうか。

 私は時計を日本の時刻に合わせた。

 帰れば、病院の朝がある。私を待つ仕事があり、待たずに進んだ仕事もある。会議で何を言うか考えかけて、やめた。いまは、家を出る前に佐里が言ったことを覚えていたかった。

 ずっと覚えてるよ。

 あの柔らかすぎた飯を、私は失敗した昼食としてしか覚えていなかった。娘は、それを別のところへしまっていた。

 窓の外で、翼の先の赤い光が点いた。消え、また点いた。

 私は空いた隣の席から毛布を一枚取り、背中へ当てた。首の位置が決まるまで、何度か身体を動かした。ようやく落ち着いたとき、赤ん坊の泣き声がやんだ。

 日曜日は、父の向かいに座ろうと思った。

 魚の骨を外すあの指を見ながら、英国の台所の話をしよう。話が長くなれば、父は途中で時計を見るかもしれない。そうしたら、時間はまだある、と言おう。

 目を閉じると、ロンドンの部屋の灯りが浮かんだ。佐里がマヤを抱いている。知恵は、椅子を持って高い棚へ手を伸ばしている。

 その先を想像しようとして、私は眠った。  (了)

そして最後に、いつか大きくなって、日本語でこの物語を読めるようになったMayaちゃんへ。


 あなたが生まれる前から、家族のみんなは、あなたに会える日を楽しみにしていました。あなたとママのことが心配で、遠く離れた日本でも、携帯電話を何度も確かめていました。少し騒ぎすぎたところもあるけれど、それほど、二人が大切だったのです。


 あなたが元気に泣いている動画を見たとき、みんながどれほどほっとして、嬉しかったことか。いつかこの物語から、その日の私たちの気持ちが伝わればと思います。


 あなたをお腹の中で育み、心細いときも頑張っていたママ。そのそばにいたパパ。英国と日本で、二人を思い、あなたの誕生を待っていた家族。あなたがまだ私たちの顔も名前も知らないころから、みんな、あなたのことを大事に思っていました。そして、あなたと同じように、ママのことも大事に思っていました。


 いつか一緒にこの本を開いて、「このときはね」と、ここに書ききれなかった話をできたら嬉しいです。


 Mayaちゃん、生まれてきてくれて、ありがとう。

 あなたのおじいちゃんになれたことを、私はとても幸せに思っています。

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