第八章 帰る日の朝
出発の朝、雨が降っていた。
ダニエルは車に荷物を積み、知恵は私の上着のポケットへ、旅券が入っているか確かめた。
「自分で確かめた」
「私も確かめたの」
佐里はマヤを抱いていた。赤ん坊は寝ていて、別れのことを何も知らなかった。
「次は、いつ来る?」
娘が聞いた。
「仕事と相談して」
言い慣れた返事が出た。父の玄関が思い浮かんだ。
「来年の春に、まず予定を見てみる。決めたら、早めに言う」
「うん。まだ決められなくても、話して」
知恵はクリスマスまで残る。娘の家で何をすればよいか、何を娘たちに任せるかを、妻は毎日覚えていた。私はその途中で帰る。
「お父さん、一人で大丈夫?」
「帰るだけだから」
「家で。お母さんいないよ」
「米は炊ける」
佐里が笑った。
「水、少なめにね」
「あれは、たまたまだ」
「ずっと覚えてるよ」
私は娘の肩へ手を置いた。今度は娘が先に寄ってきた。マヤを挟まないよう、身体を少し斜めにして、短く抱き合った。
「来てくれて、ありがとう」
「会いたかったんだよ」
口に出すと、理由はそれだけだった。
空港へ向かう車の中で、ダニエルは佐里の小さいころについて尋ねた。
私は、よく話す子だった、と答えた。彼は、いまもそうだ、と笑った。
しばらくして、静かになる時期もあった、と私は言った。彼はうなずいたが、説明を求めなかった。
窓ガラスを、ワイパーが往復していた。
「あなたは、佐里から聞いているんだろう」
私が尋ねると、彼は聞いている、と答えた。
「全部ではないと思うけれど」
それから、少し考えて言った。
「必要なときに、話してくれます」
私は何と答えてよいかわからず、前を見た。車は信号で止まった。雨に濡れた歩道を、子供が長靴で歩いていた。隣の大人は、その歩幅に合わせていた。
空港で、私はダニエルと握手をした。彼がもう片方の手を私の肩へ添えたので、私もそうした。
「また」
日本語で彼が言った。
「また」
私は答えた。
飛行機に乗るまでの間、家族の写真を何度も見た。そのたび、昨日は目につかなかったものが見えた。台所の高い棚。畳まれたタオル。ソファの脇に置かれた知恵の眼鏡。
父に送る文章を打った。
〈これから帰る。日曜日、予定どおり行くよ〉
少しして返事が来た。
〈わかった。気をつけて〉
そのあと、もう一通届いた。
〈魚でいいか〉
私は笑った。幼いころ、父が皿の端へ置いた骨まで思い出した。
〈いいよ。楽しみにしてる〉
送信すると、搭乗を知らせる声が聞こえた。
父は、私に与えられなかったものを、知っていたのだろうか。私は、佐里にしてやれなかったことを、どれほど知っているのだろう。答えを探すと、それぞれの食卓や廊下に立っている自分ばかりが見えた。向こう側にいた人の姿は、話を聞くまでわからなかった。
それでも、もう聞けない人もいる。
母なら何と言っただろう。私は母の声を思い出そうとして、先に、診療所の裏口に置かれていたサンダルを思い出した。片方だけ少し外へ向いていた。母が急いで診察室へ戻ったあとだったのかもしれない。
機内で毛布を膝へ引き上げた。やがて、通路の向こうで赤ん坊が泣き始めた。母親らしい若い女性が立ち、困った顔で周囲へ目を配った。
私は視線が合うと、小さくうなずいた。女性は赤ん坊を抱き直した。泣き声はすぐにはやまなかった。
佐里が、部屋の向こうで同じことをしているかもしれない。知恵が湯を沸かし、ダニエルが眠りから起きようとしているかもしれない。父は日曜日の魚を買う店を、もう決めているだろうか。
私は時計を日本の時刻に合わせた。
帰れば、病院の朝がある。私を待つ仕事があり、待たずに進んだ仕事もある。会議で何を言うか考えかけて、やめた。いまは、家を出る前に佐里が言ったことを覚えていたかった。
ずっと覚えてるよ。
あの柔らかすぎた飯を、私は失敗した昼食としてしか覚えていなかった。娘は、それを別のところへしまっていた。
窓の外で、翼の先の赤い光が点いた。消え、また点いた。
私は空いた隣の席から毛布を一枚取り、背中へ当てた。首の位置が決まるまで、何度か身体を動かした。ようやく落ち着いたとき、赤ん坊の泣き声がやんだ。
日曜日は、父の向かいに座ろうと思った。
魚の骨を外すあの指を見ながら、英国の台所の話をしよう。話が長くなれば、父は途中で時計を見るかもしれない。そうしたら、時間はまだある、と言おう。
目を閉じると、ロンドンの部屋の灯りが浮かんだ。佐里がマヤを抱いている。知恵は、椅子を持って高い棚へ手を伸ばしている。
その先を想像しようとして、私は眠った。 (了)
そして最後に、いつか大きくなって、日本語でこの物語を読めるようになったMayaちゃんへ。
あなたが生まれる前から、家族のみんなは、あなたに会える日を楽しみにしていました。あなたとママのことが心配で、遠く離れた日本でも、携帯電話を何度も確かめていました。少し騒ぎすぎたところもあるけれど、それほど、二人が大切だったのです。
あなたが元気に泣いている動画を見たとき、みんながどれほどほっとして、嬉しかったことか。いつかこの物語から、その日の私たちの気持ちが伝わればと思います。
あなたをお腹の中で育み、心細いときも頑張っていたママ。そのそばにいたパパ。英国と日本で、二人を思い、あなたの誕生を待っていた家族。あなたがまだ私たちの顔も名前も知らないころから、みんな、あなたのことを大事に思っていました。そして、あなたと同じように、ママのことも大事に思っていました。
いつか一緒にこの本を開いて、「このときはね」と、ここに書ききれなかった話をできたら嬉しいです。
Mayaちゃん、生まれてきてくれて、ありがとう。
あなたのおじいちゃんになれたことを、私はとても幸せに思っています。




