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旅の先にある食卓   作者: しゅんたろう as Augai Moritz


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第六章 豆の名


 桜の写真は三枚あった。

 

ロンドンにもこんな桜が咲くのか、と私は書き、知恵は花の色を褒めた。佐里は返事をせず、三枚目の写真に写る黒い扇形を、私たちは花の影だと思った。

 駿介のメッセージが入った。

〈これ、エコーじゃない?〉

 続いて、百合から祝福の言葉が届いた。

〈お父さんたち、桜ばっかり見てる〉

 佐里が笑う顔を送ってきた。

「何て書けばいい」

 私は知恵に聞いた。

「おめでとう、でいいでしょう」

「いまさら」

「いまでも」

 予定日は十一月一日だという。赤ん坊は、まだ名前がなく、ビーン、豆ちゃんと呼ばれていた。私はうっかり豆君と書き、女の子かもしれないよ、と佐里から訂正された。

 夏、ダニエルの実家のマーシャル家で、赤ん坊の性別を知らせるパーティーがあった。親戚や近所の人が集まり、画面の中の庭には、紙の皿を持った人たちが立っていた。

 女の子とわかったあとで、知恵は名前を聞いた。

「マヤ」

 佐里が言った。

「ダニエルとも話して。二人とも呼びやすいし」

「いい名前ね」

 私は口の中で呼んだ。まだ会ったことのない孫の名は、思っていたより簡単に声になった。

 八月の終わり、知恵は一週間ほど様子を見に行った。帰ってきて、台所の棚が高すぎると言った。

「どこの」

「佐里の家。毎日使うお皿が、あんな上にあるのよ」

「ダニエルが取るんだろう」

「毎回、家にいるわけじゃないでしょう」

「下へ移せばいい」

「移したわ」

 妻は鞄から洗濯物を出した。

「でも、あれはあの子たちの台所だから。何でも私の使いやすいようにはできない」

 秋に入り、佐里が三十二週に入ったころ、破水したと連絡が来た。

 ロンドンでは夜だった。クイーン・エリザベス病院の救急で待っている、と娘は短く書いた。五時間ほど待って診察を受け、そのまま入院になった。

 電話がつながると、佐里はいつもより低い声で話した。

「産道の溶連菌感染も見つかったって。抗生剤、点滴してる」

「熱は」

「ないと思う」

「検査の数字は聞いたか」

 知恵が私を見た。私は口を閉じた。

「肺のための薬も、赤ちゃんのために使うって」

 佐里は説明を受けた内容を、一つずつ思い出しながら話した。知恵が、大丈夫、と言いかけて、別の言葉にした。

「ダニエルは、そこにいる?」

「いる。充電器、取りに行ってくれた」

「そう。あなたは、いま何か食べられるの?」

 佐里の肩が少し下がった。

「サンドイッチ。あんまりおいしくない」

「何が入ってる?」

「わからない。きゅうりはある」

 私は産科医である百合の夫、智彦へ連絡した。彼は経過を聞き、現地で確認してほしい点を短く整理した。

「早産なら、呼吸の補助が必要になるんじゃないか」

「必要になることはあります。ただ、週数だけでは決まりません。いま聞いている話だけで、赤ちゃんの状態を断定はできないです」

 智彦の言葉は落ち着いていた。私はそれを冷たく感じ、次の瞬間、その落ち着きに頼っている自分を知った。

 二日後、佐里は薬を持って退院した。定期的に病院へ戻り、経過を見るという。

 次の診察のあと、家族のLINEに検査資料の写真が届いた。

〈血流が一部よくないって言われた。これ、どういう意味?〉

 写真を拡大すると、英語の略語と数字が並んでいた。その中の一行で、私の指が止まった。

 MCA Doppler PI 1st centile。〔注1〕

 机の向こうでは、知恵が洗濯物を畳んでいた。

「何か、悪かったの?」

「脳の血流の数字が低い」

 妻の手が止まった。

「脳に血が行ってないってこと?」

「いや、そうじゃない。低いというのは、抵抗が……」

 説明の途中で、駿介からメッセージが入った。

〈脳温存ですか。胎盤のほうに問題があるんでしょうか〉

 まだ初期研修医の息子は、当直の合間らしかった。続いて百合から届いた。

〈赤ちゃんの大きさは? 前の検査から増えてる?〉

 私は〈臍帯動脈の値も送って〉と打った。駿介が〈胎児心拍のモニターはしてる?〉と続けた。

 佐里は一つ答えるたび、二つ新しい質問を受け取った。

〈紙に書いてあるものしか、わからない〉

 百合が〈智彦に見てもらうね〉と書いた。それまで速かった画面の動きが、いったん止まった。

 知恵は、畳みかけのタオルを膝へ置いた。

「智彦さんが産婦人科の先生なのよね」

「そうだ」

「じゃあ、どうしてみんな、先に返事をしてるの」

 私は携帯を持ち直した。

「気になるからだよ」

「佐里も、気になって送ってきたんでしょう」

 智彦から電話が来た。百合も隣にいるという。私はスピーカーに切り替えた。

「お父さん、まず、その値は脳への血流が止まっているという意味ではありません」

「それはわかる。だが、一パーセンタイルだろう」

「同じ週数の基準と比べて、かなり低いのは確かです。ただ、低いのは血流の量ではなく、血流の波形から出す指標です」

 知恵が携帯の前へ身を寄せた。

「低いほうが、血は流れるんですか」

「血管の抵抗が小さくなっていることを示す場合があります。赤ちゃんが、脳へ血液を優先して回している可能性もあります」

「それが、駿介の言っている脳温存か」〔注2〕

「はい。ただ、その可能性があるという話と、この赤ちゃんがいま酸素不足だと決めることは、別です」

「どうして、そんな反応をする必要がある」

 私は少し強く言った。

「その原因も含めて、ほかの所見と一緒に見ないといけません。臍帯動脈のPIと、CPRはわかりますか」〔注3〕

「そこが、まだ送られていない」

「赤ちゃんの成長の経過や心拍の記録も、判断の材料になります。測り方でも値は変わるので、再検査で確認したかも知りたいです」

 私は資料をもう一度開いた。白い紙の中に、欲しい情報がないことが腹立たしかった。

「で、帰してしまっているんだよ」

「退院のときに、どこまで確認したかは、この写真ではわかりません」

「破水した妊婦を五時間も待たせて、二日で退院だ。そのあと、こんな数字が出ている。NHSはいったい何をしているんだ」〔注4〕

 知恵が私の顔を見た。私は声を抑えられなかった。

「金がかからなければ、それでいいのか。必要なときに診てもらえなければ、何のための医療だ」

 智彦はしばらく黙った。電話の向こうで、百合の子供が何かを呼ぶ声がした。

「待っていた佐里さんが、不安だったのは確かだと思います」

 彼は言った。

「僕も、何を確認して、どういう計画にしたのか、知りたいです。ただ、待った時間と入院の日数だけでは、診療の中身までは判断できません」

「日本なら、もっと」

「お父さん」

 百合の声だった。

「日本ならって、佐里に言うのはやめようよ。いま、そこで診てもらってるんだから」

 私は返事をしなかった。

「私だって、こっちで産んでくれたらって思うよ。でも、そう言っても、あの子は安心できない」

 智彦が言葉を継いだ。

「現地の担当者に聞くことを、僕から短く送ります。数字が低かったことをどう考えているか、再確認はしているか、次はいつ診るか。急な変化があったときの連絡先も、確認できるといいです」

 私は〈早くもう一度診てもらったほうがいい〉と打ちかけ、指を止めた。

 そのとき、佐里からビデオ通話が入った。ダニエルも隣にいた。娘は笑っていなかった。

「みんな、いったん止まって」

 私は画面へ顔を寄せた。

「説明を聞いたか」

「聞いたよ。だから、わからなかったところを送った」

「ほかの数字も必要なんだ」

「わかってる。でも、送ったら、急に質問がいっぱい来て」

 娘は携帯の向こうで、資料を持ち上げた。

「私、これを見ながら、一人ずつ返してるの。返してる間に、また新しいことを聞かれる」

 ダニエルが娘の手から紙を受け取った。二人が短く話したあと、佐里がこちらを見た。

「怖いことを調べるのは、私にもできるよ。もう調べた」

 私は、息子の送った「脳温存」の文字を思い出した。知っている言葉だからこそ、その先に起こり得ることまで、勝手に見ていた。

「お父さん、私、いま日本に戻れないんだよ」

「心配してるんだ」

「わかってる。私も怖い。でも、先生に何を聞けばいいのか、わかるように言って」

 知恵が、私の隣へ椅子を寄せた。

「智彦さんが、まとめてくれるって。いま電話で話したの」

「うん。それなら助かる」

「それと、お父さん」

 娘は少し間を置いた。

「ダニエルも、ちゃんと聞いてくれてるから」

 私は彼を見た。彼は紙を膝に置き、娘が私の返事を待つ間、黙っていた。

「ありがとう」

 英語で言うと、彼は小さくうなずいた。

 智彦が家族のLINEへ説明を送った。脳の血流が止まったという意味ではないこと。ほかの血流の値や、成長と心拍を合わせて判断すること。次の確認について、担当者へ尋ねること。

 駿介が〈先にいろいろ書いてごめん〉と送った。

〈教科書を思い出したら、心配になった〉

 佐里から、ようやく笑う顔が届いた。

〈医者が多いと、質問も多いね〉

 百合が〈看護師も混ざってます〉と返した。

 私は何を書けばよいかわからず、しばらく画面を見ていた。

 電話を切ったあと、知恵がタオルを畳み直した。

「怒ってもいいと思うわ」

「何に」

「待たせることに。でも、佐里に怒っているみたいに聞こえた」

 私は椅子の背へ身体を預けた。

「そんなつもりはない」

「わかってる。私には」

 家族の画面を開き、短く書いた。

〈心配で、言いすぎた。智彦の説明を一緒に読もう〉

 佐里から〈うん〉と返ってきた。

 私は病院へ行き、いつもの会議に出た。資金にも人員にも限りがある。その中で何を守るかという話をした。地域で働く研修医や看護師を育てるには、時間をかけなければならない、と言った。

 私が院長を務める市立病院は、亡くなった母、香織の生まれた町にあった。循環器を専門にしていたころより、いまは患者の病名以外の話を聞くことが多い。誰が薬を揃えるのか。雪が降れば、通院はどうするのか。その話を若い研修医と一緒に聞き、特定行為を担う看護師を育てていた。

 会議が終わってから、携帯に通知がないか確かめた。

 必要な人へ必要な医療を届ける。その言葉を、私は何度も使ってきた。予算の説明をし、人員の不足を説明し、ときには、待ってもらうことへの理解を求めた。

 昨夜の私は、どの説明にも耳を貸したくなかった。娘を待たせないでほしかった。

 病棟から、家族が面談を待っているという連絡が来た。私は時計を見て、先にそちらへ行くと伝えた。

 三十四週ごろに出産を進める予定が決まった。ところがその二日前、出血があり、佐里は再び入院した。

〈赤ちゃんの脈が速いので、帝王切開になります〉

 ダニエルのメッセージだった。

 家族の画面が、急に静かになった。

 百合が電話をかけてきた。

「お母さんと一緒?」

「うん」

「智彦も、ここにいる。何かわかったら、すぐ教えて」

 駿介からは、勤務の合間に見ている、と届いた。

 私は手術にかかる時間を知っていた。知っていることが、その夜は役に立たなかった。時計を見るたび、なぜまだ連絡がないのかという問いに変わった。

「何分たった」

 知恵が聞いた。

「さっきから十分」

「さっきは何分だった?」

 私は答えず、湯を沸かした。

「何もなければ、連絡してくるはずだろう」

 妻は両手で携帯を持った。

「連絡することより、大事なことをしているのかもしれない」

 私は茶を二つ淹れた。どちらも、そのまま冷めた。

 ダニエルに聞こうとして、文字を打ち、消した。佐里は無事か。赤ん坊はどうか。いまどこにいるのか。どの問いも、返事を知らない彼に差し出しているのかもしれなかった。

 約二時間たって、画面が光った。

〈うまれました。みんなげんきです〉

 ダニエルの日本語だった。

 知恵は何度も同じ行を読んだ。百合が泣く顔を送り、駿介が、おめでとう、と書いた。私は指が滑って、途中のまま送ってしまった。

〈ありがとう。二人を〉

 続けて書いた。

〈二人を、ありがとう〉

 動画が届いた。マヤが泣いていた。細い腕が空気を押し、泣き声の途中で胸が小さくへこんだ。

「よく泣いてる」

 私は言った。

「そうね」

 知恵が答えた。

 私たちは同じ動画を、もう一度見た。

 佐里は術後二日で退院したが、マヤは病院に残った。黄疸の治療を受け、管を通して栄養を入れ、保育器で過ごした。

 帰宅した佐里から電話が来た。

「家、静か」

 私は励ましの言葉を考えた。

「身体を休められるだろう」

 娘はうなずいたが、何も言わなかった。

 知恵が尋ねた。

「マヤちゃんの服は、そこにあるの?」

「ある。洗って、しまってある」

「見せて」

 佐里は箪笥を開けた。小さな服が重ねられていた。

「帰ってきたら、これを着せる?」

「まだ大きいと思う」

「折ればいいわよ、袖を」

 娘は一枚持ち上げ、膝に置いた。

 二週間ほどで、マヤは家に帰った。佐里は、ここからが本番だね、と書いた。夜の授乳で二人とも寝不足だと、ダニエルが笑う顔を送ってきた。

 私は写真の通知が鳴るたび、診察室の時計を見た。こちらの昼は、あちらの明け方だった。


第六章の注釈

〔注1〕MCAは中大脳動脈という、胎児の脳に血液を送る血管。ドプラ検査は超音波で血流を調べる検査で、PIは血流の波形から求める指標。血管の抵抗を推し量る手がかりになる。「1st centile」は、同じ妊娠週数の基準分布の下位約1%にあたる値であり、血流量が正常の1%という意味ではない。

〔注2〕脳温存(brain-sparing)は、胎児が低酸素などに適応して脳へ血液を優先的に配分する反応。MCAのPI低下がその手がかりになる場合があるが、この数値だけで低酸素状態や脳障害を確定できるわけではない。

〔注3〕臍帯動脈(UA)は、胎児から胎盤へ血液を運ぶ血管。CPRは「中大脳動脈のPI÷臍帯動脈のPI」で求める比で、脳側と胎盤側の血流の関係を見る指標。個々の数値に加え、胎児の成長、心拍、妊娠週数などを合わせて判断する。

〔注4〕NHSは英国の公的医療サービス。この場面の発言は、離れて暮らす娘を心配する主人公の受け止め方として描いている。

医学用語の参考 ISUOG 胎児発育不全の診断と管理に関するガイドライン(2020)

https://www.isuog.org/resource/isuog-practice-guidelines-diagnosis-and-management-of-sga-and-fgr.html

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