第五章 画面の式
二十六歳の佐里は、ロンドンの商社、丸菱で働いていた。
現地採用で入った職場の話を、娘は夕食を作りながらした。画面の向こうで玉ねぎを刻み、私たちの相槌を聞きながら、フライパンの火を弱めた。
「帰って働くことは、考えなかったのか」
私はある晩、尋ねた。
「考えたよ」
「こっちでも、仕事はあるだろう」
「あると思う」
娘は鍋の蓋を取った。
「でも、いまはここで働きたい」
理由をさらに聞こうとしたとき、ダニエルが買い物袋を持って帰ってきた。二人は冷蔵庫へしまうものについて短く話した。私の質問は、その途中へ入れなくなった。
結婚式へ行けないと決まったのは、感染症が世界中に広がった年だった。
私は病院で、面会できない家族に電話をする毎日を送っていた。家族が来られないことには、十分な理由がある。十分な理由があっても、病室で待つ人の寂しさは減らなかった。
「延期する?」
知恵が聞いた。
「いつまで?」
佐里が答えた。
妻は黙った。
「お母さんたちに、来てほしかったよ。でも、いつ来られるか誰にもわからないなら」
「うん」
「ここで、二人で始めたい」
式の日、私たちは居間のテーブルにパソコンを置いた。百合が画面の位置を調整し、駿介が音声を確かめた。知恵は花を飾ったが、高すぎて私の顔が隠れた。
「お父さん、花の後ろにいる」
佐里が笑った。
「見えているか」
「花はよく見える」
ロンドンのシティホールは、思っていたより小さな部屋だった。ダニエルの両親が立ち、佐里は淡い色の服を着ていた。画面の隅には、こちらの居間が小さく映っている。
宣誓が始まると、通信が一度止まった。娘は口を少し開けたところで動かなくなった。
「聞こえない」
知恵が言った。
駿介が手を伸ばしかけ、百合が止めた。
「触らないで。戻るから」
数秒後、娘の声が戻った。何を約束したのか、聞き取れなかった部分があった。私はそれを佐里に尋ねなかった。
式のあと、ダニエルが画面に近づいた。
「ありがとうございます」
それから英語で、佐里と一緒に暮らせることが嬉しい、と言った。娘が日本語にし始めたが、私はうなずいた。
「わかる。大丈夫だ」
私のほうが何か言わなければならなかった。
「佐里は……」
昔、学校へ行けなかったことを思い浮かべた。言うべきではないとわかっていても、そこを越えた娘の姿を説明したかった。
「お父さん」
佐里が言った。
「うん」
「いまの私の話をしてね」
娘の声は静かだった。責められたとは思わなかった。しかし、手元に用意していたものが何も使えなくなった。
「二人の暮らしを、大事にしてほしい」
それだけ言った。娘が英語にした。ダニエルはまっすぐこちらを見て、返事をした。
画面を閉じたあと、知恵は花瓶の水を替えた。
「帰ってくるかもしれないって、まだ思ってた?」
「いつでも帰れる家は、必要だろう」
「それは必要。でも、帰ってくるのを待つ家とは、少し違うわね」
私はネクタイを外した。映像では見えなかったが、式の間ずっと、足には普段のスリッパを履いていた。
父へ電話をすると、結婚式は終わったか、と聞かれた。
「終わった。いい式だった」
「そうか」
「遠いな」
思わず言った。
「イギリスは遠い」
「国の話じゃないんだけど」
父はすぐには答えなかった。
「近くにいても、わからんことはある」
私は電話を持ち替えた。父の声の後ろで、いつもの時計が鳴った。




