第四章 卒業の海
最初の英国旅行は、佐里が二十二歳の九月だった。
知恵は卒業式に着る服を何度も出し入れし、私は病院へ残す連絡事項を書き直した。
「そんなに書いて、誰が読むの」
「必要な人が読む」
「必要なところだけにしたら」
妻は私の紙を一枚抜いた。確かに、その一枚には留守中に必要のないことまで書いてあった。
ブライトンへ着いた翌朝、佐里は私たちを海へ連れていった。砂浜だと思っていた浜は小石でできていた。歩くたびに靴底の下で石がずれた。
「何でここを選んだんだ」
「大学?」
「うん」
「調べて、よさそうだったから」
「ほかにもあったろう」
佐里は波のほうを見た。
「ここなら、誰も私の中学を知らないと思った」
知恵が立ち止まった。娘は歩き続けたので、私たちもついていった。
「中学では、うまくやってたんじゃないのか」
「だから。あのころの私ならできるでしょう、って言われないところがよかった」
私は海に向かって開いた、空の広さを見た。
卒業式では、佐里の名前を聞き取るより先に、娘が立つのが見えた。黒いガウンの裾が椅子の端に引っかかり、娘はそれを手で払った。大きな出来事の最中にも、そういう小さな始末が必要なのだと、妙なことを思った。
帰り際、記念写真を撮った。
「お父さん、笑って」
「笑ってる」
「診察室の顔」
ダニエルが日本語で「スマイル」と言ったので、私たちは笑った。写真は少し傾いていた。
夕食は、佐里がアルバイトをしていた中華料理店だった。店主は奥から次々に皿を運び、佐里が多すぎると言うと、人数が多いのだから足りないよりよい、と返した。
「この子、最初は注文を聞き直してばかり」
佐里が店主の話を通訳した。
「いまも、聞き直すことあるよ」
娘は店主へ英語で返し、私たちに説明した。
「わからないのに、わかったふりをしなくなったって」
店主は大きくうなずいた。
メイとセリーヌが遅れて来た。知恵は誰の話にも丁寧にうなずき、聞き取れなければ佐里に助けを求めた。私は箸を持ったまま、話の輪に入る隙を探した。
ダニエルが、私の皿に肉を取った。
「食べられますか」
練習してきたらしい日本語だった。
「食べられる。ありがとう」
彼は安心した顔をした。
「医者は、いつも忙しい?」
私は娘を見た。佐里は通訳をしなかった。返事を待っていた。
「たいていは」
私が英語で答えると、ダニエルは、今日は違う、と言った。
それから自分の皿に肉を取り、隣の客に呼ばれた店主のため、少し椅子を引いた。
食事の終わりに佐里が、店主と一緒に皿を片づけ始めた。卒業祝いの席だから座っていなさい、と知恵が言ったが、娘は厨房まで皿を運んだ。その背中を、私は見送った。
ホテルへ戻る道で、知恵が私の腕に触れた。
「ここで、ちゃんと暮らしていたのね」
「そうだな」
「あなた、少し寂しそう」
「疲れたんだよ」
「そういうことにしておきましょう」
私は否定しなかった。海から来る風が、上着の裾を持ち上げた。




