第三章 海の向こうの席
良子から電話が来ると、家の中の空気は少し変わった。
知恵の姉はニューヨークで証券会社に勤めていた。日本と時間が合わず、ときには私たちの夕飯時に、これから出勤すると言った。背景に映る窓の外には、まだ朝の光がなかった。
「佐里、髪切った?」
「切ってない。結んだだけ」
「似合うね。今度こっちに来たら?」
「英語、できないし」
「私も最初はできなかった」
「良子おばちゃんは、何でもできるじゃん」
「あなた、それ、うちの上司に言ってくれない?」
横から夫のルークが顔を出した。
「良子は、日本語で怒るので、同僚はまだ助かっています」
「ルーク」
「私は助かりません」
佐里が笑った。画面から離れた場所で、私はその声を聞いた。
やがて娘は英語の教材を欲しがった。発音を聞くための機械を食卓へ持ち込み、同じ一文を何度も繰り返した。
「そんなに同じところばかりで、飽きないのか」
「同じじゃない。言えるようになってる」
私は耳を澄ましたが、違いはわからなかった。
「イギリスに行きたい」
佐里が言ったのは、その冬だった。
「ニューヨークじゃなくて?」
知恵が尋ねた。
「大学を調べた。サセックス」
「どこだ」
私が聞くと、娘はパソコンをこちらへ向けた。ロンドンの南に町があり、その近くに大学があった。
「高校はどうする」
「それも調べてる。いまのまま、すぐ行けるとは思ってない」
娘の声には、私の許可を待つだけだったころとは違うものがあった。
「逃げることになるんじゃないか」
言ってから、知恵の顔を見た。妻は何も言わなかった。
佐里は画面を元へ戻した。
「逃げた先で、勉強したら駄目なの?」
私は椅子に座り直した。
「駄目とは言ってない」
「逃げたかどうか、ずっと確かめられるのは嫌だ」
その晩、娘が部屋へ戻ったあとで、知恵が言った。
「心配なら、心配って言えばよかったのに」
「言えば、行かせないつもりだと思うだろう」
「言わなくても、そう聞こえていたと思う」
留学に必要な準備は、一つずつ片づいていった。試験、書類、学費、住む場所。佐里はわからないことを聞いた。私たちにもわからなければ、別の誰かへ尋ねた。
出発の日、私は空港で何度も同じことを言った。
「旅券を落とすなよ」
「うん」
「夜、一人で歩くな」
「うん」
「具合が悪くなったら」
「お父さん」
佐里は肩からずれた鞄を持ち直した。
「具合が悪くなったら、病院に行く」
知恵が笑い、私はそれでようやく、自分も笑ってよいとわかった。
ブライトンのシェアハウスから、最初に届いた写真は台所だった。流しに皿が積まれ、窓辺には誰かのバジルがあった。
「部屋は?」
知恵が聞いた。
「まだ散らかってる」
「台所も散らかってない?」
「ここは、みんなのだから」
台湾から来たメイは、炊飯器を買おうと言い出した。フランス人のセリーヌは、パンで十分だと言ったが、米が炊けると一番先に味見をした。共用の冷蔵庫では、名前の書かれた牛乳と、名前のない玉ねぎが隣り合っていた。
一般教養の授業で、佐里はダニエルに会った。
「隣に座ったの?」
知恵が聞くと、娘は少し考えた。
「私が先にいた。ダニエルが、ここ空いてる、って」
「それで?」
「空いてるって言った」
知恵はその続きを待ったが、佐里はそこで笑った。
彼はイタリア系の英国人で、よく料理をした。初めて画面に現れたとき、私のことをミスター・ヒイラギと呼んだ。
「俊太郎でいい」
私は覚えた英語を使った。
ダニエルは発音を二度確かめた。私は娘の横にある彼の手を見ていた。
「勉強のほうは、どうだ」
日本語で聞くと、佐里が眉を上げた。
「いま、それ聞く?」
「ほかに何を聞けばいいんだ」
「天気とか」
「天気は見ればわかる」
「見えるの、台所だけだよ」
佐里は携帯を窓へ向けた。曇り空の下を、一人の学生がパンを抱えて歩いていた。娘の笑い声の向こうで、ダニエルが何か言い、それを聞いたメイまで笑った。
私には意味がわからなかった。それでも電話を切るのが、少し惜しかった。




