第二章 閉まった扉
佐里の部屋の前には、朝、制服が掛かっていた。
知恵がアイロンをかけたブラウスの袖は、誰の腕も通さないまま、夕方まで細く垂れていた。
中学では生徒会に入り、行事のたびに前へ出た。家では学校の話をよくした。先生の口調を真似して、姉の百合を笑わせ、弟の駿介に「それ、似てるの?」と聞かれて、似てるから面白いんでしょう、と言い返した。
高校に入って、話が減った。
最初の赤点を、佐里は食卓に出さなかった。知恵が鞄の底から見つけたのでもない。学校から連絡があり、私たちが尋ねると、娘は自分で紙を持ってきた。
「こんなの、初めてなんでしょう」
知恵が言った。
「うん」
「次で取り返せばいい」
私は言った。
佐里は私を見なかった。
「次も同じだったら?」
「そのとき考えればいい」
「いま、考えてるんだけど」
私は、疲れているのだと思った。勉強も部活も生徒会も、一度にやろうとするからだ。少し絞ればいい。そう伝えると、佐里は紙を裏返した。
「お父さんは、絞れるの」
「何を」
「仕事とか」
「仕事とは違うだろう」
「そうだね」
翌週、娘は学校へ行かなかった。
朝、戸の向こうへ声をかけた。
「今日はどうする」
「わからない」
「昨日も、わからないって言ったぞ」
返事がなくなった。
「先生に、何て言えばいいんだ」
知恵が私の腕を引いた。廊下の先まで連れていき、声を落とした。
「先生に言うことが先なの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
私は時計を見た。外来の開始まで四十分だった。知恵は私の視線を追い、腕を離した。
「行って。遅れるから」
その言葉に助けられて出勤した。仕事をしている間は、私の質問に答えてくれる人がいた。胸が苦しいのはいつからか。食事は取れたか。眠れたか。順序よく尋ねれば、病気の輪郭が見えてきた。
家に帰ると、佐里の扉が閉まっていた。
数日後、私は自分の高校浪人の話をした。あのころはつらかったが、いまは遠回りをしてよかったと思う、と。
「私も、いつかよかったと思わないといけないの?」
扉の向こうから声がした。
「そういうことじゃない」
「じゃあ、いまは、よくなくてもいい?」
私は廊下に立ったまま、うまく答えられなかった。
日曜日、知恵は茶の稽古へ出かける前に、私に米を炊くよう頼んだ。
「昼は、二人で何か食べて」
「佐里が出てこなかったら」
「あなたが食べ始めればいい」
炊飯器の蓋を開けると、水が多すぎたらしく、飯は柔らかかった。私は卵を焼いた。裏返す途中で崩れた。
佐里は台所へ来て、皿を見た。
「何、これ」
「卵焼き」
「卵焼きになる前のものじゃない?」
「腹に入れば同じだ」
「それ、医者が言っていいの」
娘は箸を二膳出した。
並んで食べていると、佐里が言った。
「学校、嫌いじゃないんだよ」
「うん」
「行けないと、嫌いになったことにされる」
柔らかい飯が、箸の先にまとわりついた。
「先生も、友達も、嫌いじゃない。自分が教室にいるのが嫌なの」
「何か、言われるのか」
「別に」
「じゃあ」
娘の箸が止まった。私は口を閉じた。
「できてない自分を、みんなに見られるのが嫌なの」
私は、制服を着た同級生と道ですれ違わないよう、予備校へ遠回りしていた春を思い出した。さっきまで忘れていた道の角が、急にはっきりした。
「そうか」
今度は、それだけ言った。
しばらくして佐里が、醤油を取って、と頼んだ。




