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第9話 宮廷の召喚状


【一七三三年に橋を解くな】


【本来の年まで、待て】


橋の図に浮かんだその二行を見て、俺は息を止めた。


校閲者。


俺がそう呼ぶことにした何か。


そいつは、ただ数学を消しているわけではない。


順番を守ろうとしている。


いや、違う。


順番を、自分の都合のいい形に直そうとしている。


「本来の年」


エリザが低く呟いた。


「どういう意味ですか、オイラー殿」


「……さあ」


「知らない顔ではありません」


「最近、顔で読まれすぎでは」


「読まれる顔をする方が悪いのです」


反論できない。


カタリナは橋の図をじっと見ていた。


「この文字、先ほどの日付の白化と同じです」


「同じ?」


「はい。日付を消そうとした時と、筆圧のない白さが似ています」


「筆圧のない白さ」


エリザが繰り返す。


「文字が書かれたのではなく、そこだけ紙の記録が抜かれている?」


「たぶん」


カタリナは小さく頷いた。


「黒い文字のように見えますが、実際には黒を足しているのではありません。周りの紙が、そう読めるように変わっているのだと思います」


俺はぞっとした。


この怪異は、インクで書いているわけではない。


紙の性質を変えている。


そして記録そのものを編集している。


本当に、校閲者だ。


ダニエルが腕を組んだ。


「橋の問題は、今は扱わない」


「はい」


俺は即答した。


「扱えば、校閲者の誘いに乗ることになる」


「誘い?」


エリザが聞く。


「これは警告に見えます。でも同時に、私に橋の問題を意識させている」


「確かに」


「今ここで考えれば、本来より早く解くことになる。すると、日付がずれる」


「だから、本来の年まで待て、と?」


カタリナが言った。


俺は頷いた。


「たぶん」


エリザが目を細める。


「あなたは、本来の年を知っているのですか」


「えーと、夢で」


「便利な夢ですね」


「ええ。本当に」


もう、それで押し通すしかない。


未来知識を夢と言い張る。


苦しい。


だが今はまだ、それ以上は言えない。


ダニエルは橋の図を畳んだ。


「なら、橋は封じる」


「封じる?」


「記録はする。だが、解かない。解法に踏み込まない。存在だけを残す」


カタリナがすぐに別紙を出す。


「橋の図。出現時刻。目撃者。文字の内容。そこまでを記録します」


「解法の考察は?」


エリザが言う。


「書かない」


ダニエルが答えた。


「考えるな、とは言わない。数学者にそれは無理だ。だが、紙に残すな」


俺は苦笑した。


「一番難しい命令ですね」


「君は特にね」


その通りだった。


橋の問題を見た瞬間、俺の頭はもう点と線を考えていた。


四つの陸地。


七つの橋。


奇数本の橋がつながる点。


一筆書き。


無理だ。


すべての橋を一度ずつ渡る道は存在しない。


答えは知っている。


でも、今は書かない。


書けば、また歴史がずれる。


「レオンハルト」


ダニエルが俺を見る。


「はい」


「君の仕事は、橋ではない。今はバーゼル問題だ」


「わかっています」


「なら、まずは草稿を守れ」


俺は頷いた。


その時だった。


扉が叩かれた。


こんこん。


夜も深い。


この時間の訪問には、ろくなものがない。


カタリナが紙をまとめる。


エリザが橋の図を隠す。


ダニエルが扉へ向かった。


「誰だ?」


扉の向こうから、低い声がした。


「宮廷より参りました」


部屋の空気が硬くなる。


ダニエルが俺を見る。


俺はうなずいた。


逃げても無駄だ。


扉が開いた。


入ってきたのは、イワンではなかった。


若い男の使者が二人。


更にその後ろ、毛皮の外套をまとった女性が立っていた。


年は二十代前半ほど。


銀色に近い淡い髪。


背筋がまっすぐ伸びている。


目は冷たい青。


美しい。


だが、柔らかさはない。


氷でできた刃のような人だった。


彼女は部屋を見渡し、最後に俺を見た。


「レオンハルト・オイラー殿」


「はい」


「アンナ・ペトロヴナと申します」


ペトロヴナ。


ロシア貴族の名。


俺は背筋を正した。


「宮廷の方ですか」


「宮廷に出入りする家の者です」


曖昧な答え。


つまり、公式の使者ではないが、宮廷の意志を帯びている。


あるいは、宮廷のどこかの派閥の意志を。


アンナは机の上の紙束を見た。


「ずいぶんと忙しそうですね」


「数学は手間がかかりますので」


「数学だけでしょうか」


彼女の視線が、イワンの報告書写しに向く。


読まれた。


この人、目が早い。


「宮廷は、明日の朝、あなたを招きます」


「明日の朝?」


思わず声が裏返った。


「はい」


「急ですね」


「宮廷では、興味は冷める前に扱います」


「食べ物みたいですね」


エリザが小さく咳払いした。


失言だったらしい。


アンナは少しだけ口元を動かした。


笑った、のかもしれない。


「面白い方ですね」


「よくは言われません」


「そうでしょうね」


ひどい。


カタリナが静かに尋ねた。


「招かれるのは、オイラー殿だけですか」


アンナは彼女を見る。


「あなたが、カタリナ・グゼルですね」


カタリナの肩がわずかに揺れる。


「はい」


「図版師ゲオルク・グゼルの娘。今日の検討会で紙面の異常を記録した」


「……はい」


「あなたも来ていただきます」


俺はすぐに言った。


「待ってください」


アンナの目がこちらへ向く。


「何か」


「彼女は数学者ではありません」


「知っています」


「なら、なぜ」


「数学者ではないからです」


意味がわからない。


アンナは続けた。


「数学者は数式に目を奪われます。宮廷が知りたいのは、数式だけではありません。紙がどう変わったか。誰が何を書いたか。誰の名が消え、誰の名が残ったか」


「記録の異常を知りたいと?」


「はい」


イワンと同じだ。


いや、もっと直接的だ。


宮廷は、【校閲者】の現象そのものに興味を持ち始めている。


エリザが低く言った。


「私の名も報告書にありました」


アンナは彼女を見る。


「エリザ・ベルヌーイ。ダニエル殿の親族で、草稿の数学的検討に参加」


「そこまでご存じなら、私も呼ぶつもりですか」


「ええ」


エリザの顔がこわばる。


「私は正式な学者ではありません」


「宮廷は、正式でない力にも関心があります」


嫌な言い方だ。


アンナは、三人を順に見た。


「オイラー殿。ベルヌーイ嬢。グゼル嬢。明朝、宮廷へ」


「拒否したら?」


俺が聞く。


部屋が静まる。


アンナは表情を変えなかった。


「拒否できる招待なら、私は夜中に来ません」


ですよね。


実質的な召喚状だ。


ダニエルが口を開いた。


「私も同行する」


「もちろんです」


アンナは即答した。


「ダニエル・ベルヌーイ殿の証言も必要です」


「証言?」


「今日の検討会で、何が数学で、何が怪異だったか」


「怪異という言葉を使うのですね」


「他によい言葉が?」


アンナの目が俺に向く。


俺は一瞬迷った。


「校閲者」


「校閲者?」


「数学史に介入し編集している何か。そう仮に呼んでいます」


アンナは少しだけ考えた。


「採用しましょう」


「え?」


「宮廷で説明するのに便利です」


「勝手に採用しないでください」


「よい言葉は、使われるものです」


この人も強い。


イワンとは違う種類で厄介だ。


イワンは紙で絡め取る。


アンナは命令と合理性で押してくる。


カタリナが紙束を抱え直した。


「持参するものは」


「今日の草稿。図版。報告書写し。白化した紙。可能なら、橋の図も」


俺はすぐに言った。


「橋の図は関係ありません」


アンナの目が細くなる。


「関係ないものを、あなたは隠そうとするのですか」


「……」


駄目だ。


この人、察しが良すぎる。


エリザが助け舟を出した。


「橋の図は未検討です。未検討のものを宮廷に出せば、誤った意味を与えます」


「それも含めて、宮廷で確認します」


「危険です」


「危険だから呼んでいます」


話が平行線だ。


アンナは部屋の中央へ進み、机の上の草稿を一枚手に取った。


カタリナが即座に言う。


「まだ乾いていません」


アンナは手を止めた。


「失礼」


意外にも、素直に戻した。


「記録を傷めるつもりはありません」


「記録を利用するつもりは?」


エリザが問う。


アンナは迷わず答えた。


「あります」


正直だ。


「数学は帝国の力になります。暦、航海、測量、砲術。あなた方がどれほど純粋なつもりでも、宮廷はそこを見る」


「最悪ですね」


俺は言った。


「現実です」


アンナは静かに返す。


「ですが、現実は敵とは限りません。使い方次第です」


「宮廷が、私たちを守るとでも?」


「守ります」


「なぜ?」


「使うために」


イワンと同じことを、さらにまっすぐ言った。


だが、不思議と嘘は少ない。


信用できない。


でも、読める。


「では、こちらも条件を出します」


俺は言った。


アンナの眉がわずかに動く。


「条件?」


「宮廷に行くなら、草稿と証言の写しを複数の場所に残してからです」


「時間がかかります」


「必要です」


「逃げるため?」


「消されないため」


アンナは俺を見た。


長い沈黙。


そして頷いた。


「一刻だけ待ちます」


「短いですね」


「宮廷としては長い方です」


やはり逃げ場はない。


一刻。


その間に、俺たちは紙を分ける必要がある。


カタリナがすでに動いていた。


「草稿は三部。図版は二組。橋の図は封筒に入れ、未検討と明記します」


「橋を持っていくんですか」


俺が聞くと、彼女は静かに言った。


「隠しても、もう気づかれています」


「……はい」


エリザも紙を取る。


「宮廷で言われる前に、こちらの記録形式を整えます」


「何を書くんですか」


「この橋の図は解法ではなく、出現記録である、と」


「なるほど」


ダニエルは自分の署名を入れていく。


「私が一部預かる」


「先生」


「君が宮廷に取られても、紙は残す」


「嫌な言い方ですね」


「わざと言った」


重い。


だが、ありがたい。


俺は草稿の一部を手に取った。


表紙。


一七三三年冬。


サンクトペテルブルク科学アカデミー。


Leonhard Euler。


その日付を見て、また白化が来るのではないかと身構える。


だが、今度は消えない。


薄いが、残っている。


カタリナが言った。


「出来事の順番も添えます。日付が消えても復元できるように」


「お願いします」


エリザが俺を見る。


「宮廷では、余計な話をしないでください」


「努力します」


「努力では足りません」


「では、かなり努力します」


「不安です」


カタリナも小さく頷く。


「不安です」


二人に言われると、結構刺さる。


アンナはそのやりとりを見ていた。


「あなた方は、奇妙な組み合わせですね」


「よく言われます」


俺が言うと、カタリナが訂正した。


「まだ、あまり言われていません」


「これから言われますよ」


エリザがため息をつく。


「無駄口を言っている時間はないわ」


本当にない。


そこから一刻、俺たちは戦場のように動いた。


書く。


写す。


署名する。


図を包む。


封をする。


保管先を決める。


カタリナの父の工房へ一部。


ダニエルの私室へ一部。


アカデミー保管庫へ一部。


神学者への証言依頼用に一部。


エリザの蔵書箱へ一部。


俺の部屋へは、あえて不完全な写しだけ。


「なぜ不完全なものを?」


アンナが聞く。


カタリナが答えた。


「狙われる場所には、全てを置かないためです」


アンナは少しだけ感心したように目を細めた。


「グゼル嬢。あなたは宮廷書記に向いていますね」


「結構です」


即答だった。


アンナが初めて、小さく笑った。


一刻後。


準備は終わった。


いや、終わらされた。


完全ではない。


だが、今できるだけの網は張った。


外に出ると、夜明け前の空気が肺を刺した。


馬車が待っている。


黒塗りの宮廷馬車。


車輪には雪がついている。


俺は立ち止まり、アカデミーの建物を振り返った。


ここに、草稿が残っている。


俺たちが戦って守った、π²/6の最初の防衛線。


だが、これから向かうのは宮廷。


数学が、権力に値踏みされる場所だ。


「レオンハルト」


ダニエルが隣で言った。


「はい」


「宮廷では、数式よりも沈黙が重いことがある」


「どういう意味ですか」


「答えなくていい問いには、答えるな」


「難しいですね」


「君はすぐ答えたがる」


「そうですか」


「そうだ」


エリザが後ろから言う。


「しかも余計なことを」


カタリナも頷く。


「未来の話などを」


「二人とも容赦ない」


アンナが馬車の扉を開けた。


「それでは、参りましょう」


俺は乗り込む前に、カタリナが抱えている封筒を見た。


橋の図。


未検討。


解法なし。


そう明記された封筒。


それなのに、封の隙間から、白い光が漏れていた。


「カタリナ」


俺が言うと、彼女も気づいた。


封筒の表面に、文字が浮かぶ。


【宮廷へ持ち込め】


その下に、もう一行。


【橋は、帝国を渡す】


アンナの目も、その文字を捉えた。


そして、彼女は静かに呟いた。


「やはり、これは宮廷で扱うべきものですね」


第10話は本日5/6 21時過ぎ公開

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