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第8話 奪われた日付


【次は、橋が消える】


板の片隅に浮かんだその文字を見た瞬間、俺の喉が凍った。


点が四つ。


線が七本。


それだけで、わかる。


ケーニヒスベルクの七つの橋。


オイラーの名を数学史に刻む、もう一つの問題。


いや、ただの問題ではない。


後にグラフ理論と呼ばれるものの始まり。


世界を点と線で見る発想。


都市も、道も、通信も、人のつながりも、全部を別の形で読むための扉。


それが、もう出てきた。


早すぎる。


まだバーゼル問題の草稿すら守り切っていないのに。


「オイラー殿」


カタリナが小声で言った。


「この図は、何ですか」


俺は答えられなかった。


言えば、未来を知っていると認めることになる。


だが、黙っていても顔でバレる。


エリザが俺を見た。


「あなたは、この図を知っていますね」


「……知っている、かもしれません」


「かもしれない?」


「夢で見たようなものです」


「便利な夢ですね」


「本当にそう思います」


ダニエルが板に近づいた。


「四つの点と七本の線か」


彼は慎重に眺める。


「街か。橋か。あるいは経路の問題か」


さすがだ。


一瞬で核心に近づいている。


イワンも図を見た。


「橋、と書かれていますね」


彼の目が細くなる。


「この問題にも価値が?」


「まだわかりません」


俺は即答した。


「嘘が下手ですね、オイラー殿」


「あなたに言われたくありません」


イワンは微笑んだ。


だが、その笑みの奥には明らかな興味があった。


まずい。


バーゼル問題だけでも宮廷が食いついた。


ここで橋の問題まで価値を嗅がれたら、ますます逃げ場がなくなる。


「今は扱いません」


俺は言った。


「本日の議題は、二乗逆数級数です」


エリザがすぐに続ける。


「そうです。橋の図は、検討会の記録とは別件として扱うべきです」


カタリナも紙を押さえた。


「この図も写します。ですが、本文には入れません」


ダニエルが頷く。


「正しい。今は焦点を増やすべきではない」


イワンは肩をすくめた。


「残念です」


「本当に残念そうですね」


「ええ。私は価値あるものを見逃すのが嫌いです」


「でしょうね」


俺は板から目を逸らした。


今は橋じゃない。


橋は次だ。


いや、次にしてはいけない。


バーゼル問題を守る。


まずはそれだけだ。


ダニエルが検討会の終了を告げ、部屋は少しずつ解散していった。


だが、誰も完全には落ち着いていない。


学者たちは自分の計算結果を見比べている。


書記たちは写しを増やしている。


神学者は、有限から秩序へという言葉を何度か読み直していた。


イワンは宮廷報告書を丁寧に折りたたみ、懐へ入れた。


その動作を見て、カタリナが眉を寄せる。


「持ち出すのですか」


「宮廷書記官ですので」


イワンは当然のように答えた。


「宮廷へ報告するための紙を、ここに置いていくわけにはいきません」


「その紙は、今ここで変化しました」


「だからこそ重要です」


「危険です」


「危険なものほど、宮廷は知りたがります」


カタリナは黙った。


拳を握っている。


俺は横から言った。


「写しを取ります」


イワンが俺を見る。


「私の報告書を?」


「はい」


「宮廷文書ですよ」


「まだ案でしょう」


一瞬、イワンの口元が止まった。


言質は取った。


「あなた自身がそう言いました。案なら、ここで見た者たちが写しを残しても問題ないはずです」


エリザが即座に紙を出す。


「内容を読み上げてください」


ダニエルも言う。


「私も確認しよう」


イワンはしばらく沈黙した。


そして、小さく笑った。


「なるほど。今度は私の紙を、百人の記憶で支えるつもりですか」


「あなたの紙だけが強く残るのは困ります」


俺は言った。


「宮廷の記録も、検討の対象です」


「恐ろしい若者だ」


「褒めてますか?」


「少し」


イワンは報告書を開いた。


その場で読み上げる。


件名。


無限級数に関する検討記録。


報告対象。


Leonhard Euler。


協力者。


Eliza Bernoulli。


Catarina Gsell。


神学的見解。


ただちに異端とは断じず。


数学的見解。


未完成ながら重大な道筋を含む。


俺たちは一字一句、写した。


カタリナは筆跡の特徴まで記録した。


エリザは用語を確認した。


ダニエルは表現を修正させた。


イワンは嫌そうではなかった。


むしろ楽しんでいるように見えた。


この男にとって、記録の応酬そのものが宮廷遊戯なのかもしれない。


写しが三部できたところで、ようやくイワンは紙をしまった。


「では、宮廷には正確に報告しましょう」


「正確にお願いします」


「もちろん」


信用できない。


だが、今は複数の写しがある。


一方的には歪められない。


それだけでも前進だ。


検討会の部屋を出た時、外はもう夕方だった。


サンクトペテルブルクの空は暗い。


雪が細かく降っている。


廊下の窓から見えるネヴァ川は、鉛色に凍りついていた。


俺は息を吐いた。


「終わった……」


「終わっていません」


エリザが即座に言った。


「そうですよね」


「草稿を保管します。写しを分けます。今日の証言を整理します。神父様の発言も、書記の計算も、イワンの報告書も」


カタリナも頷く。


「それから、板に現れた橋の図も写します」


「忘れてくれてもいいんですが」


「忘れません」


「ですよね」


カタリナは真面目な顔だった。


「橋の図は、先ほどの式とは別の手つきでした」


「手つき?」


「はい。白化とは違います。書かれたというより、浮かんだように見えました」


エリザが反応する。


「つまり、校閲者は消すだけではなく、先の問題を示すこともある」


「校閲者」


カタリナがその言葉を繰り返した。


俺は少し気まずくなった。


「今、心の中でそう呼んでいました」


「悪くありません」


エリザが言った。


「数学を壊すというより、数学史を都合よく直している。校閲者、ですか」


ダニエルも隣で聞いていた。


「名をつけるのは危険だが、便利でもある」


「便利ですか」


「名のない敵は、考えにくい」


彼は静かに言った。


「ただし、レオンハルト。仮の名に引きずられるな。相手が本当に人間の校閲者のように考えるとは限らない」


「わかっています」


「ならいい」


ダニエルはそこで少し咳をした。


疲れている。


昨日からずっと無理をしているのは俺たちだけではない。


彼もだ。


「先生、大丈夫ですか」


「大丈夫だ」


「顔色が」


「君に言われたくないね」


それはそうだ。


ダニエルは少し笑った。


だが、その笑みには影がある。


「レオンハルト」


「はい」


「私は、そう長くこの都にいないかもしれない」


俺は足を止めた。


「え?」


エリザも黙る。


カタリナも振り返る。


ダニエルは窓の外を見た。


「この街は、私には重すぎる。寒さも、宮廷も、アカデミーの空気も」


史実を思い出す。


ダニエル・ベルヌーイは、いずれロシアを離れる。


バーゼルへ戻る。


つまり、俺の強力すぎる後ろ盾は、いつまでもここにいない。


「だから、急ぐのですか」


俺が聞くと、彼は頷いた。


「君には、早く自分の名で立ってもらわねば困る」


「でも」


「私は君を推薦した。だが、君の数学を代わりに生きることはできない」


その言葉は重かった。


今までは、ダニエルが場を仕切ってくれた。


エリザの発言を保証してくれた。


宮廷相手にも盾になってくれた。


だが、それは永遠ではない。


俺は、レオンハルト・オイラーとして立たなければならない。


本物ではないのに。


それでも。


「わかりました」


俺は言った。


「立ちます。できるかは別として」


「できるかではない」


ダニエルは笑った。


「立つしかないのだよ」


本当に、この時代の人間は逃げ道をくれない。


アカデミーの小部屋に戻ると、俺たちはすぐ作業に入った。


机に紙を広げる。


草稿。


写し。


図版。


計算表。


証言記録。


宮廷報告書案の写し。


橋の図。


すべてを分類する。


「まず、バーゼル問題の草稿です」


エリザが言った。


「完成ではありません」


「わかっています」


「これは、解法の核心に至る草稿です。正式な論文ではない」


「そこ、明記した方がいいですね」


「はい。今は一七三三年冬です。後に正式な形へ整える余地を残す」


俺は頷いた。


これで史実とも噛み合う。


今ここで完全に発表するのではない。


核心を守る。


二年後、歴史に刻まれるための最初の防衛線を作る。


カタリナが表紙に書く。


二乗逆数級数に関する草稿。


一七三三年冬、サンクトペテルブルク科学アカデミーにて検討。


その下に、俺の名前。


Leonhard Euler。


さらに小さく、検討協力。


Eliza Bernoulli。


図版清書および記録。


Catarina Gsell。


エリザが眉をひそめる。


「私の名は」


「表紙の正式著者ではありません」


カタリナが言った。


「ですが、写しの一部には残します。全部から消す必要はありません」


エリザは黙った。


「危険です」


「はい」


「あなたの名も危険です」


「はい」


「それでも?」


カタリナは少しだけ微笑んだ。


「便利で終わらないためです」


エリザは言葉を失った。


俺も、少し胸が詰まった。


彼女たちは、自分の名前を望んでいるわけではない。


名誉が欲しいわけでもない。


ただ、した仕事がなかったことになるのを拒んでいる。


それは、俺がオイラーの名を守ろうとしていることと、たぶん同じだ。


「では」


エリザは静かに言った。


「私の名は、すべての写しには入れないでください」


「なぜ」


「一部にだけ入れる。場所を分けるのです。誰かが私の名を狙っても、全部は追えない」


「なるほど」


カタリナが頷く。


「では、三種類作ります」


「三種類?」


「著者名だけの写し。検討者名を含む写し。図版と記録者名を含む写し」


エリザが少し感心した顔になる。


「あなた、本当に記録戦に向いていますね」


「絵の工房では、注文主に見せるものと、工房に残すものと、職人が覚えておくものは違います」


「学問にも使えます」


「使ってください」


エリザは小さく頷いた。


そこから、また作業が続いた。


同じ草稿を、少しずつ形を変えて写す。


一部には数学だけ。


一部には検討会の記録。


一部には図版の出所。


一部には神学者の発言。


一部にはイワンの報告書案との照合。


一枚の紙に全てを背負わせない。


複数の紙で、互いを支えさせる。


まるで、数式そのもののようだった。


「紙もネットワークですね」


俺はぽつりと言った。


エリザが聞き返す。


「ねっとわーく?」


しまった。


また未来語。


「網です」


「網」


「はい。一本の糸が切れても、全体は残る」


カタリナがその言葉を書き留める。


「記録の網」


「いいですね」


エリザが言った。


「紙と記憶で網を作る。校閲者に対抗するなら、必要です」


俺は橋の図を見た。


点と線。


まだ正式には出さない。


だが、もう見えている。


記録の網。


都市の橋。


数学史のつながり。


全部が少しずつ重なっていく。


夜。


ようやく写しの分配が決まった。


一部はダニエル。


一部はアカデミーの保管庫。


一部はエリザ。


一部はカタリナの父の工房。


一部は俺の部屋。


一部は神学者に証言記録として預ける。


一部は封印して、日付と場所だけを別紙に分ける。


「ここまでやれば、すぐには消せないはずです」


俺が言うと、エリザは冷静に言った。


「すぐには、です」


「希望をください」


「希望は検算の後で」


厳しい。


カタリナが少し笑う。


「でも、今日は勝ちました」


その言葉に、俺は驚いた。


「勝った、ですか」


「はい」


彼女は草稿の束を見た。


「朝には、オイラー殿の名前が消えかけていました。今は、いくつもの紙に残っています」


エリザも言った。


「異端性の調査という記録も、検討記録へ押し返しました」


ダニエルが頷く。


「そして、この草稿は検討に値すると認められた」


俺はしばらく黙った。


そうか。


勝ったのか。


完全ではない。


証明もまだ危うい。


校閲者も消えていない。


宮廷の関心も避けられなかった。


それでも、今日の俺たちは守った。


π²/6を。


Eulerの名を。


エリザとカタリナの仕事を。


俺は椅子にもたれた。


「疲れた……」


「当然です」


エリザが言った。


「今日は無限と宮廷と怪異を相手にしました」


「並べると最悪ですね」


「はい」


カタリナが蝋燭を整える。


「少し休んでください。紙は私が見ています」


「いや、あなたも休んでください」


「私は少しだけ」


「それ、休まない人の言い方です」


カタリナは答えなかった。


図版師の娘は頑固だ。


その時だった。


保管用に分けた草稿の一枚が、かすかに震えた。


俺たちは一斉に振り返った。


今度は白化ではない。


黒化でもない。


日付の文字だけが、薄れていた。


一七三三年冬。


その部分が、ゆっくり消えていく。


「日付……!」


エリザが叫ぶ。


カタリナがすぐに別紙へ写す。


「一七三三年冬。サンクトペテルブルク。検討会後」


俺も叫ぶ。


「今日の神学者の証言! イワンの報告書案! ダニエル先生の確認!」


ダニエルが紙を押さえながら言う。


「出来事の順番で日付を支えろ!」


俺たちは一斉に書いた。


日付そのものではなく、出来事の順番を書く。


雪の朝。


公開検討会。


有限和の表。


神学者の発言。


イワンの報告書案。


板に現れた橋の図。


記録の網。


日付が消えても、その日を復元できるように。


白化は迷うように紙面を走った。


消すべき場所を探している。


だが、日付は一箇所ではない。


出来事が、日付を支えている。


やがて白化は止まった。


一七三三年冬の文字は薄い。


だが、残った。


俺は息を吐いた。


「……日付まで狙うの?」


エリザが青ざめた顔で言う。


「発見者の名前。証明の道筋。次は発見された時期」


俺は頷いた。


「校閲者は、数学史の順番を改ざんしようとしている」


その瞬間。


机の端に置いていた橋の図が、かすかに光った。


四つの点。


七本の線。


その横に、新しい文字が浮かぶ。


【一七三三年に橋を解くな】


そして、次の一行。


【本来の年まで、待て】


第9話は本日5/6 18時過ぎ公開

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― 新着の感想 ―
校閲者の目的が謎。 橋の問題が本命なのかな。 オイラーがその気になれば、1733年に橋の問題は解けるけど、それを阻止したい? 主人公がオイラーになったのも、校閲者のせい? 少なくとも、全く無関係では…
怪異が一種類とは限らないのか…?
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