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第7話 円が無限を斬る


「あなたの証明は、宮廷の関心を得ました」


イワン・ミハイロヴィチは、そう言って微笑んだ。


その笑みは、祝福ではなかった。


獲物に印をつけた人間の顔だった。


俺は、彼の前にある紙を見た。


宮廷報告書案。


無限級数に関する異端性の調査。


報告対象。


Leonhard Euler。


協力者。


Eliza Bernoulli。


Catarina Gsell。


エリザの名。


カタリナの名。


二人の名前が、宮廷の紙に刻まれようとしている。


それは、論文に名前が残ることとはまったく違う。


名誉ではない。


監視対象だ。


「イワン殿」


ダニエルの声が冷えた。


「その紙は何ですか」


「報告書です」


「まだ検討会は終わっていない」


「ですから、案です」


イワンは平然と言った。


「宮廷は、アカデミーの重要な議論を把握する責任があります」


「異端性の調査、とあるが」


「無限を扱い、神学的懸念が示された以上、当然でしょう」


黒服の神学者が眉をひそめた。


「私は、ただちに異端とは書かないと言った」


「ええ」


イワンは微笑む。


「ですから、調査です」


言葉がうまい。


いやらしいほどうまい。


断罪ではない。


調査。


監視ではない。


把握。


横取りではない。


記録。


権力は、いつだって綺麗な言葉を着てくる。


エリザが前に出た。


「私の名を消してください」


「なぜです」


「私は正式な学者ではありません」


「では、なぜ検討会で発言を?」


「数学的に必要だったからです」


「つまり、協力者ですね」


エリザが言葉に詰まる。


イワンは紙に視線を落とした。


「宮廷は、事実を記録するだけです」


カタリナも低く言った。


「私も協力者ではありません。図版の清書をしただけです」


「図版と紙面の異常を記録したと、先ほどご自身で述べられた」


「それは」


「重要な証言です」


イワンは穏やかだった。


穏やかだから、余計に逃げ場がない。


俺は拳を握った。


俺が前に出した。


二人を、数学史から消させないために。


だが、その結果、宮廷の紙に名前が載ろうとしている。


これは、俺の失敗か。


「オイラー殿」


イワンが俺を見た。


「あなたは、協力者の名を残そうとした。私はその意志を尊重しています」


「尊重?」


声が低くなった。


「これは脅しでしょう」


部屋が静まった。


イワンの笑みが、少しだけ深くなる。


「脅しとは心外です」


「なら、その紙を今ここで破棄してください」


「できません」


「なぜ」


「もう記録されたからです」


イワンは、紙の文字を指した。


そこには、深く沈む黒い文字。


紙に食い込むような字。


カタリナが小さく言う。


「この字は、消えにくい」


イワンは彼女を見た。


「よく見ていますね、グゼル嬢」


カタリナの肩がこわばる。


「あなたの父君の図版は、宮廷でも評価が高い」


「父は関係ありません」


「関係は、記録が作ります」


その一言に、俺はぞっとした。


関係は、記録が作る。


この男はわかっている。


歴史とは、起きたことだけではない。


何がどこに書かれたかで作られる。


そして今、イワンはその力を使っている。


エリザが紙を睨む。


「私たちを黙らせるつもりですか」


「逆です」


イワンは言った。


「宮廷の前で、もっと話していただきたい」


「何を」


「この式が、何に使えるのか」


その瞬間、俺の胃が沈んだ。


来た。


やはり、そこだ。


バーゼル問題そのものではない。


π²/6そのものでもない。


宮廷が欲しいのは、応用だ。


星。


暦。


航海。


測量。


砲術。


戦争。


イワンは俺を見た。


「オイラー殿。あなたは先ほど言った。波を読む力、熱を読む力、星を読む力、と」


「比喩です」


「比喩にしては、目が本気だった」


「……」


「宮廷は、その目に価値を見ます」


ダニエルが間に入った。


「彼はまだ草稿を出しただけだ。完全な証明ではない」


「だからこそ、早く保護するべきです」


「保護?」


「ええ。彼の名も、発見も、協力者も」


イワンは紙を軽く叩いた。


「宮廷の記録に入れば、少なくともアカデミー内の噂で名を奪われることはありません」


甘い。


危険なほど甘い。


さっきまで脅しだった紙が、今度は保護の証書に見えてくる。


この男は、それを狙っている。


恐怖を与え、逃げ道として自分の記録を差し出す。


「お断りします」


俺は言った。


イワンの目が細くなる。


「理由を聞いても?」


「数学を守るために、いきなり宮廷の檻に入るつもりはありません」


「檻とは」


「保護の別名です」


部屋がざわついた。


言いすぎたかもしれない。


だが、引けない。


ここで折れたら、この式は宮廷のものになる。


俺の名前は残るかもしれない。


でも、エリザとカタリナの名は監視名簿に残る。


それは違う。


「では、どう守るのですか」


イワンが問う。


「偽文書はすでに回っている。ベルヌーイ殿の名も使われた。アカデミー内の記録だけで、あなたの発見を守れると?」


痛いところを突く。


だが、今度はわかる。


イワンは白化現象のすべてを知っているわけではない。


少なくとも、そういう立場でいる。そう装っている。


おそらく、こいつは怪異の主ではない。


だが、怪異が作った混乱を利用しようとしている。


つまり怪異ではなく人間の側にいる奴だ。それも一番厄介な。


俺はすぐには答えられなかった。


守れるか。


わからない。


だが、守る方法なら、さっき見えた。


紙一枚では駄目だ。


宮廷の記録一つでも駄目だ。


もっと散らす。


もっと増やす。


もっと、多くの頭に刻む。


「守ります」


俺は言った。


「どうやって」


「今、ここで」


俺は板の前に立った。


「この式を、この部屋の全員に覚えてもらいます」


ざわめき。


イワンの笑みが消えた。


エリザが息を呑む。


カタリナがこちらを見る。


ダニエルだけが、少し笑った。


「なるほど」


「紙が危ういなら、人に残す。宮廷が記録する前に、学者たちの記憶に残す」


俺は板に大きく書いた。


1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + …… = π²/6


「この式を声に出してください」


誰も動かない。


当然だ。


いきなり何を言い出すのかと思うだろう。


俺は続けた。


「一の二乗分の一。二の二乗分の一。三の二乗分の一。それらを足していくと、円周率の二乗を六で割った値に近づく」


学者の一人が呟いた。


「円周率の二乗を六で割る」


「もう一度」


俺は言った。


「円周率の二乗を六で割る」


今度は別の学者も言う。


「円周率の二乗を六で割る」


カタリナが紙に記録する。


エリザが壁際から声を出した。


「この式は、オイラー殿の草稿として検討された」


ダニエルが続く。


「私、ダニエル・ベルヌーイがそれを確認する」


神学者も、静かに言った。


「私は、この場で異端とは断じない。有限から秩序へ近づく試みとして聞いた」


その一言で、空気が変わった。


黒服の神学者が言ったのだ。


イワンの紙にある異端性の調査という文字が、一瞬、重さを失う。


「記録してください」


俺は書記たちに向かって言った。


「いま、神父様は異端ではなく、秩序への試みとして聞いたと述べました」


書記たちが動く。


イワンの目が冷たくなる。


いい。


これでいい。


宮廷だけが記録するのではない。


ここにいる全員が記録する。


「次に、計算です」


俺は有限和の表を示した。


「十項まで足してください」


数人が紙を取り、計算を始める。


「近い」


「確かに、示された値に近づいている」


「二十項ならさらに」


「いや、収束は遅いが方向は見える」


ざわめきが熱を帯びる。


恐怖ではない。


計算の熱だ。


人は計算すると、少しだけ平静になれる。


イワンの紙が、かすかに鳴った。


かり。


かり。


カタリナが反応する。


「報告書の文字が変化しています」


「何が?」


「異端性、の部分が薄くなっています」


イワンが紙を押さえた。


その顔から、初めて余裕が消えた。


エリザが鋭く言う。


「記録は上書きできる」


「なるほど」


ダニエルが頷いた。


「一つの悪い記録を、多数の正確な記録で押し返すのか」


「それしかありません」


俺は言った。


「一枚の紙に負けるなら、百枚の紙と百人の記憶で殴る」


「言葉が悪いです」


エリザが言った。


「百人の記憶で支える」


「それです」


カタリナが即座に書き直す。


百人の記憶で支える。


俺は思わず笑いそうになった。


この人、本当に言葉を整えるのがうまい。


そのとき、イワンが立ち上がった。


「面白い」


声は静かだった。


「非常に面白い」


「何がですか」


俺は警戒して聞いた。


「あなたは、宮廷の記録に対抗するため、場そのものを記録媒体にした」


「そういう言い方をされると不本意ですね」


「褒めています」


「全然そう聞こえません」


「では、警告しましょう」


イワンは微笑んだ。


「人の記憶は、紙より脆い」


その瞬間。


部屋の片隅で、一人の若い書記が頭を押さえた。


「……あれ?」


彼は自分の紙を見た。


「今、何を計算していた?」


隣の学者が顔を上げる。


「何を言っている。逆二乗の和だ」


「逆……何だ?」


部屋がざわつく。


別の書記も、首をひねった。


「円周率の……何でしたか」


俺の心臓が跳ねた。


記憶に来た。


いや、違う。


これは完全な記憶消去ではない。


言葉が曇っている。


式の意味へたどる道だけが、霧をかけられたようにぼやけている。


紙ではない。


頭の中の順番を乱している。


「声に出してください!」


カタリナが叫んだ。


全員が彼女を見る。


彼女は震えていた。


だが、声は強かった。


「忘れる前に、声に出してください!」


俺はすぐ続けた。


「一の二乗分の一、二の二乗分の一、三の二乗分の一!」


エリザが叫ぶ。


「それらの和は!」


ダニエルが続く。


「円周率の二乗を!」


神学者が低く言った。


「六で割る」


部屋中に声が広がる。


「円周率の二乗を六で割る」


「円周率の二乗を六で割る」


「円周率の二乗を六で割る」


奇妙な光景だった。


数学者も、書記も、神学者も、役人も。


凍てつくロシアのアカデミーで、同じ式を唱えている。


まるで祈りのように。


だが、これは祈りではない。


記録だ。


声による記録。


記憶を繋ぎ止めるための、人間の鎖。


カタリナが泣きそうな顔で書き続けていた。


エリザは歯を食いしばっている。


ダニエルは目を閉じ、何度も式を唱えていた。


イワンの紙から、異端性の調査という文字が薄れていく。


代わりに、新しい文字が浮かぶ。


無限級数に関する検討記録。


俺はそれを見た。


勝った。


いや、完全ではない。


だが少なくとも、この場の記録は押し返した。


イワンは紙を見つめ、ゆっくりと笑った。


「見事です、オイラー殿」


「嬉しくない褒め言葉ですね」


「本心ですよ」


彼は紙を畳む。


「私にも、この白化の理屈はわかりません」


俺は彼を見る。


イワンは、初めて少しだけ本音を見せたような顔をした。


「ですが、わからないものにも価値はあります。宮廷とは、そういうものを拾う場所です」


「拾って、どうするんですか」


「使います」


「最悪だ」


「最良のものだけが使われるわけではありません。使えるものが使われるのです」


この男は、やはり黒幕ではない。


少なくとも、今は。


だが、危険だ。


怪異よりも理解しやすく、だからこそ危険だ。


ダニエルが前に出た。


「本日の検討はここまでだ。各自、計算結果と証言を残すように」


学者たちが動き始める。


書記が紙を増やす。


カタリナは、すべての紙の置き場所を確認している。


エリザは、まだ警戒を解いていない。


俺は板の式を見た。


π²/6。


残っている。


Eulerの名も、残っている。


薄いが、残っている。


今のところ、()()()が狙っているのは三つだ。


・証明の道筋。


・発見者の名前。


・発見された順番。


世界を壊しているのではない。


数学史の記録を、編集しようとしている。何かの都合に従って。


俺は心の中で、あいつを仮にこう呼ぶことにした。


校閲者(emendator)


数学を殺すのではない。


数学史を、編集するもの。


その瞬間、板の端に、小さな白い線が走った。


「またか」


俺は身構えた。


だが、消えたのは式ではなかった。


板の片隅に、誰も書いていない新しい図が浮かび上がる。


点が四つ。


線が七本。


俺の息が止まった。


これは。


まだ早い。


早すぎる。


バーゼル問題すら終わっていない。


なのに。


四つの点と七本の線。


ケーニヒスベルクの七つの橋。


その下に、黒い文字が現れた。




【Deinde pons evanescet.(次は、橋が消える)】



第8話は本日5/6 14時過ぎ公開

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― 新着の感想 ―
クライマックスの集団朗唱。「人の記憶は紙より脆い」と宣言する怪異に、神学者まで含めた全員で式を唱えて押し返す ―― 凍ったロシアのアカデミーで、数学の式が祈りのように響く光景は、本作の最も美しい場面の…
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