第6話 公開討論
【証明か、信仰か。選べ】
紙に浮かんだその一文を見て、俺はしばらく動けなかった。
選べ。
簡単に言ってくれる。
だが、俺にとってはどちらも捨てる話ではない。
少なくとも、この時代では。
「ひどい二択ですね」
俺が呟くと、エリザが紙を睨んだ。
「二択に見せかけた罠です」
「罠?」
「証明を選べば、信仰を捨てたと記録される。信仰を選べば、証明を放棄したと記録される」
「どちらに転んでも負け」
「はい」
カタリナが紙を光にかざした。
「この紙、先ほどの偽文書とは違います」
「何が違うんですか」
「名前の部分だけ、インクが深いです。イワンという名だけ、紙に沈んでいます」
「またですか」
「はい」
彼女は眉を寄せた。
「ただし、署名だけ本物に近いかもしれません」
エリザが反応する。
「本物?」
「人間が書いた癖があります。形だけではなく、急いだ時の乱れがあります」
俺は紙を見た。
つまり、今度は怪異が勝手に名を書いただけではない。
イワン本人が関わっている可能性がある。
あるいは、本人の手を使わされたか。
ダニエルがいたら、判断できたかもしれない。
だが今、この部屋にいるのは俺たち三人だけ。
「どうしますか」
カタリナが聞いた。
エリザは即答した。
「選ばない」
「選ばない?」
俺が聞き返すと、彼女は頷いた。
「証明か信仰か、という問いを受け入れた時点で負けです。明日の検討会では、どちらも捨てない」
「どう言えば?」
「あなたが昨夜言ったでしょう」
彼女は紙を叩いた。
「無限を所有しない。有限から近づく。秩序を探すことは冒涜ではない」
カタリナが続ける。
「世界に秩序があるなら、それを丁寧に写すことは、信仰を壊すことではない」
俺は二人を見た。
「今の、使えます」
「使うために言いました」
エリザが言う。
カタリナは少し驚いたように自分の言葉を見直した。
「私もですか」
「はい」
俺は頷いた。
「かなり強いです」
カタリナは紙の端に、小さく書き足した。
秩序を写す。作るのでも、押し付けるのでもなく。
「では、明日の図版の横に置きます」
「置くんですか」
「はい。文字だけではなく、図の横に言葉を置いた方が残ります」
エリザが頷いた。
「いいですね。神学者向けの入口になります」
俺は息を吐いた。
怖い。
だが、少しずつ道ができている。
証明。
信仰。
記録。
名前。
全部を一つの線でつなぐ必要がある。
◇ ◇ ◇
朝。
サンクトペテルブルクの空は鉛色だった。
雪はやんでいない。
アカデミーの廊下は冷えきっていて、靴音が硬く響く。
公開検討会の部屋へ向かう途中、俺は何度も草稿を確かめた。
一枚目。
有限和の表。
二枚目。
円の図。
三枚目。
零点の図。
四枚目。
係数比較の草稿。
五枚目。
署名の一覧。
六枚目。
囮の透かし入り紙。
「見すぎです」
カタリナが言った。
「消えてないか心配で」
「私も見ています」
「それでも心配なんです」
「では、二人で心配しましょう」
「心強いような、そうでもないような」
エリザが後ろから言った。
「無駄口を叩く余裕があるなら大丈夫ね」
「緊張で死にそうです」
「死ぬなら検討会の後にしてください」
「厳しい」
「今日中です」
「昨日からずっと今日中ですね」
「明日になれば、また今日中です」
それはそうだ。
嫌な真理だ。
検討会の部屋は、昨日より広かった。
いや、広い部屋に変えられていた。
机が並べられ、壁際には書記がいる。
学者たち。
アカデミー関係者。
神学者らしき黒服。
そして、宮廷の制服を着た男たち。
その中に、一人、妙に整った姿勢の男がいた。
薄い灰色の目。
細い口元。
表情は穏やかだが、目はまったく笑っていない。
「あれが、イワン・ミハイロヴィチです」
カタリナが小声で言った。
「見たことが?」
「父の工房に、宮廷用の図版確認で来たことがあります」
「どんな人でした?」
「紙を先に見て、人を後に見る方です」
嫌な評価だ。
イワンはこちらに気づき、わずかに頭を下げた。
丁寧。
だが、友好的ではない。
ダニエルが部屋の中央に立っていた。
俺たちに気づくと、静かに頷く。
「レオンハルト」
「はい」
「準備は?」
「できています」
「嘘だね」
「半分くらいは」
「十分だ」
そう言ってくれるのはありがたいが、全然十分な気はしない。
ダニエルは部屋を見渡した。
「本日の検討会を始めます」
ざわめきが止まる。
「議題は、レオンハルト・オイラーによる二乗逆数級数についての考察」
その瞬間、壁際の書記が記録を始めた。
俺はその手元を見る。
書記の紙に、ちゃんとLeonhard Eulerと書かれている。
今のところ、消えていない。
カタリナも見ていた。
エリザも。
イワンも。
ダニエルが続ける。
「なお、昨日より著者名と草稿に関する不審な文書が流れている。本日は、数学的内容と同時に、記録の正確性も確認する」
部屋がざわついた。
イワンは表情を変えない。
黒服の神学者が手を上げた。
「その前に確認したい」
ダニエルが頷く。
「どうぞ」
「無限を扱う議論であると聞いている。無限は神の領域であり、人間が軽々しく値を定めるものではない」
いきなり来た。
早い。
俺はエリザを見た。
エリザは足を少し動かした。
踏む準備か。
やめてほしい。
俺は一歩前に出た。
「お答えします」
神学者が俺を見る。
「私は、無限を所有しようとしているのではありません」
部屋が静まる。
「有限から近づくのです」
俺はカタリナの用意した表を掲げた。
一項。
二項。
三項。
十項。
二十項。
「一つ足す。二つ足す。三つ足す。人間ができる有限の計算を積み重ねる。その先に、どのような秩序が見えるかを調べます」
神学者の目が少し動いた。
「秩序」
「はい」
俺はカタリナの図版を示した。
そこには円と線、そして短い言葉が添えられている。
秩序を写す。
「世界に秩序があるのなら、それを丁寧に写し取ることは、冒涜ではないはずです」
部屋の空気が変わった。
黒服の神学者は黙った。
イワンの目が細くなる。
エリザは小さく頷いた。
カタリナは、自分の書いた言葉が場に出たことに少し驚いた顔をしていた。
だが、すぐに紙へ視線を戻す。
彼女は今日、言葉の作者ではなく、記録の番人なのだ。
「続けます」
俺は表を指した。
「この和は、項を増やすたびに大きくなります。しかし、増え方は小さくなっていく」
学者たちが表を覗き込む。
「一見すれば、ただの足し算です。ですが、ここに円が現れます」
ざわめき。
来た。
この瞬間が一番強い。怖い。
二乗の逆数の和に、円。
違和感が、興味に変わる。
俺はカタリナの描いた円を掲げた。
昨日のような『卵』ではない。
完全な円だ。
「円から生じる長さを考えます」
エリザが壁際から声を出した。
「角に応じて定まる長さです。図のこの線をご覧ください」
何人かがエリザを見る。
女が発言した。
そういう空気が走る。
だが、ダニエルがすぐに言った。
「エリザはこの草稿の検算を補助している。数学的な指摘は私が保証する」
一言で、場が黙った。
エリザは一瞬だけダニエルを見た。
そして、すぐに図へ戻る。
「この量は、特定の場所で零になります。π、2π、3π」
俺が続ける。
「その零になる場所を手がかりに、積の形を考える」
ロシア人学者の一人が手を上げた。
「多項式ではないものを、多項式のように扱うのか」
「はい」
部屋がざわつく。
俺は続けた。
「ただし、これは慎重に扱うべき類推です」
エリザが頷く。
「断定ではありません。零点の示す秩序を読み、別の展開と係数を比べる道です」
「類推で証明になるのか」
別の学者が言う。
俺は答えた。
「類推だけではなりません。だから有限和の表で支えます」
カタリナが表をもう一枚出す。
「二十項までの計算です」
彼女の声は少し震えていた。
だが、はっきり聞こえた。
「項を増やすほど、値は円周率の二乗を六で割った数に近づきます」
学者たちが身を乗り出す。
計算が始まる。
紙の上で数字が走る。
誰かが呟く。
「確かに近い」
「二十項ではまだ足りないが」
「方向は合っている」
「円から出た値と、数列が近づくのか?」
空気が熱を帯びた。
よし。
恐怖ではなく、検算に入った。
人は計算を始めると、少し冷静になる。
俺は板に式を書いた。
1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + …… = π²/6
今度は、ゆっくり。
一文字ずつ。
πを書いた瞬間、カタリナが囮の透かし入り紙を机の端に置いた。
白化が来るなら、そこへ誘導する。
そんな作戦だ。
うまくいく保証はない。
だが、やるしかない。
イワンが初めて口を開いた。
「オイラー殿」
「はい」
「あなたは、この式が信仰と矛盾しないと言う」
「はい」
「では、問います」
彼は薄く笑った。
「証明できなかった場合、それは神の秩序を誤って語ったことになりますか」
嫌な問いだ。
失敗すれば異端。
成功しても危険。
これも罠だ。二者選択の形をした罠。
俺が答える前に、エリザの靴が俺の足に軽く触れた。
踏まれてはいない。
警告だ。
俺は深呼吸した。
「いいえ」
「なぜ?」
「間違いは、人間の側にあります。秩序の側ではありません」
部屋が静まる。
「私の証明に穴があれば、私の証明を直せばいい。式が間違っていれば、式を捨てて、新しい式を立てればいい。ですが、秩序を探すこと自体を罪とは考えません」
神学者が目を閉じた。
イワンは笑みを消した。
「なるほど」
俺は続けた。
「数学は、神の代わりに世界を支配するためのものではありません。世界にある関係を、人間にも読める形に写すためのものです」
カタリナの羽ペンが止まった。
今の言葉を、彼女は書いている。
いや、刻んでいる。
そのときだった。
囮の透かし入り紙の端が、白く光った。
来た。
俺の心臓が跳ねる。
カタリナがすぐにその紙を見る。
「囮に反応しました」
小声。
俺とエリザとダニエルだけに聞こえる程度。
透かし入り紙には、あらかじめ俺たちがLeonhard Eulerと書いてある。
そのEulerが、白く薄れ始めていた。
だが、同時にカタリナが別紙へ書く。
Leonhard Euler。
エリザも書く。
ダニエルも書く。
俺は板へ大きく書いた。
Leonhard Euler。
見ていた学者たちがざわつく。
「なぜ急に名を?」
「署名か?」
「何の儀式だ?」
俺は振り返った。
「記録です」
声を張る。
「この草稿の責任は、私、レオンハルト・オイラーにあります」
白化が止まった。
囮の紙のEulerは薄い。
だが消えていない。
部屋にいた何人かが、互いに顔を見合わせた。
イワンだけが、じっとその紙を見ていた。
まるで、何かを見破られたような顔で。
ダニエルが言った。
「今、ここに記録する。二乗逆数級数に関するこの草稿は、レオンハルト・オイラーのものだ」
エリザが続けた。
「私はその数学的検討に参加しました」
部屋がざわつく。
彼女は構わず言った。
「名前を残すかどうかは別として、私はこの証明の穴を見ました」
カタリナも、少し遅れて言った。
「私は図版と写しを担当しました。紙面の変化も記録しています」
静まり返った。
俺は二人を見た。
出すぎるなと言われていたのに。
二人とも、もう前に出ていた。
守るために。
式を。
名前を。
自分たちの仕事を。
俺は羽ペンを握りしめた。
「そして」
俺は言った。
「この式は、ただの足し算ではありません」
部屋の視線が戻る。
「無限級数と円がつながる。この一行が消えれば、人類は無限を計算できると信じるための楔を失います」
エリザが息を呑む。
カタリナの手が止まる。
でも、俺は止まらなかった。
「波を読む力が遅れる。熱を読む力が遅れる。星を読む力が遅れる。遠い未来で、空を飛ぶ機械も、自分の場所を知る技術も、遠くへ声を届ける術も、遅れるかもしれない」
部屋は静かだった。
当然だ。
半分以上、意味はわからないだろう。
でも、圧は伝わる。
数学がただの遊びではないこと。
この式が未来に伸びる線であること。
「だから私は」
俺は板の式を指した。
「この一行を、この時代に刻みます」
沈黙。
長い沈黙。
最初に口を開いたのは、黒服の神学者だった。
「あなたは、未来を語りすぎる」
まずい。
踏み込みすぎたか。
だが神学者は続けた。
「しかし、傲慢だけではない。恐れている」
「はい」
俺は正直に答えた。
「怖いです」
神学者は小さく頷いた。
「恐れを知る者の探究なら、私はただちに異端とは書かない」
その言葉に、部屋の空気が少し緩んだ。
勝ったわけではない。
だが、致命傷は避けた。
イワンは黙っている。
その沈黙が逆に不気味だった。
ダニエルが検討会をまとめに入った。
「本日の結論として、この草稿は完全な証明ではない」
ぐさりと来る。
「だが、検討に値する重大な道筋を含む。以後、レオンハルト・オイラーの草稿として、複数の写しを作成し保管する」
書記が記録する。
学者たちも頷く。
紙が増える。
記憶が増える。
名前が分散する。
白化は、今のところ止まっている。
俺はようやく息を吐いた。
そのとき、カタリナが囁いた。
「オイラー殿」
「何ですか」
「イワン様の紙を見てください」
俺はイワンを見る。
彼の前の紙。
宮廷書記官としての記録用紙。
そこに、彼の手ではない文字が浮かんでいた。
黒く、深く、紙に沈む字。
【宮廷報告書案
件名:無限級数に関する異端性の調査】
俺の喉が詰まる。
だが、その下の著者名を見て、さらに凍った。
【報告対象
Leonhard Euler。
協力者。
Eliza Bernoulli。
Catarina Gsell】
ダニエルがその紙を見て、顔色を変えた。
エリザの名も。
カタリナの名も。
宮廷に記録されようとしていた。
イワンは、初めて俺たちに向かって微笑んだ。
「おめでとうございます、オイラー殿」
彼は静かに言った。
「あなたの証明は、宮廷の関心を得ました」
第7話は本日5/6 11時過ぎ公開




