第5話 図版師の娘
イワン・ミハイロヴィチ。
宮廷書記官の名だ。
ダニエルがそう言った瞬間、部屋の空気が変わった。
偽文書の上には、まだその名が残っている。
Daniel Bernoulliの文字は消えた。
代わりに浮かんだのは、ロシア語の名前。
そして、その下の一文。
明日の検討会は、宮廷に報告される。
俺は紙を見つめた。
「宮廷……」
その単語だけで、胃が重くなる。
数学アカデミー内の話では済まなくなった。
学者同士の検討会でもない。
宮廷。
つまり、権力だ。
ダニエルは黙ったまま紙を見ている。
エリザが低く言った。
「イワン・ミハイロヴィチ。知っているのですか」
「名は知っている」
ダニエルが答えた。
「新しい都の記録と学術報告を扱う書記官だ。若いが、宮廷内での動きは速い」
「信用できますか」
「信用する相手ではない」
即答だった。
「利用するか、利用されるかだ」
俺は思わず言った。
「最悪ですね」
「宮廷とはそういう場所だよ、レオンハルト」
ダニエルの声は苦かった。
「学問は真理を求める。宮廷は価値を求める。価値があると見れば、真理ごと持っていく」
カタリナが偽文書を見つめた。
「では、明日の検討会でオイラー殿の証明が認められれば」
エリザが続ける。
「宮廷は、この式に価値があると知る」
「そして」
俺は言った。
「俺が、いや、私が国家に使える道具だと判断する」
部屋が静かになった。
スマホ。
GPS。
ロケット。
未来の言葉が頭をよぎる。
でも、この時代で最初に数学を欲しがるのは、そんな平和な機械ではない。
航海。
暦。
測量。
砲術。
要塞。
戦争。
数学は未来を救う。
同時に、今この時代の権力に利用される。
「オイラー殿」
エリザが言った。
「顔が悪いです」
「顔が悪い?」 ひどい。
「正確には、未来を見て勝手に絶望している顔です」
ぎくりとした。
この人、本当に危ない。
「便利な表現ですね」
「あなたを見ていると、便利な表現が増えます」
「褒めてませんよね」
「少しも」
カタリナが横から口を挟む。
「ですが、未来を見るなら、今見えている紙も見てください」
「紙?」
「はい」
彼女は偽文書を指した。
「この文字、まだ変化しています」
俺たちは一斉に紙を見た。
イワン・ミハイロヴィチ。
その名の端が、わずかに滲んでいる。
インクが乾いていないわけではない。
白く抜けるのでもない。
むしろ、紙の奥へ沈むように濃くなっていた。
カタリナは蝋燭を近づけ、紙を斜めにかざした。
「この字だけ、紙に食い込んでいます」
「食い込む?」
ダニエルが聞く。
「はい。普通のインクは表面に乗ります。けれどこれは、繊維の奥に入り込んでいるようです」
エリザが眉をひそめた。
「つまり、消えにくい?」
「おそらく」
カタリナは頷いた。
「オイラー殿の名前は消そうとする。けれど、イワンという名は深く残そうとしている」
俺の背筋に冷たいものが走った。
名前を消す。
名前を残す。
この怪異は、単に全てを白紙にするわけではない。
歴史の記録を、編集しようとする。
誰かの、あるいは何かの、都合のいい形に。
「校閲者みたいですね」
思わず呟いた。
「校閲?」
エリザが反応した。
「何ですか、それは」
「文章を直す人です。間違いを消したり、表現を整えたり」
「この現象が、歴史を校閲していると?」
「そんな感じがしました」
「嫌な比喩ですね」
「私も嫌です」
ダニエルは腕を組んだ。
「ならば、明日の検討会では二つを守る必要がある」
「証明と名前」
エリザが言う。
「それと、記録の形」
カタリナが続けた。
「誰が、どの順番で、どの紙に書いたか」
「つまり全部ですね」
俺が言うと、三人が同時に頷いた。
やめてほしい。
全部は重い。
だが、やるしかない。
ダニエルが言った。
「今夜はもう遅い。だが、これだけは決めておこう」
「何をですか」
「明日の役割だ」
彼は俺を見る。
「レオンハルト。君は式を説明する。余計な政治の匂いには反応するな」
「反応したら?」
「エリザに足を踏ませる」
「物理ですか」
エリザが涼しい顔で言った。
「必要なら」
怖い。
ダニエルはエリザを見る。
「エリザ。君は数学的な穴を監視しろ。私が口を挟む前に、危険な飛躍を止めてくれ」
「承知しました」
「ただし、出すぎるな。君の立場を利用される」
「わかっています」
その声だけ、少し低かった。
エリザは強い。
でも、自由ではない。
ダニエルはカタリナへ向いた。
「カタリナ嬢。君は紙を見てくれ。文字の変化、筆跡、図版、署名。異常があれば、すぐに知らせてほしい」
「はい」
「危険だ」
「承知しています」
「それでも頼む」
カタリナは深く頭を下げた。
「承りました」
俺はその横顔を見た。
図版師の娘。
数学者ではない。
公式な学者ではない。
だが今、彼女が見落とせば、俺の名前が消えるかもしれない。
証明が別人のものにされるかもしれない。
「カタリナ」
俺は言った。
彼女がこちらを見る。
「無理はしないでください」
「無理はします」
「即答ですか」
「必要なら」
「危ないですよ」
「オイラー殿も危ない橋を渡ろうとしています」
「橋?」
「言い回しです」
そうか。
この時点では、まだ七つの橋は先だ。
俺だけが、嫌な連想をしてしまう。
カタリナは続けた。
「私は数学を解けません。でも、紙が嘘をつく瞬間なら見つけられるかもしれません」
その言葉に、エリザが小さく頷いた。
「紙が嘘をつく瞬間」
「おかしいでしょうか」
「いいえ」
エリザは言った。
「明日の検討会で、それは数学より重要になるかもしれない」
夜がさらに深くなった。
ダニエルは偽文書を封筒に戻した。
「これは私が預かる」
「大丈夫ですか」
俺が聞くと、彼は微笑んだ。
「もし消えたら、私が覚えている」
「ダニエル先生も記録側ですか」
「数学者は皆、記録者だよ」
彼はそう言って部屋を出た。
扉が閉まる。
残されたのは、俺とエリザとカタリナ。
蝋燭の火が揺れている。
窓の外では雪が降り続いていた。
「では」
エリザが言った。
「続けます」
「まだ?」
「明日死にたいのですか」
「死にたくはないです」
「なら続けます」
本当に容赦ない。
カタリナは新しい紙を取り出した。
「私は図版をもう一組作ります」
「もう一組?」
「はい。同じ図を三種類の紙に描きます」
「なぜです」
「一つ消えても、残るように」
彼女は当たり前のように言った。
「それに、紙によって消え方が違うかもしれません」
エリザの目が光った。
「なるほど。紙質による差を見るのですね」
「はい。羊皮紙、薄い紙、アカデミーの透かし入り紙。三つで試します」
「実験ですね」
「絵の保存でも、紙によって傷み方が違いますから」
俺は思わず感心した。
「カタリナ、あなた本当にすごいですね」
彼女は筆を止めた。
「私は、父の仕事を見ていただけです」
「それがすごいんです」
「……そうでしょうか」
「はい」
カタリナは少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
エリザが咳払いをした。
「口説いている場合ではありません」
「だから違います」
「では、こちらを見てください」
彼女は草稿を突き出した。
赤い線が増えている。
「ここです。有限和の表からπ²/6への接続が急です」
「そこ、やっぱり駄目ですか」
「駄目です」
「どうすれば?」
「未来を知っているなら、その未来から言葉を持ってきてください」
俺は固まった。
「え?」
エリザは俺をじっと見る。
「あなたは何かを隠している。私はそれを今すぐ暴くつもりはありません」
「……」
「ですが、隠している知識があるなら、使って。使えない知識なら、持っていないのと同じです」
容赦ない。
でも、正しい。
俺は椅子に深く座り直した。
未来から言葉を持ってくる。
ただし、未来語をそのまま言えば怪しまれる。
スマホもロケットも出せない。
でも、概念なら使える。
バーゼル問題が未来にどうつながるか。
無限級数。
三角関数。
波。
熱。
天体。
通信。
「この式は」
俺はゆっくり言った。
「ただの足し算ではありません」
エリザが羽ペンを構える。
カタリナも手を止めた。
「続けてください」
「無限級数と円がつながる。それは、人間が波を計算するための扉になります」
「波?」
「音の波。水の波。光の波。天体の動きも、振動も、後の時代では数式で読むことになる」
エリザの目が細くなる。
「後の時代」
しまった。
だが、もう引けない。
「いつかの時代です」
俺はごまかす。
「この式が消えれば、人類は無限と円がつながる瞬間を失う。解析学が遅れる。波も熱も星も、計算が遅れる」
カタリナが小さく言った。
「未来も?」
俺は彼女を見た。
「はい」
もう、隠しきれない。
ただし全部は言わない。
「この一行が消えたら、未来の機械は電波を掴めないかもしれない。空を飛ぶ道具は軌道を読めないかもしれない。遠くの人と話す技術も、遅れるかもしれない」
「電波?」
エリザが問う。
「雷の親戚のようなものです」
「雑ですね」
「今はそう言うしかないんです」
カタリナは黙って聞いていた。
そして、静かに言った。
「つまり、πの二乗を六で割ることは、未来の人が自分の場所を知ることにもつながるのですか」
GPS。
その言葉を、俺は飲み込んだ。
「そうです」
カタリナは紙に書いた。
この式は、未来が自分の場所を知るための楔である。
「詩的すぎますか」
彼女が聞く。
エリザは少し考えた。
「検討会には向きません」
「そうですか」
「ですが、覚えるにはよいです」
俺は頷いた。
「明日は、もっと短く言います」
「どう?」
エリザが問う。
俺は息を吸った。
「この式は、無限を計算できると人類が信じるための最初の楔です」
部屋が静かになった。
エリザが、その言葉をゆっくり書いた。
カタリナも同じ言葉を書く。
二人の筆跡で、同じ一文が紙に残る。
「悪くありません」
エリザが言った。
「かなり褒めてます?」
「かなり」
珍しい。
本当に珍しい。
俺は少しだけ笑った。
「では、それを明日の軸にします」
「ただし」
エリザがすぐに刺す。
「感動的な言葉で証明の穴は埋まりません」
「わかっています」
「本当に?」
「今日は三割くらい」
「低い」
カタリナが小さく笑った。
その笑い声が、凍った部屋の中で少しだけ温かかった。
夜明け前。
ようやく準備は終わった。
図版三組。
有限和の表二組。
草稿四通。
署名の写し六枚。
偽文書の記録一通。
宮廷書記官イワンの名も、別紙に写した。
カタリナは紙を種類ごとに分けた。
「羊皮紙は変化なし。薄い紙は少し端が白くなりました。透かし入り紙は、名前の部分だけ濃く残ります」
エリザが頷く。
「透かし入り紙は危険ですね」
「はい。何かが名前を刻むのに使いやすいのかもしれません」
「なら、明日は透かし入り紙を避ける」
「いえ」
カタリナは首を振った。
「一枚だけ、あえて使います」
「まさか。囮に?」
「はい」
俺は彼女を見た。
「囮って、危ないですよ」
「紙が危ないだけです」
「でも、見ているあなたも」
「見なければ、何もわかりません」
言い切った。
エリザが腕を組む。
「あなた、意外と無茶をしますね」
「お二人ほどではありません」
「私は慎重です」
「本当ですか?」
「……比較対象によります」
俺は苦笑した。
そのとき、扉が叩かれた。
こんこん。
夜明け前にしては、軽すぎる音だった。
俺たちは顔を見合わせる。
「誰ですか」
俺が聞く。
返事はない。
代わりに、扉の下から一枚の紙が差し込まれた。
俺は近づき、慎重に拾った。
紙は薄い。
アカデミーの透かし入りではない。
白い。
何も書かれていない。
「白紙?」
エリザが言う。
カタリナが蝋燭にかざす。
「待ってください」
白紙の表面に、ゆっくりと文字が浮かぶ。
ロシア語。
いや、途中からラテン語に変わる。
そして最後に、ドイツ語。
まるで読む相手を探しているみたいに、文字が揺れながら定まっていく。
明日の検討会で、無限を語れば異端として記録する。
署名。
【イワン・ミハイロヴィチ】
その下に、さらに小さな一文が浮かんだ。
【Probatio an fides: elige. (証明か、信仰か。選べ)】
第一部前半、第5話までお読みいただきありがとうございます。
ここまでで、オイラー、エリザ、カタリナの三人体制が少しずつ形になってきました。
答えを知っているだけの主人公。
証明の穴を刺すベルヌーイの娘。
紙と図と筆跡を見て、記録を守る図版師の娘。
第6話からは、いよいよ公開検討会です。
無限級数、信仰、宮廷、そして消える記録。
凍都サンクトペテルブルクで、π²/6を歴史に残せるか。
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明日も第6話から再開、午前8時過ぎ更新予定です。




