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第4話 無限を疑え

第5話は本日5/5 21時過ぎ公開


草稿の表紙に書いたEulerの文字が、白く揺れた。


まるで、紙の上で名前が息をしているようだった。


「押さえてください!」


カタリナが叫んだ。


俺は反射的に草稿を押さえる。


だが、紙を押さえたところで意味はない。


白化は、紙の表面を削っているわけではない。


書かれた事実そのものを、世界から抜き取ろうとしている。


「Leonhard Euler」


カタリナが即座に読み上げた。


「Leonhard Euler。Leonhard Euler」


彼女は同じ名を三度繰り返した。


羽ペンを取り、別の紙に同じ名前を書く。


さらにもう一枚。


さらにもう一枚。


エリザも動いた。


「私も書きます」


彼女は自分の筆跡で、俺の名前を書いた。


ダニエルも黙って羽ペンを取る。


「私もだ」


紙の上に、いくつものLeonhard Eulerが並んだ。


俺自身の筆跡。


カタリナの整った筆跡。


エリザの鋭い筆跡。


ダニエルの落ち着いた筆跡。


その瞬間、草稿表紙の白化が止まった。


Eulerの文字は、薄くなりかけたまま、かろうじて残っている。


俺は大きく息を吐いた。


「……止まった」


カタリナはまだ紙を見つめている。


「完全ではありません」


「え?」


「薄くなっています。でも、消えてはいません」


ダニエルが表紙を見た。


「複数の記録が、消失を遅らせるのか」


「たぶん」


俺は答えた。


「紙一枚に書かれた名前なら消せる。でも、複数の人間が同時に記録すると消しきれない」


エリザが偽文書を指した。


「なら、この紙は何ですか」


そこには、あらためてこう書かれている。


Daniel Bernoulli。


俺の式の下に。


ダニエルの名がある。


「名前のすり替え、か」


俺は言った。


「消すだけではない。別の名で残そうとしている」


「私の名で?」


ダニエルの声は低かった。


怒っている。


当然だ。


師であり、先輩であり、後ろ盾である男の名前を使って、俺の発見を奪おうとしている。


しかも、この場で一番権威がある名だ。


ダニエル・ベルヌーイ。


その名があれば、アカデミーの連中は少なくとも無碍にはしない。


「悪質ですね」


エリザが言った。


「オイラー殿の名前を消し、ダニエルの名を残す。すると、この式はベルヌーイ家の成果になる」


「そして、私が否定しなければ成立する」


ダニエルが静かに続けた。


「逆に私が否定すれば、私自身が奇妙な怪文書に巻き込まれる」


「最悪ですね」


俺は呟いた。


エリザは俺を見る。


「最悪で済ませないでください。これはベルヌーイ家の名も使われています」


「すみません」


「謝罪より対策です」


「はい」


カタリナが偽文書を光にかざしていた。


「この紙、アカデミーのものです」


ダニエルが眉を寄せる。


「わかるのかね」


「はい。紙の端に薄く透かしがあります。午前に使ったものと同じです」


「つまり、外から届いたものではない」


「少なくとも、紙は内部のものです」


部屋が重くなる。


アカデミー内部。


つまり、誰かがこの建物の中で偽文書を作った。


あるいは、何かが内部の紙を使って作らせた。


「筆跡は?」


エリザが聞く。


カタリナは紙をじっと見る。


「ダニエル様の筆跡に似せています」


ダニエルが目を細めた。


「似せている?」


「はい。ですが、少し違います。線の終わりが硬い。急いで真似たというより、筆跡を知らないものが形だけ写したように見えます」


俺はぞっとした。


「筆跡を知らないもの」


「はい」


カタリナは言った。


「人間なら、もう少し癖を盗もうとします」


エリザの顔が険しくなる。


「人間ではないと?」


「わかりません」


カタリナは首を振る。


「ただ、この字は、人を見ていません。紙だけを見ています」


その表現が妙に怖かった。


人を見ていない筆跡。


名前を、ただの記号として扱う何か。


そいつが、俺からEulerを消し、Daniel Bernoulliを貼りつけようとしている。


「明日の検討会」


ダニエルが言った。


「予定を変える」


「中止ですか」


俺が聞くと、彼は首を振った。


「拡大する」


「え?」


「内輪では足りない。証人を増やす」


エリザがすぐに反応した。


「危険です。広がれば、偽文書も広がります」


「だからこそだ」


ダニエルは言った。


「密室で守ろうとすれば、一枚消されただけで終わる。広い場で、多くの人間に何が起きたかを覚えさせる」


俺は思わず黙った。


同じことを考えていた。


紙が消えるなら、口にする。


記号が消えるなら、言葉にする。


一人の記憶が狙われるなら、多数の記憶に分散する。


数学を、空気中にばらまく。


「公開検討会にするのですか」


エリザが言う。


「完全な公開ではない。だが、アカデミーの主要な者は呼ぶ。神学者も、宮廷の書記も」


「宮廷まで?」


「この都で名を守るには、学問だけでは足りない」


ダニエルの声には苦味があった。


「書記が残し、役人が認め、複数の者が証言する。そうして初めて、記録になる」


カタリナが頷いた。


「絵の注文記録と同じです」


「同じ?」


「はい。誰が描いたかだけでなく、誰が注文したか、誰が受け取ったか、どこに飾られたか。それで本物と偽物を分けます」


「なるほど」


俺は感心した。


本当に、この人は記録の本質を見ている。


エリザが小さく言った。


「では、明日は数学だけでなく、記録の戦いですね」


「そうなる」


ダニエルは頷いた。


「だから今夜、準備する」


「今夜?」


俺は思わず聞き返した。


「はい」


エリザが即答する。


「当然です」


カタリナも言った。


「図版も増やします」


逃げ場がない。


いや、逃げる気もない。


俺は草稿を見た。


Eulerの名はまだ薄い。


だが、残っている。


ここで止まれない。


「では、やります」


俺は言った。


「明日、無限を疑う人たちの前で、有限から説明します」


ダニエルが微笑んだ。


「よい。無限を恐れる者には、まず有限の階段を見せなさい」


そこから、夜の作業が始まった。


アカデミーの小部屋に、蝋燭が追加された。


窓の外は真っ暗だ。


雪が硝子を叩く。


遠くで馬車の音がした。


俺たちは机を囲んだ。


「まず、明日の入口です」


エリザが言った。


「無限という語を最初から強く出しすぎないこと」


「でも、難所は無限級数ですよね」


「だからです」


彼女は紙に線を引く。


「一項。二項。三項。十項。有限の和を並べる」


カタリナが表を用意する。


「この表ですね」


「はい。聴衆にはまずこれを見せる」


俺は頷いた。


「無限をいきなり掴まない。有限の階段を上がる」


「よろしいです」


エリザは続けた。


「次に、円を出す。ただし、突然πを書くと拒絶されます」


「なぜ円が出るのか、先に匂わせる」


「そうです。円から生じる長さが、特定の場所で零になる。その零点を見れば、逆二乗の和が現れる」


「そこが一番危うい」


「だから、断定ではなく、導く道として示す」


カタリナが図を描く。


円。


角。


線。


零になる場所。


その図は、俺の頭の中よりずっと綺麗だった。


「やっぱり、図があると違いますね」


俺が言うと、カタリナは少しだけ困った顔をした。


「私は、意味はすべてわかっていません」


「十分です」


「十分?」


「意味を全部わかる前に、形を残せる。それが今、一番必要です」


カタリナは少しだけ黙った。


「便利ですか」


俺は彼女が言った言葉を思い出した。


便利で終わらないように。


俺はすぐに首を振った。


「便利ではありません。必要です」


「同じでは?」


「違います」


「どこがですか」


「便利なものは、代わりがききます。でも、あなたの目と手は代わりがない」


カタリナは目を逸らした。


「そうですか」


「はい」


エリザが冷たく言った。


「口説いている場合ですか」


「ち、違います」


「では、手を動かしてください」


「はい」


ダニエルが笑った。


「レオンハルト。君は本当に今日、妙に人間らしいね」


俺は固まった。


「どういう意味ですか」


「以前の君なら、もっと計算しか見ていなかった」


その言葉は重かった。


ダニエルは柔らかく笑っている。


だが、その奥に観察がある。


彼も気づいている。


俺が、いつものオイラーと違うことに。


「疲れているのかもしれません」


俺は言った。


「そうかもしれないね」


ダニエルはあっさり流した。


だが、目は流していなかった。


「ただ、悪い変化ではない」


「そうですか」


「今の君は、証明が一人では残らないと、知ってしまった」


俺は何も言えなかった。


本物のオイラーなら、一人で突き進めたのかもしれない。


だが俺は違う。


答えを知っているだけの凡人だ。


だから、人に頼るしかない。


それが弱さなのか。


それとも、この世界で生きるための強さなのか。


まだわからない。


エリザが草稿を机に置いた。


「感傷は後です」


「本当に厳しい」


「明日、あなたが潰されれば、この式も潰れます」


「わかっています」


「なので、神学者向けの説明も作ります」


「神学者?」


「アカデミーには、無限を軽々しく扱うことを嫌う者もいます」


「無限は神の領域、ですか」


「そう言われるでしょうね」


俺は頭を抱えた。


数学だけではない。


宗教。


権威。


宮廷。


全部が絡む。


「では、こう言います」


俺は少し考えた。


「私は無限を所有しようとしているのではありません。有限から一歩一歩近づき、その先にある秩序を見ようとしているだけです」


エリザが手を止めた。


「続けて」


「世界が秩序を持って作られているなら、その秩序を探すことは冒涜ではないはずです」


部屋が静かになった。


ダニエルが静かに頷く。


「悪くない」


エリザも言った。


「使えます」


カタリナはすでに書き留めていた。


「無限を所有しない。近づく」


「そこ、残してください」


「はい」


俺は少しだけ息を吐いた。


一歩ずつだ。


数学の証明。


図。


表。


言葉。


名前。


全部を支えなければならない。


そうしなければ、消される。


夜が深くなる。


蝋燭が短くなる。


エリザの赤字は増え続けた。


カタリナの図は整っていった。


ダニエルは時折、核心だけを突いた。


「レオンハルト。ここはまだ飛躍している」


「はい」


「だが、飛躍を完全に消すな。発見には跳躍が必要だ」


「危険では?」


「危険だ。だから着地点を用意する」


エリザが頷く。


「その着地点が有限和の表です」


カタリナが言う。


「そして図です」


俺は笑った。


「完璧な布陣ですね」


「証明はまだ完璧ではありませんが」


エリザが即座に刺した。


「はい」


夜半を過ぎた頃。


ようやく、明日の説明順が決まった。


一、有限の和を示す。


二、増え方が小さくなることを示す。


三、円から生じる長さを図で示す。


四、零になる場所を確認する。


五、積の形を仮に考える。


六、係数を比べる。


七、二乗逆数の和とπ²/6を結びつける。


八、複数の筆跡で著者名を残す。


最後の八だけ、数学ではない。


だが、今は最も重要かもしれない。


「では、名前の練習です」


カタリナが言った。


「名前の練習?」


「はい。明日は何度も書くことになるかもしれません」


「私が?」


「全員で」


エリザが少し嫌そうな顔をした。


「本当にやるのですか」


「消えたら困ります」


カタリナは真面目だった。


「Leonhard Euler」


彼女が書く。


「Leonhard Euler」


俺が書く。


「Leonhard Euler」


エリザが書く。


「Leonhard Euler」


ダニエルが書く。


紙の上に、同じ名前が増えていく。


俺はその光景を見て、不思議な気持ちになった。


俺は本物ではない。


だが、この名を守ろうとしている人たちがいる。


いや、正確には。


この名の下に残るべき数学を守ろうとしている。


「レオンハルト」


ダニエルが言った。


「はい」


「明日、もし何かが起きても、式を止めるな」


「名前が消えても?」


「名前は我々が守る」


エリザが続けた。


「あなたは証明を守ってください」


カタリナも言った。


「図と記録は、私が見ます」


俺は三人を見た。


寒い部屋。


短くなった蝋燭。


紙の山。


赤字だらけの草稿。


その中で、ようやく思った。


一人でオイラーになる必要はない。


この時代に、オイラーの仕事を残せばいい。


「わかりました」


俺は言った。


「明日、無限を疑う連中の前で、有限から殴ります」


「言葉が悪いです」


エリザが言った。


「有限から導きます」


「よろしい」


カタリナが少し笑った。


その瞬間。


部屋の隅で、かすかな音がした。


ぱさり。


全員が振り向く。


棚に置いていた偽文書。


Daniel Bernoulliの名が書かれた紙が、ひとりでに床へ落ちていた。


俺たちは近づいた。


紙の上のDaniel Bernoulliの文字が、じわじわと白く抜けていく。


「消えている?」


俺が言うと、エリザが首を振った。


「違います」


白く抜けた場所に、新しい文字が浮かび上がった。


Daniel Bernoulliではない。


Leonhard Eulerでもない。


Eliza Bernoulliでもない。


Catarina Gsellでもない。


そこには、ロシア語で一つの名が書かれていた。


イワン・ミハイロヴィチ。


ダニエルの顔色が変わった。


「宮廷書記官の名だ」


その下に、もう一行が現れる。


明日の検討会は、宮廷に報告される。


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