第3話 ベルヌーイの娘
Eulerの文字が、白く抜けていく。
朝の書類に残っていた署名。
Leonhard Euler。
そのうち、家名だけが薄れていた。
まるで紙が、俺をオイラーだと認めないみたいに。
「待ってください」
カタリナが声を上げた。
彼女は慌てて別の紙を取り、消えかける署名を写し始めた。
「L、e、o、n、h、a、r、d……」
羽ペンが走る。
「E、u、l、e、r……」
彼女が最後のrを書き終えた瞬間、元の書類からEulerの文字が消えた。
完全に。
Leonhardだけが残っている。
名前が、半分になった。
「……消えた」
エリザが低く呟く。
俺は喉が乾いて、何も言えなかった。
カタリナは写した紙を押さえたまま、唇を引き結んでいる。
その紙の上には、まだLeonhard Eulerとある。
「こちらは残っています」
「本当に?」
俺は身を乗り出した。
「はい」
カタリナは紙を見つめる。
「今のところは」
今のところ。
その言い方が怖い。
俺は消えた元の書類を見た。
そこには、Leonhardだけが残っていた。
オイラーの名が消える。
それは、ただ署名が消えたという話ではない。
もし記録からEulerの名が消えれば。
バーゼル問題を解く者が、レオンハルト・オイラーではなくなる。
俺は、歴史から外される。
「……まずいな」
思わず日本語が漏れかけた。
かろうじて飲み込む。
だが、エリザは見逃さなかった。
「今、何を言いかけましたか」
「何でもありません」
「何でもない顔ではありません」
「顔で判断しないでください」
「では、筆跡と発言で判断します」
詰め方が容赦ない。
エリザは消えた署名を見下ろす。
「名前が消える。しかも家名だけ」
「偶然ではないですね」
「当然です」
彼女は即答した。
「偶然に家名だけが消えてたまりますか」
カタリナが小さく言う。
「また、紙そのものは傷んでいません」
「つまり、さっきの白いページと同じ?」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
「はい。削った跡も、染みもありません」
エリザが俺を見た。
「オイラー殿」
「はい」
「あなたは、本当に何か知っているのではありませんか」
来た。
さっき保留された問いが、もう一度戻ってきた。
筆跡。
言葉遣い。
答えだけ先にある証明。
そして、名前が消える怪異。
俺が怪しいのは当然だ。
だが、本当のことは言えない。
未来から来ました。
中身は別人です。
この体の本来の持ち主ではありません。
そんなことを言えば、数学以前に終わる。
「知っていることはあります」
俺は言った。
エリザの目が細くなる。
カタリナもこちらを見る。
「ですが、この現象については知りません」
「では、何を知っているのです」
俺は机の草稿を見た。
バーゼル問題。
π²/6。
円。
零点。
積。
係数。
「この式が、未来に残る価値です」
エリザが黙った。
「私は、この答えが正しいことを知っている。ですが、この時代の言葉で証明する力が足りない」
「それは、先ほどから見ています」
「容赦ないですね」
「事実です」
カタリナが少しだけ困った顔をした。
俺は続けた。
「だから、助けてほしい」
エリザの眉が動く。
「私に?」
「あなたと、カタリナに」
「私たちは、あなたの使用人ではありません」
「そういう意味ではありません」
「では?」
「共同研究者として」
言った瞬間、部屋が静かになった。
カタリナが目を見開く。
エリザは表情を変えなかった。
だが、ほんのわずかに指が止まった。
「共同研究者」
彼女はその言葉をゆっくり繰り返した。
「女性を、数学の共同研究者と呼ぶのですか」
「実際に、あなたは証明の穴を見つけています」
「表に名前は出ません」
「出しましょう」
エリザが笑った。
冷たい笑みだった。
「面白い冗談です」
「冗談では」
「ベルヌーイ家の女が、正式な数学論文に名を連ねる。そんなことが許されると本気で思っているのですか」
言葉が刺さった。
未来の感覚で、簡単に言いすぎた。
この時代で、彼女の名前を出すことは、彼女を守ることではなく、危険に晒すことかもしれない。
「……すみません」
俺は頭を下げた。
エリザが少し驚いた顔をする。
「なぜ謝るのです」
「軽く言いました。あなたの立場を考えずに」
「そうですか」
彼女は目を逸らした。
「では、少しは学習能力があるようですね」
褒めているのか、刺しているのか。
たぶん両方だ。
カタリナが静かに言った。
「名前が出なくても、仕事がなかったことになるのは嫌です」
エリザが彼女を見る。
カタリナは写した署名の紙を押さえたまま続けた。
「絵も同じです。父の工房では、師の名で出る絵に、弟子や職人が手を入れます。でも、誰がどこを描いたかを知っている人はいます」
「知っている人が死ねば?」
エリザが問う。
「消えます」
カタリナは答えた。
「だから、私は覚えます」
その声は静かだった。
けれど、強かった。
「誰が何をしたか。どの線を直したか。どの紙を写したか。表に出なくても、私が覚えます」
俺は彼女を見た。
先ほどまで、カタリナは「図を描ける人」だった。
でも今、彼女はそれ以上の役割を持ち始めている。
記録者。
証人。
歴史からこぼれる仕事を拾う人。
エリザもそれを感じたのだろう。
少しだけ、声が柔らかくなった。
「あなたは、恐ろしい方ですね」
「よく言われます」
「誰に?」
「父に」
「納得しました」
俺は思わず笑いそうになった。
だが、笑うには状況が悪い。
机の上には、Eulerの名が消えた書類。
白化する本。
まだ穴だらけの草稿。
そして、俺を疑う二人。
「まず、名前を守りましょう」
エリザが言った。
「どうやって?」
「複数の筆跡で書くのです」
彼女は紙を引き寄せた。
「オイラー殿の署名。カタリナ様の写し。私の記録。そして、ダニエルの確認。最低でも四種類」
「それで消えないと?」
「わかりません」
「わからないんですか」
「初めて見る怪異に、完全な対策などあるはずがありません」
正論だった。
「ただ、一箇所を狙われたなら、複数箇所に散らす。これは写本を守る基本です」
「数学というより、戦争ですね」
「学問は昔から戦争です」
エリザは言い切った。
俺はその言葉を紙に書き留めたくなった。
だが、その前に草稿だ。
カタリナが別紙を出す。
「では、私が写します」
「私も書く」
エリザが言う。
「オイラー殿は、証明の続きを」
「休憩は?」
「ありません」
「ですよね」
俺は羽ペンを握り直した。
そこから、奇妙な作業が始まった。
俺はバーゼル問題の証明草稿を書く。
エリザは赤を入れる。
カタリナは図と原稿を清書し、署名を写し、紙面の変化を見張る。
「ここ、やはり危険です」
エリザが言った。
「零点を持つからといって、積の形が一意に定まるとは限りません」
「でも、史実……いや、この道筋では」
「今、何と言いましたか」
「この思考では」
「怪しい言い直しですね」
まずい。
未来語だけでなく、史実という言葉も危険だ。
俺は咳払いした。
「つまり、完全に正当化するには足りない。ただ、この時代の議論としては、十分に説得力を持たせられるはずです」
「説得力と証明は違います」
「わかっています」
「本当に?」
「半分くらい」
「最低ですね」
「正直でしょう」
「正直なだけの馬鹿は困ります」
エリザは相変わらず手厳しい。
カタリナが図を描きながら言った。
「ですが、嘘をつく馬鹿よりはよいのでは」
エリザが一瞬黙った。
「……それは、そうかもしれません」
俺は複雑な気持ちになった。
馬鹿扱いは確定なのか。
「では、こうしましょう」
エリザは草稿の一部に線を引く。
「この操作を断定ではなく、仮にこの量を零点に従って積のように見れば、と置く」
「仮定として置く」
「そして、そこから得られる結果が、有限和の数値計算と合うことを示す」
「検算で支えるわけですね」
「そうです」
「強い」
「当然です」
カタリナが顔を上げる。
「検算用の表も作りますか」
「作れますか」
「数値は計算していただければ、表にはできます」
「では、十項まで」
「二十項まで欲しいです」
エリザが言う。
「多い」
「美しい答えを信じさせるには、泥臭い数字が必要です」
本当にこの人は強い。
俺は計算を始めた。
一項。
二項。
三項。
分数の和。
近似値。
手で計算するのは面倒だ。
電卓が欲しい。
パソコンが欲しい。
せめてスマホが欲しい。
「すまほ」
カタリナが呟いた。
俺は凍った。
「今、何と」
「オイラー殿が、小さくそうおっしゃいました」
「言いました?」
「はい」
言っていたらしい。
終わった。
エリザが俺を見る。
「何ですか、それは」
「ええと」
「数学用語ですか」
「未来の……」
言いかけて止まる。
危ない。
「異国の計算道具の名前です」
「どこの異国ですか」
「とても遠いところです」
「また便利な遠方ですね」
エリザの疑いが深まっていく。
カタリナは、じっと俺を見ている。
責める目ではない。
見逃す目でもない。
記録する目だ。
「その道具があれば、計算が早いのですか」
彼女が聞いた。
「はい」
「では、ないものとして進めましょう」
「切り替えが早い」
「ここにはありませんから」
その通りだ。
ここにはない。
未来にはある。
でも、ここで使えるのは羽ペンと紙と頭だけ。
俺は計算に戻った。
二十項までの表を作る頃には、指が痛くなっていた。
だが、その甲斐はあった。カタリナがまとめた表は美しかった。
数字が整然と並ぶ。
増え方がだんだん小さくなるのが、一目でわかる。
エリザがそれを見て頷いた。
「これなら、有限から近づく感覚を示せます」
「無限をいきなり掴まない」
俺が言うと、エリザが続けた。
「有限から階段を作る」
カタリナが書き留める。
「有限から階段を作る」
その言葉を見た瞬間、俺は思った。
これだ。
数学を専門としない相手にも伝わる。
無限という崖に飛び込むのではない。
有限の階段を一段ずつ上がる。
上がった先に、π²/6が見える。
「これ、使えます」
俺は言った。
「公開の説明で」
エリザが眉を上げる。
「公開?」
「いずれ、広い場で説明することになると思います」
「気が早いですね」
「でも必要です」
カタリナが頷いた。
「紙だけでは消えるかもしれませんから」
「だから、人の記憶にも残す」
俺は言った。
エリザが少しだけ表情を変えた。
「紙が消えるなら、口で広める。口が消えるなら、複数の記憶に分ける」
「はい」
「それは、論文というより防衛線ですね」
「学問は戦争なんでしょう?」
俺が言うと、エリザは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
「覚えていたのですね」
「カタリナが書いていましたから」
「便利ですね、記録者は」
カタリナが静かに言った。
「便利で終わらないようにしてください」
エリザが黙った。
俺も黙った。
カタリナはそのまま表を書き続けた。
便利。
補助。
写し。
清書。
そういう言葉で片付けられる役割を、彼女は自分で拒んだ。
この人も強い人だ。
夕方を過ぎ、外はもう暗かった。
小部屋の蝋燭が短くなる。
ようやく草稿の第一形がまとまった。
表紙には、エリザの提案でこう書いた。
二乗逆数級数についての考察。
著者欄には、俺が慎重に書いた。
Leonhard Euler。
今回は消えなかった。
カタリナが横から別紙に同じ名前を写す。
エリザも、記録として書く。
三つのEuler。
三つとも残っている。
「今のところは大丈夫です」
カタリナが言った。
「今のところ、が怖いんですよ」
「現実です」
「現実、厳しいな」
「数学ほどではありません」
エリザが言った。
俺は苦笑した。
そのとき、扉が叩かれた。
三人とも動きを止める。
「私だ」
ダニエルの声だった。
俺は息を吐いた。
「どうぞ」
扉が開き、ダニエルが入ってくる。
その顔には疲労が見えた。
手には、封筒が一つ。
「草稿は?」
「ここに」
俺は紙束を差し出した。
ダニエルは受け取り、数ページをめくった。
目が速い。
彼は式を追い、図を見て、表を見た。
そして、エリザの赤字に気づく。
「容赦がないね」
「頼まれましたので」
「頼んだのは私だ」
ダニエルは少し笑う。
次に、カタリナの図を見る。
「美しい図だ」
「ありがとうございます」
「レオンハルトの卵ではない」
「皆さん、それを言いすぎでは」
俺の抗議は流された。
ダニエルは草稿を閉じた。
「よい」
短い言葉だった。
だが、重い。
「穴はまだ多い。危うい。だが、見るべき道がある」
俺は胸を撫で下ろした。
「では」
「明日、内輪の検討会にかける」
「明日?」
「早い方がいい」
「それは、そうですが」
ダニエルは封筒を机に置いた。
「理由はもう一つある」
「何ですか」
「アカデミー内に、妙な文書が回っている」
エリザが眉をひそめる。
「妙な文書?」
ダニエルは封筒から一枚の紙を出した。
そこには、整った筆跡で数式が書かれていた。
1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + …… = π²/6
俺たちの式。
だが、その下にある著者名を見て、俺は息を止めた。
Leonhard Eulerではない。
Eliza Bernoulliでもない。
Catarina Gsellでもない。
そして、俺の知らないロシア人学者の名前でもなかった。
そこには、こう書かれていた。
Daniel Bernoulli
エリザが凍りついた。
カタリナが紙を握りしめる。
ダニエルは静かに言った。
「私は、こんなものを書いていない」
その瞬間、草稿の表紙に書いたEulerの文字が、かすかに白く揺れた。
第4話は本日5/5 15時過ぎ公開




