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第2話 凍都の筆跡


【証明するな】


白いページに浮かんだその文字を見た瞬間、部屋の空気が凍った。


いや。


もともと凍るほど寒い街だ。


けれど今の寒さは、そういうものではなかった。


背骨の内側を、冷たい指でなぞられたような寒さ。


俺は息を呑んだ。


誰も羽ペンを持っていない。


インク壺も遠い。


本は勝手に開いた。


文字は勝手に現れた。


「……今の、見えましたか」


俺が小声で言うと、隣のカタリナが頷いた。


顔が青い。


だが、目だけは本から離れていない。


「見えました」


エリザも言った。


「私もです」


ダニエルが本に近づく。


いつもの柔らかい表情は消えていた。


顔から血の気が引いている。


それでも、本へ伸ばした手だけは震えていなかった。


「何が見えた?」


俺は白いページを指した。


「そこに、文字が」


「文字?」


ダニエルが覗き込む。


その瞬間。


黒い一行が、紙に吸い込まれるように薄れていった。


【証明するな】


その文字は、消えた。


残ったのは、ただの白い余白。


ダニエルは眉をひそめた。


「……何もない」


「今、ありました」


エリザが即座に言った。


「確かにありました。『証明するな』と」


部屋にいた学者たちがざわつく。


「何を言っている?」


「誰かの悪戯では?」


「しかし、文字など見えなかった」


「疲れているのではないか」


まずい。


見えた人間と見えなかった人間がいる。


俺。


カタリナ。


エリザ。


少なくともこの三人は見た。


ダニエルは見ていない。


他の学者も、おそらく見ていない。


この差は何だ。


数式の理解ではない。


カタリナは数学を専門にしていない。


なら、別の条件か。


消えたものを見つけた者。


あるいは、消えたものを記録しようとした者。


この怪異は、証明そのものではなく、証明を残そうとする手に反応しているのかもしれない。


「レオンハルト」


ダニエルが静かに言った。


「君は今、何を見た?」


「白いページに、文字が現れました」


「内容は」


「ラテン語で、Nōlī probāre. 『証明するな』と」


部屋のざわめきが大きくなる。


ロシア人学者の一人が鼻で笑った。


「無限級数の次は幽霊ですか」


別の男も言う。


「若き天才殿は、寝不足で幻を見たのでは」


「かもしれません」


俺は言った。


部屋が少し静まった。


「ですが、幻だとしても問題です」


「どういう意味だ?」


「今、私が説明しようとしていた箇所の手がかりも、この本から消えています」


俺は白い余白を指した。


「昨日までは文字があったと、エリザも証言してくれました」


エリザが頷く。


「ありました。少なくとも、このような空白ではありませんでした」


ダニエルがエリザを見る。


「確かかい?」


「はい」


「記憶違いでは?」


「私の記憶は、そこまで便利に間違えません」


強い。


エリザはまったく引かない。


カタリナが一歩前に出た。


「紙も、おかしいです」


ダニエルが振り返る。


「カタリナ嬢?」


「はい」


彼女は本のページに指を近づけた。


触れはしない。


ただ、光に透かすように紙面を見る。


「文字が削られたのなら、紙の表面に傷が残ります。薬品で落としたのなら、色や繊維に変化が出ます」


「君にはわかるのか」


「父の工房では、絵を直す仕事もあります。消した跡、塗った跡、湿気で滲んだ跡は、何度も見てきました」


「それで?」


カタリナは白い箇所を見つめた。


「何もありません」


「何も?」


「はい。ここには、文字を後から消した痕跡がありません。書かれたこと自体が、なかったように見えます」


その言葉に、部屋が静まった。


書かれたこと自体が、なかった。


それは、ただの改竄よりずっと気味が悪い。


ダニエルはしばらく本を見つめていた。


笑わない。


茶化さない。


理性で恐怖を押し込めるように、ゆっくりと本を閉じた。


「この件は、いったん預かる」


「ダニエル先生」


俺は言った。


「バーゼル問題は?」


「続ける」


彼は即答した。


「何かが消えているなら、なおさらだ」


一瞬、胸が熱くなった。


さすがダニエル・ベルヌーイ。


怪異を見たかどうかは別として、数学者としての判断は速い。


「ただし、今日はここまでだ」


「え?」


「君は混乱している。私たちもだ。今の状態で証明を進めれば、穴だらけのものになる」


「でも」


「焦るな。消されるものを守るには、まず正確に残す必要がある」


その言葉に、エリザが頷いた。


「同感です」


カタリナも言った。


「図も、描き直した方がよろしいです」


「そこもですか」


「はい」


カタリナは真面目な顔で言った。


「円が卵では、後世の方が困ります」


後世。


その言葉に、俺は少しだけ息を止めた。


彼女は何気なく言っただけだろう。


だが俺には、刺さった。


後世。


未来。


スマホもロケットも、まだこの世界にはない。


でも、数式はそこへ続いている。


俺がここで残せなければ、それらが全部無くなるとはまでは言えない。


しかし、どこかが変わる。


他ならぬレオンハルト・オイラーの仕事だ。その影響はとてつもなく大きい。


もしもオイラーのバーゼル問題の解法が失われたら。


無限級数を関数として扱う発想も、

三角関数の無限積表示も

ゼータ関数の特殊値研究も

整数論と解析の接続も

後の解析的数論への道筋も

失われる。


ダニエルは周囲を見た。


「本日の検討は中断する。レオンハルトは、今日中に草稿を整理して私に見せなさい」


「今日中ですか」


「君が今ここで残さないと、なかったことにされると言ったのだろう」


「言いました」


「なら、残しなさい」


ぐうの音も出ない。


ダニエルはさらに言った。


「エリザ」


「はい」


「君は彼の草稿を読むこと」


「もちろんです」


「容赦は」


「しません」


「知っている」


ダニエルは少し笑った。


それからカタリナを見る。


「カタリナ嬢。君は今日、図版の清書係だったね」


「はい」


「予定を変更する。オイラー殿の図と紙面を手伝ってやってほしい」


カタリナが目を丸くした。


「私が、ですか」


「君は文字の消え方に気づいた。図も正確に描ける。必要だ」


「ですが、私は数学を」


「数学は彼とエリザが見る。君は紙と図を見てほしい」


ダニエルの言い方は「守ってほしい」と聞こえた。


カタリナは少しだけ迷った。


そして、丁寧に頭を下げた。


「承知しました」


こうして俺は、初日から三人に監視されることになった。


数学史上最強の天才の身体で。


現代知識を持って。


それでも、証明の草稿を一人で書くことすら許されない。


いや。


許されないのではない。


一人ではできないのだ。


俺はその現実を、早くも理解し始めていた。


検討会が解散したあと、俺たちはアカデミーの小部屋へ移った。


窓の外には、灰色の空。


ネヴァ川は凍りつきかけている。


遠くに、宮殿の尖塔が見えた。


サンクトペテルブルク。


ロシア帝国の新しい都。


その片隅で、俺はバーゼル問題の草稿を書くことになった。


「では」


エリザが椅子に座るなり言った。


「最初から説明してください」


「今すぐ?」


「今日中に草稿を出すのでしょう」


「そうですが」


「時間は有限です。無限ではありません」


「数学っぽく嫌味を言わないでください」


「嫌味ではありません。事実です」


カタリナが机に紙を広げる。


「円はこちらで描きます」


「俺が描く余地は」


「あります。下書きなら」


「下書き扱い」


「はい」


つらい。


だが、反論できない。


俺は羽ペンを取った。


「まず、問題はこれです」


紙に書く。


1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + ……


「一、二、三、四と続く数の二乗。その逆数を足していく」


エリザがすぐに口を挟む。


「よろしいです。自然数という語より通じます」


「そこから見るんですね」


「入口で転べば、奥まで読まれません」


カタリナが別紙に書き直す。


「一、二、三、四と続く数」


「速いですね」


「写すのは慣れています」


彼女の字は整っていた。


均等で、読みやすく、余白が美しい。


俺の走り書きとはまるで違う。


「次に」


俺は続けた。


「この和が、πの二乗を六で割ったものに近づく」


エリザが頷く。


「答えは先に置くべきです」


「なぜですか」


「人は美しい答えに釣られます」


「釣られる」


「今日もそうでした。πが出た瞬間、全員の顔が変わった。殴られたようでした」


カタリナも小さく頷く。


「はい。顔の向きまで変わりました」


「図版係なのに見てたんですか」


「人の顔も、図の一部です」


俺は言葉に詰まった。


この人、数学はわからないと言いながら、とんでもない見方で、とんでもないところまで見ている。


「では、最初に答えを置きます」


俺は言った。


「その後、なぜ円が出るかを示す」


エリザが頷く。


「よろしいです」


「先生みたいですね」


「あなたが生徒のようなので」


強い。


本当に容赦ない。


俺は続けた。


「円から生じる量として、正弦を考える」


エリザの目が細くなる。


「その正弦という語を、どう説明しますか」


「ええと」


詰まった。


現代なら一瞬だ。


単位円。


角度。


y座標。


関数。


でもこの時代では、言い方を選ぶ必要がある。


俺はカタリナの描いた円を見た。


円。


半径。


角度。


弦。


「円の中で、角に応じて決まる長さ」


俺は言った。


「それで押し切るつもりですか」


「駄目ですか」


「駄目です」


エリザが即答する。


カタリナが遠慮がちに言った。


「図で示せば、少し伝わるかもしれません」


「図で?」


「はい。角と線を描けば、長さの関係は見えると思います」


彼女は円の中に線を引いた。


中心。


半径。


垂線。


弦。


美しい。


俺の頭の中にあった雑な図が、紙の上で急に説明可能なものになった。


「これです」


俺は身を乗り出した。


「この図があれば、正弦を言葉で長々説明しなくていい」


エリザが図を見て、少しだけ目を見開いた。


「カタリナ様」


「はい」


「あなた、数学を学んだことは?」


「ありません」


「本当に?」


「はい。父の仕事で、天文図や機械図を写すことはありますが」


「それで、これを描けるのですか」


「見たまま描いただけです」


エリザは小さく息を吐いた。


「とんでもないですね」


「すみません」


「褒めています」


「そうなのですか」



それから数時間。


俺たちは草稿を書き続けた。


俺が道筋を出す。


エリザが穴を突く。


カタリナが図と文字を整える。


「ここ、飛んでいます」


「またですか」


「またです」


「少しは見逃して」


「数学は見逃しません」


「厳しいな」


「人間よりは公平です」


エリザは淡々と言った。


その言葉の奥に、何かがあった。


彼女は正式な席にいない。


ダニエルの親族補助。


書簡整理。


蔵書管理。


だが、数学はできる。


ベルヌーイ家のダニエルすら、その才能を敬するほどに。


証明の穴を見抜ける。


それでも、彼女の名は表に出ない。


数学は平等でも、人間は公平ではない。


そう言っているように聞こえた。


カタリナも、別の意味で同じだ。


芸術家の娘。


図版を描ける。


筆跡を見抜ける。


だが、彼女の仕事もまた、誰かの論文の影に隠れる。


俺だけが、オイラーの名で残る。


その事実が、少し重かった。


「どうしました?」


カタリナが聞く。


「手が止まっています」


「少し考えていました」


「証明を?」


「それ以外も」


エリザが赤いインクの羽ペンを置く。


「余計なことを考えるのは、草稿が終わってからにして」


「厳しい」


「今日中です」


「はい」


俺は羽ペンを握り直した。


「では、零になる場所です」


「π、2π、3π」


エリザが言う。


「そこを根のように扱う」


「はい」


「危険です」


「承知しています」


「なぜ危険か、草稿に書いておくべきです」


「自分で弱点を書くんですか」


「先に書けば、敵に刺される前に手当てできます」


なるほど。


強い。


俺はそのまま書いた。


この類推は慎重に扱うべきである。


だが、零になる場所が示す秩序は無視できない。


エリザが覗き込む。


「悪くありません」


「初めて褒められた」


「調子に乗らないで」


「はい」


カタリナが小さく笑った。


その笑いで、少し肩の力が抜けた。


夕方。


蝋燭が必要になる頃、ようやく草稿の形が見え始めた。


完璧ではない。


穴はある。


現代数学の厳密さから見れば、まだ危うい。


だが、十八世紀の検討会に出す草稿としては戦える。


少なくとも、朝の俺よりはずっとましだ。


「これで、ダニエル先生に見せられますか」


俺が聞くと、エリザは紙束を整えながら言った。


「見せることはできます」


「評価は?」


「叩かれます」


「ですよね」


「ですが、潰されはしないでしょう」


それは、かなりの前進だった。


カタリナが最後の図を乾かしている。


「図も三枚できました」


「ありがとうございます」


「ただ」


「ただ?」


彼女は一枚の紙を見た。


「オイラー殿の筆跡が、途中から変わっています」


俺の心臓が跳ねた。


「筆跡?」


「はい。朝の書類に残っていた筆跡と、今日の途中までの筆跡。そして今の筆跡が、少し違います」


エリザが顔を上げた。


「違う?」


カタリナは三枚の紙を並べた。


「こちらが朝、机にあったもの。こちらが検討会で書いたもの。こちらが今の草稿です」


俺は紙を見た。


正直、違いはよくわからない。


だがカタリナの目は真剣だった。


「父の工房では、弟子が師の署名を真似てはいけません。だから、線の癖を見るよう教えられました」


「線の癖」


「はい。朝の筆跡は、迷いが少ないです。検討会では震えています。今のものは、線の入り方が別人のようです」


やばい。


この人、鋭すぎる。


俺は笑ってごまかそうとした。


「緊張していたので」


「それだけなら、震え方は変わっても、線の癖は残ります」


エリザの視線が俺に突き刺さる。


「オイラー殿」


「はい」


「筆跡だけではありません」


「え?」


「言葉遣い。ロシア語への反応。答えだけが先にある証明。今朝からあなたは、少しずつずれています」


部屋が静かになる。


「あなた、何者ですか?」


外では風が鳴っていた。


窓の向こうで、雪が斜めに流れている。


俺は何も言えなかった。


言えば、終わる気がした。


だが、何も言わなくても疑われる。


カタリナは慌てたように言った。


「責めているのではありません。ただ、筆跡が」


その瞬間。


机の上に置いた朝の書類が、かすかに音を立てた。


かり。


かり。


紙の上を、見えない刃が削るような音。


俺たちは同時に振り向いた。


朝の筆跡。


つまり、本物のオイラーが書いたはずの文字。


その一部が、白く抜け始めていた。


エリザが息を呑む。


「また……」


カタリナが震える声で言った。


「消えているのは、数式ではありません」


「何が消えているんですか」


俺は紙に顔を近づけた。


そこには、オイラー自身の署名があった。


Leonhard Euler


その名前のうち、Eulerの文字だけが、ゆっくりと薄くなっていた。


俺の背筋が凍った。


数学ではない。


証明でもない。


今度は、名前。


この世界は、オイラーの名を消そうとしている。


第3話は本日5/5 12時過ぎ公開

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― 新着の感想 ―
オイラー(仮)が発言が妙に単語的と言うかカタコトっぽいしゃべり方だななと思ったけど、中の人にとってもオイラー(本物)にとっても外国語だからそりゃカタコトの短い発言になるわなと納得
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