第1話 初手、バーゼル問題
寒い。
最初に思ったのは、それだった。
目が覚めた瞬間、肺の奥まで氷を詰め込まれたような冷気が入ってきた。
「……さむっ」
俺は布団を引き寄せようとして、手を止めた。
布団が違う。
いつもの安物の毛布じゃない。
重い。
分厚い。
獣の毛皮みたいな感触がする。
部屋も違う。
白い壁紙ではない。
木の壁。
黒い鉄の暖炉。
机の上には、羽ペンとインク壺。
本棚には、見たこともない背表紙が並んでいる。ラテン語だ。
窓の外は、白かった。
雪。
見渡す限りの雪。
その向こうに、石造りの建物と、凍りかけた川。
どう考えても、俺の部屋ではない。
俺の街でもない。
少なくとも、修論に追われていた現代日本のワンルームでは絶対にない。
「……どこだよ、ここ」
声がかすれた。
そして、次の瞬間。
扉が叩かれた。
こんこん。
「オイラー殿。起きておられますか」
オイラー。
その名前を聞いた瞬間、俺の脳が一度停止した。
「……は?」
扉の向こうの声が続く。
「ダニエル様がお待ちです。今日の検討会をお忘れではないでしょうな」
ダニエル。
検討会。
オイラー。
嫌な単語が、順番に並んでいく。
俺はゆっくりと起き上がり、部屋の隅にあった鏡を見た。
鏡の中にいたのは、俺ではなかった。
若い。細い顔。
整った額。
どこか神経質そうな目。
見覚えがある。
数学史の本で。
肖像画で。
数式の横に書かれた名前で。
レオンハルト・オイラー。
史上最強クラスの数学者。
解析学、数論、力学、天文学、グラフ理論。
ありとあらゆる分野に名前を残した怪物。
その若い頃の顔が、鏡の中で俺を見返していた。
「いやいやいやいや」
俺は鏡に近づいた。
頬をつねる。
痛い。
もう一度つねる。
痛い。
夢ではない。
「俺が、オイラー?」
数学科の院生が、数学者に転生。
そこだけ聞けば、チートだ。
でも、転生先がオイラーはまずい。
荷が重すぎる。
この人は、人類史に残る天才だ。むしろ怪物だ。
生前だけで発表した研究論文は500本超。加えて、著書が約2ダース。
死後残された未発表原稿も約300本、ペテルブルク・アカデミーが原稿を出版し終えるまで47年かかった。
全集Opera Omnia に至っては2022年にようやく完結したという。
一方、俺はただの院生だ。
修論の締切前に、机で寝落ちした凡人だ。
「無理だろ……」
扉の向こうから、また声。
「オイラー殿?」
「あ、はい!」
思わず日本語で返事をした。
沈黙。
まずい。
まず、ここはどこの国だ?
何語で返せばいい?
ドイツ語か。
ラテン語か。
ロシア語か。
俺は頭の中を必死に探った。
不思議なことに、言葉は出てきた。
口に出せる。
どうやら、この体に染みついた言語は使えるらしい。
ラテン語は自然に読めた。
「すぐに行きます」
今度は、たぶんドイツ語で返した。
扉の向こうの男は満足したように足音を遠ざける。
俺は机に駆け寄った。
何か手がかりがほしい。
今は何年だ。
ここはどこだ。
俺は史実のどの時点にいる。
机の上には書類が積まれていた。
ラテン語。
ドイツ語。
そしてロシア語らしき文字。
読めるものと、読めないものが混ざっている。
一枚の書類に目が止まった。
日付。
一七三三年。
場所。
サンクトペテルブルク科学アカデミー。
「……一七三三年」
声が震えた。
一七三三年。
史実でオイラーがバーゼル問題を解くのは、もう少し先。
つまり俺は、その発見が形になる前のオイラーに放り込まれたらしい。
そして、ここはロシア。
凍える帝都サンクトペテルブルク。
俺は窓の外の雪を見た。
「転生したらオイラーだった。しかもバーゼルじゃなくてロシア」
そのとき、机の上の一枚の紙が目に入った。
式。
数字。
分数。
俺はそれを見た瞬間、全身が固まった。
一分の一の二乗。
二分の一の二乗。
三分の一の二乗。
四分の一の二乗。
それを無限に足す。
俺は紙を持つ手を震わせた。
「初手からバーゼル問題かよ……」
バーゼル問題。
十八世紀の数学者たちを悩ませた有名問題。
俺は答えは知っている。
知っているに決まっている。
数学科でなくても、数学を自分でかじるような人間なら、どこかで一度は見る。
和は、πの二乗を六で割ったもの。
つまり。
π²/6。
だが、問題はそこではない。
これを解いたのは、史実のオイラー。
そして今は、一七三三年の冬。
史実より早い。
早すぎる。
つまりこの世界では、すでに数学史の流れがずれ始めているのかもしれない。
最悪だ。
いや、最高なのか。
わからない。
答えは知っている。
でも、証明を、この時代の言葉で説明しなければならない。
現代記法で殴っても通じない。
フーリエ級数?
まだ無理。
複素解析?
時代が早すぎる。
厳密な無限積?
無理がある。
この先、史実のオイラーがたどるはずの道は知っている。
正弦関数の展開と根を使う。
多項式みたいに扱って、係数比較。
覚えている。
そのやり方は、ぼんやりと。
だが、オイラーをこの地に招いたあの御仁を含め、ここには数学者が山ほどいる。
ぼんやりでは死ぬ。
この身だけでなく、この数式が。
そしたら数学の歴史が変わる。
洒落にならないくらい広大な部分が吹っ飛ぶ。
バーゼル問題は、ただの足し算ではない。
無限級数と円を結び、世界を「波」として読む知を開いた扉だ。
ここが消えれば、未来は音と光と電波を扱う知識と技術を失うだろう。
つまりスマホは電波を掴めず、
ロケットは軌道を読めず、
GPSは自分の場所を見失なう。
「オイラー殿!」
扉の向こうから、さっきとは別の声がした。
「ダニエル様がお呼びです。アカデミーの方々もお揃いです」
終わった。
準備時間ゼロ。
俺は紙を掴み、震える手で服を整えた。
廊下に出る。
寒い。
石の廊下は、足元から冷気が上がってくる。
使用人らしき男が俺を案内した。
彼は早口でロシア語を混ぜてくる。
半分わかる。
半分わからない。
俺は曖昧に頷いた。
「オイラー殿、お顔の色が」
「少し、寝不足で」
「また夜通し計算を?」
「たぶん」
「たぶん?」
まずい。
変な返事をした。
男は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
廊下の先に、大きな部屋があった。
扉が開く。
中には、十人ほどの男たちがいた。
学者。
役人。
書記。
それぞれが紙を持ち、こちらを見ている。
その中心に、一人の男が立っていた。
柔らかい顔立ち。
だが目は鋭い。
ダニエル・ベルヌーイ。
彼は俺を見ると、少しだけ笑った。
「遅かったね、レオンハルト」
親しげだ。
まずい。
ということは、この人は、今の俺の異変に気づく可能性が高い。
オイラーをロシアに呼んだ側の人間。
同じ数学者。
近い距離の先輩。
一番ごまかしづらいタイプだ。
「申し訳ありません。少し、考えがまとまらず」
「それは期待できる返事だ」
ダニエルは机の上の紙を指した。
「例の級数について、何か進展が?」
部屋の空気が変わった。
全員が俺を見る。
どうやら、検討会の議題はやはりこれらしい。
バーゼル問題。
まだ正式な解決には至っていないはずの、故郷バーゼル由来の難問。
だが今、この凍えるロシアの部屋で、俺の目の前に置かれている。
この部屋の誰かが言った。
「ヨハン(・ベルヌーイ)先生も手を焼いた問題です」
「バーゼルの数学者たちが何年も考えた難物だ」
「異国に来た若い数学者に、すぐ解けるとは思えませんが」
含みがある。
俺は理解した。
ここでのオイラーは、まだ絶対的な大数学者ではない。
ベルヌーイの推薦でロシアに来た若造。
しかも外国人。
海軍医学部門に押し込まれた、少し妙な数学者。
周囲は試している。
こいつは本物か、と。
ダニエルが静かに言った。
「レオンハルト。君の考えを聞かせてほしい」
俺は羽ペンを取った。
手が震えている。
落ち着け。
答えだけなら知っている。
ここで何も言えなければ終わる。
まずは殴れ。
答えで殴れ。
後のことは、それからだ。
俺は紙に一行を書いた。
【1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + 1/25 + …… = π²/6】
部屋が静まり返った。
冗談みたいに、音が消えた。
さっきまで俺を値踏みしていた男たちの顔から、表情が抜ける。
ダニエルだけが、笑みを消して紙を見た。
「……πだと?」
誰かが呟いた。
「なぜここに円周率が」
「これは数の問題だぞ」
「二乗の逆数の和に、なぜ円が現れる」
反応は正しい。
俺だって、初めてこの式を見た時はそう思った。
自然数の逆二乗を足していく。
そこに円が出る。
異常だ。
だが美しい。
そして、気持ち悪い。
ダニエルがゆっくりと顔を上げた。
「レオンハルト」
「はい」
「君は今、本気で書いたのか」
「はい」
「この和が、πの二乗を六で割ったものになるだと?」
「そうです」
ざわめきが広がる。
「ありえない」
「偶然の数合わせでは」
「いや、近似計算なら確かめられる」
「しかし、証明は?」
参加者たちがざわつく。
その一言一言に、俺の心臓が跳ねた。
ダニエルが俺を見る。
その目は、先輩の優しさではなかった。
数学者の目だった。
「では、証明してみせてくれ」
俺は一瞬、息を止めた。
答えは知っている。
歴史も知っている。
だが、証明を今ここで、この時代の言葉で、彼らを納得させる形で説明しろ。
それは別問題だ。
「まず」
俺は口を開いた。
「正弦関数を考えます」
数人が眉をひそめた。
しまった。
言い方が現代寄りすぎる。
俺は慌てて言い直した。
「いえ、円から生じる量を考えます。それは、特定の場所で零になりますね」
「特定の場所?」
「π、2π、3π……」
「待て」
ロシア人学者の一人が声を上げた。
「あなたは、その量を多項式のように扱おうとしているのか」
いきなり核心を突かれた。
その通りだ。
正弦関数を、根を持つ多項式のように見る。
現代的には大胆すぎる。
当時の感覚でも、かなり攻めている。
「類推です」
俺は言った。
「円に関わる量の零点を見れば、その形が……」
「類推は証明ではありません」
別の男が遮った。
痛い。
その通り。
俺は汗をかいた。
ダニエルは黙っている。
その沈黙が一番怖い。
部屋の奥で、紙を抱えた若い女性がこちらを見ていた。
淡い金髪。
きつい目。
彼女は書記ではない。
服装は質素だが、立ち方が違う。
こちらを観察している。
何も見逃さない、という目。
誰だ? なぜこの場に参加してる?
ダニエルの親族か。
ベルヌーイ家の関係者か。
彼女の視線に気を取られた瞬間、その女が口を開いた。
「オイラー殿」
「はい」
「あなたは……答えを先に知っていたのではありませんか」
喉が乾いた。
「どういう意味ですか」
「この式は、頂上だけがあまりに鮮明です。だが、道が粗い」
部屋の奥にいた女性が続ける。
声は冷静だった。
「答えを見た者の証明です。道を歩いた者の証明ではありません」
部屋が再び静まる。
俺は彼女を見た。
ダニエルがため息をつく。
「エリザ」
エリザ。
こっちはベルヌーイ家の者か。
「相変わらず、君は鋭すぎる」
「鈍く言えばよろしいですか」
「いや、そのままでいい」
ダニエルは俺に向き直る。
「君は初対面だったね。彼女はエリザ・ベルヌーイ。バーゼルのベルヌーイ家の傍系にあたる娘だ。私の書簡と蔵書の整理を手伝ってもらおうと思って、呼び寄せた」
エリザは軽く礼をした。
だが目はまったく柔らかくない。
「数学の議論に正式な席はないが、私の草稿を最も容赦なく読む者だ」
ダニエルがそう付け加えると、数人の学者が気まずそうに目を逸らした。
どうやら、すでに彼女に赤を入れられたことがあるらしい。
エリザは俺の紙を見た。
「オイラー殿。あなたの答えは美しい。ですが、このままでは潰されます」
「でしょうね」
思わず素で答えた。
エリザが少し眉を上げる。
「自覚はあるのですね」
「あります」
「なら、証明の穴を放置しないことです。数学者ならば」
厳しい。
でも、助かる。
少なくとも、彼女は数式を見ている。俺の立場や評判などではなく。
俺を潰したいのではない。
この数式を守りたい側の目だ。
そのとき、部屋の隅で小さな音がした。
かり、と紙を削るような音。
全員の視線がそちらへ向く。
そこには、黒髪の若い女性がいた。
手には図版用の紙と細い筆。
彼女は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません」
ダニエルが言う。
「カタリナ嬢。どうかしたのかね」
カタリナ。
俺は内心で息を呑んだ。
まさか、カタリナ・グゼルか。
画家ゲオルク・グゼルの娘。
サンクトペテルブルクのアカデミーに縁のある芸術家の娘。
史実では、やがてオイラーの妻となる女性。
ただし今の俺には、この時点で彼女とどれほど親しいのかまではわからない。
彼女は今日の検討会で使う図版の清書係として、壁際に控えていたらしい。
その彼女が、おずおずと俺の描いた円を指した。
「その……円が、円ではありません」
部屋が妙な沈黙に包まれた。
俺は紙を見る。
たしかに、俺が焦って描いた円は、少し潰れていた。
卵みたいだった。
「今そこですか?」
思わず言った。
カタリナは真面目な顔で頷いた。
「はい。円を使う説明なら、円は正しく描いた方がよろしいかと」
何人かが小さく笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
ダニエルも口元を押さえた。
エリザだけは笑わなかった。
彼女はカタリナを見る。
「あなた、図を描けますか」
「はい」
「正確に?」
「父の仕事を手伝っていますので」
「では、オイラー殿の卵を円にしてください」
「承知しました」
「卵って言いました?」
俺が抗議すると、エリザは冷たく言った。
「事実です」
カタリナは俺の紙を受け取り、別の紙に円を描いた。
一筆で。
滑らかに。
美しく。
俺の卵とは違う、本物の円だった。
部屋の学者たちが、わずかに身を乗り出す。
カタリナはさらに、俺が言ったπ、2π、3πの位置を、等間隔に丁寧に書き込んだ。
「このような形でしょうか」
俺は思わず呟いた。
「すごいな」
カタリナが少し驚いたように俺を見る。
「図を写しただけです」
「それができない人間もいるんです」
「ご自身のことですか」
「はい」
部屋の一部でまた笑いが起きた。
だが、笑いながらも、俺の中で何かがつながった。
これだ。
俺に足りないもの。
現代知識を、この時代の紙に落とす手。
カタリナの図。
エリザの赤入れ。
ダニエルの後ろ盾。
一人では無理でも、形にできるかもしれない。
ダニエルが静かに言った。
「続けよう。レオンハルト」
「はい」
「君の答えは、あまりに魅力的だ。だが、魅力的な誤りほど危険なものはない」
「わかっています」
「なら、道を見せてくれ」
俺はカタリナの描いた円を見た。
エリザの鋭い視線を感じた。
そして、もう一度羽ペンを取った。
「まず、有限から始めます」
部屋の空気が変わった。
「一項だけ足す。次に二項。三項。無限をいきなり掴むのではなく、近づいていく」
ダニエルが頷く。
「よい入口だ」
エリザが小さく言う。
「少しはましです」
カタリナは、俺の言葉を紙の端に書き留めていた。
図版師の娘らしい、整った筆跡で。
俺は続けた。
「そのうえで、円から生じる量を見る。零になる場所を見る。積の形を考える。そして、係数を比べる」
言いながら、俺は思い出していた。
史実のオイラーの道筋。
sin x。
根。
無限積。
係数比較。
π²/6。
まだ曖昧だ。
まだ穴はある。
だが、さっきよりは進める。
そう思った瞬間。
机の上の一冊の本が、ひとりでに開いた。
ぱらり。
部屋の中の全員が音に気づいたわけではない。
だが、俺とカタリナとエリザは見た。
開いたページ。
古い数学書。
その一部だけが、不自然に白かった。
インクが薄いのではない。
削られたのでもない。
最初から文字など存在しなかったように、数行だけが抜け落ちている。
俺の背筋が凍った。
そこは、今まさに俺が言おうとしていた箇所だった。
円から生じる量を、積の形で見る。
その手がかりになるはずの記述。
それが、消えている。
カタリナが小さく呟いた。
「おかしいです」
エリザも本を見つめる。
「その本、昨日まではそんな落丁はなかったわ」
俺は息を止めた。
昨日までは。
つまり、俺の記憶違いではない。
この世界で、本当に文字が消えている。
ダニエルがこちらを見る。
「どうした?」
俺は白いページから目を離せなかった。
バーゼル問題。
π²/6。
証明。
そして、消える文字。
この世界は、ただ史実をなぞればいいだけではない。
問題が来る時期も、記録の残り方も、すでにずれている。
何かが、数学の歴史を、その道筋を削っている。
俺は震える声で言った。
「……ダニエル先生」
「何だい、レオンハルト?」
「この問題、解けるかどうかではありません」
ダニエルの目が細くなる。
「では、何だ?」
俺は白いページを見た。
「今ここで残さないと、なかったことにされます」
その瞬間。
白いページの端に、黒い文字が一行だけ浮かび上がった。
誰も書いていない。
誰も触れていない。
けれど、それは確かに現れた。
【Nōlī probāre. (証明するな)】
俺は羽ペンを握りしめた。
凍都サンクトペテルブルクで。
俺の、オイラーとしての初日が、始まった。
第2話は本日5/5 10時過ぎ公開




