第10話 七つの橋
【橋は、帝国を渡す】
封筒の表面に浮かんだその文字を見て、俺は思わず封を押さえた。
だが、押さえたところで意味はない。
文字は紙の表面ではなく、記録そのものから浮かび上がっている。
カタリナの手が震えていた。
エリザは唇を噛んでいる。
ダニエルは目を細め、アンナは静かにその文字を読んだ。
「やはり、これは宮廷で扱うべきものですね」
「違います」
俺は即座に言った。
「これは未検討の図です。解法も意味も、まだ何も確定していません」
「ですが、帝国という言葉が出ました」
アンナは冷静だった。
「宮廷が無視できると思いますか」
「その文字が本当に正しいとは限らない」
「正しくなくても、危険です」
正論だった。
【橋は、帝国を渡す】
直球だ。
その言葉は、宮廷の人間にとって強すぎる餌だ。
橋。
道。
軍。
物流。
都市。
帝国。
全部につながる。
俺は封筒を見た。
ケーニヒスベルクの橋。
本来なら、まだ先の問題。
今、解いてはいけない。
だが、持ち込めと【校閲者】は言う。
持ち込めば、宮廷は食いつく。
解けば歴史がずれる。
解かなければ、何かが消えるかもしれない。
最悪の配置だ。
「オイラー殿」
アンナが言った。
「馬車へ」
拒否はできない。
俺たちは黒塗りの馬車に乗った。
雪が車輪の下で砕ける。
アカデミーの建物が遠ざかる。
窓の外には、凍ったネヴァ川。
白い街。
まだ夜明け前のサンクトペテルブルク。
新しい帝国の都。
その中心へ、俺たちは運ばれていく。
「再確認だ。宮廷では」
ダニエルが低く言った。
「聞かれたことにだけ答えなさい」
「はい」
「橋の問題は、未検討で通す」
「はい」
「バーゼル問題は、草稿段階であると明言する」
「はい」
「未来の話は」
エリザが割り込んだ。
「しない」
「努力します」
「しない」
「はい」
カタリナが封筒を両手で抱えている。
「封筒は私が持ちます」
「危ないですよ」
「オイラー殿が持つ方が危ないです」
「なぜ」
「開けるからです」
反論できなかった。
たぶん開ける。
気になって。
橋の図を見れば、俺の頭は勝手に解き始める。
点。
線。
奇数次数。
一筆書き。
やめろ。
今は考えるな。
考えたら負けだ。
「オイラー殿」
アンナが向かいの席から言った。
「橋の図を見てから、あなたはずっと何かを考えています」
「考えない努力をしています」
「考えない努力?」
「はい」
「数学者に、それは可能ですか」
「無理に近いです」
「では、もう考えているのですね」
この人も嫌なところを突く。
俺は視線を外した。
「考えていません」
「嘘が下手です」
「最近そればかり言われます」
「でしょうね」
馬車の中は静かになった。
雪の音だけが聞こえる。
しばらくして、宮殿の明かりが見えた。
大きい。
明るい。
アカデミーの冷たい部屋とは違う。
ここには熱がある。
金と権力の熱。
「着きました」
アンナが言った。
扉が開く。
冷気が流れ込む。
俺たちは馬車を降りた。
宮殿の入口には衛兵が立っていた。
毛皮の帽子。
槍。
燭台の光。
俺は思わず身を縮めた。
数学の検討会とは違う。
ここで失言すれば、赤ペンでは済まない。
物理的に首が飛びそうだ。
「顔が悪いです」
エリザが小声で言った。
「緊張しています」
「当然です」
「励ましてください」
「余計なことを言わなければ生き残れます」
「それ励ましですか」
「最大限です」
カタリナが言った。
「大丈夫です。余計なことを言いそうになったら、私が紙を落とします」
「合図?」
「はい」
「なるほど。お願いします」
「足を踏む役は私です」
エリザが言った。
「物理合図が多い」
ダニエルが小さく笑う。
「いい布陣だ」
そうか?
俺は不安しかない。
案内された部屋は、想像より小さかった。
当然、玉座の間ではない。
会議室に近い。
だが、壁の装飾は豪華で、窓には重い布。
机の向こうに、数人の役人がいた。
あのイワンもいる。
やはり。
そして中央には、年配の貴族らしき男。
アンナがその横に立つ。
「レオンハルト・オイラー殿をお連れしました」
貴族の男が俺を見る。
「君が、無限級数に円を呼び込んだ若者か」
言い方。
俺は頭を下げた。
「レオンハルト・オイラーです」
「昨日から、アカデミーが騒がしい」
「申し訳ありません」
「謝る必要はない。騒がしい学問には価値がある」
イワンが微笑む。
嫌な予感がする。
貴族の男は続けた。
「まず聞こう。その式は本物か」
「草稿段階です」
エリザがわずかに頷いた。
よし。
「完全な証明ではありません。ですが、重大な道筋を含みます」
「役に立つか」
来た。
「今すぐ砲の角度を出すものではありません」
役人の一人が眉をひそめる。
「だが、将来は?」
「解析学の発展に関わります。波、熱、天体の計算に関わる可能性があります」
「可能性」
貴族は繰り返した。
「帝国は、可能性にも金を払う」
重い言葉だ。
俺は慎重に答える。
「ただし、急げば壊れます」
「何が」
「証明も、記録も、学問そのものも」
貴族の目が細くなる。
「宮廷が急かすと?」
「宮廷に限りません。発見は、名前と日付と道筋が正しく残らなければ、後の者が使えません」
アンナが少しだけ目を細めた。
イワンが記録している。
「つまり、君は保護を求めるのか」
「保護ではなく、干渉しすぎないことを承認してください」
部屋がざわついた。
ダニエルが目だけで、少し危険だ、と言っている。
だが、ここは言うべきだ。
「この草稿は、宮廷が価値を判断する前に、数学として耐えるものでなければなりません。つまりまずアカデミーで検討されるべきものです。」
貴族はしばらく黙った。
そして笑った。
「面白い。宮廷において、『宮廷は待て』と言うか」
「少なくとも、本来の年まで待つべきです」
言った瞬間、エリザの靴が俺の足を踏んだ。
痛い。
「失礼。言い方を誤りました」
俺は慌てて続けた。
「熟すまで待つべき問いがあります」
貴族は俺を見る。
「橋のことか」
やはり来た。
カタリナが封筒を抱える手に力を入れる。
アンナが静かに言った。
「封筒を」
カタリナは一瞬だけ俺を見た。
俺は小さく頷く。
逃げられない。
彼女は封筒を机に置いた。
ただし、表には大きく書いてある。
未検討。
解法なし。
出現記録のみ。
エリザの字だ。
力強い。
アンナが封を開けようとする。
カタリナがすぐに言った。
「中の紙は、縁を持ってください。中央に触れると、文字が変化する可能性があります」
アンナは手を止めた。
「助言に感謝します」
丁寧に縁を持ち、地図を開く。
四つの点。
七本の線。
そして文字。
橋は、帝国を渡す。
役人たちが身を乗り出した。
「これは何だ」
「都市図か?」
「橋の配置?」
俺は答えない。
答えれば、思考が進む。
ダニエルが代わりに言った。
「未検討です。現時点では、出現した図を記録したにすぎません」
貴族が俺を見る。
「君は意味を知らないのか」
「知っている可能性があります」
エリザがまた足を踏んだ。
痛い。
「ですが、今語るべきではありません」
「なぜ」
「時期が違います」
部屋が静まる。
貴族が眉を上げた。
「時期?」
まずい。
だが、もう踏み込んだ。
「数学には、必要な順番があります」
俺は言った。
「無限級数の草稿すらまだ守り切れていない今、別の問題を解けば、記録は混乱します。どちらも壊れる」
これは本音だ。
未来の年を知っていることは隠した。
だが、順番の危険は説明できる。
アンナが問いかける。
「では、この橋の図は封印すべきだと?」
「存在だけを記録し、今は解法を書かない」
ダニエルが補足した。
「それが最も安全です」
イワンが口を開く。
「しかし、帝国に関わると書かれています」
「その文字が正しい保証はありません」
エリザが言う。
「校閲者は、私たちの行動を誘導しています」
「校閲者」
貴族が繰り返した。
「数学史を編集するもの、だったな」
情報が早い。
イワンが報告したのだろう。
俺は頷いた。
「仮称です」
「それは敵か」
「わかりません」
「敵でないかもしれないと?」
「少なくとも、単純に壊しているだけではありません。ですが名前、日付、順番を変えようとしている」
貴族は指で机を叩いた。
「つまり、歴史を管理している」
「そのように見えます」
「なら、帝国が関心を持つのは当然だ」
やっぱりそうなる。
歴史を編集する力。
宮廷がそれを欲しがらないはずがない。
俺は言った。
「扱えません」
「なぜ」
「理屈がわからないからです」
「わからないものも使える」
イワンが言う。
俺は彼を見た。
「何が消されるか分からないのに?」
イワンは黙った。
「今、橋の図に手を出せば、都市が消えるかもしれない。日付がずれるかもしれない。別の発見が潰れるかもしれない」
貴族が問う。
「では、何を差し出す」
「差し出す?」
「宮廷に、待てと言うなら、待つ価値を示せ」
部屋の空気が重くなる。
そうだ。
ただ拒否するだけでは通らない。
宮廷は価値を求める。
なら、橋ではなく、今渡せる価値を示す。
俺はバーゼル問題の草稿を手に取った。
「これを」
「無限級数か」
「はい。ただし、軍事利用のためではありません」
役人が鼻で笑う。
「では、何に使う」
「帝国の学問の威信に」
部屋が静まる。
「この草稿を、アカデミーで守り、検討し、正しい形へ育てる。その記録を帝国が保護したとすれば、サンクトペテルブルク科学アカデミーの名は欧州に響きます。ここに書かれた数式は、今後300年の間、数学を変える。その礎となる。」
ダニエルがわずかに目を見開いた。
エリザも。
アンナが俺を見る。
「宮廷の欲を、名誉へ向けるつもりですか」
「橋や砲より安全です」
「安全な欲、ですか」
「比較的」
貴族は笑った。
「面白い」
またそれか。
この時代の権力者に面白がられるのは、良いことなのか悪いことなのかわからない。
「よかろう」
貴族は言った。
「橋の図は、封印する。解法は求めない」
俺は息を吐きかけた。
「ただし」
ですよね。
「写しは宮廷にも置く」
「未検討と明記してください」
「よい」
「解法なしとも」
「よい」
「出現記録のみとも」
貴族は笑った。
「慎重だな」
「怖いので」
「正直だ」
イワンが記録する。
アンナが橋の図を封筒に戻す。
カタリナが、その封の仕方を確認する。
「封蝋に触れる前に、紙の端を見せてください」
「なぜ」
「文字が増えていないか確認します」
アンナは従った。
不思議な光景だった。
宮廷の女が、図版師の娘に紙の扱いを教わっている。
カタリナは慎重に確認した。
「変化なし」
「では封印を」
封蝋が落とされる。
宮廷の印。
その横に、アカデミーの印。
さらに、ダニエルの署名。
俺の署名。
エリザの小さな記録印。
カタリナの紙質確認印。
一枚の封筒に、いくつもの証拠が重なる。
これが今できる最善だ。
橋は解かない。
だが、存在は消させない。
貴族が立ち上がった。
「オイラー殿」
「はい」
「君の草稿は、アカデミーで検討を続けよ。宮廷は、それを保護する」
「干渉は」
「する」
正直すぎる。
「ただし、ダニエル・ベルヌーイを通す」
ダニエルが眉を上げた。
「私を窓口に?」
「不服か」
「面倒ですが、オイラーを直接取り込まれるよりはましです」
「では決まりだ」
俺は胸を撫で下ろした。
完全勝利ではない。
宮廷の目はついた。
橋の図も持たれた。
だが、バーゼル問題の草稿は守られた。
橋の解法も、今は封印できた。
これで第一部の戦いは、一つ区切れた。
そう思った瞬間だった。
封印された橋の封筒が、かすかに震えた。
全員が見る。
封蝋は割れていない。
紙も開いていない。
だが、封筒の表面に、白い文字が浮かび上がる。
【解かぬなら、橋ではなく名を渡せ】
俺の背筋が凍る。
「名?」
エリザが呟く。
次の瞬間、封筒の横に置かれたバーゼル問題の草稿が、ぱらりと開いた。
表紙。
Leonhard Euler。
その下に、新しい黒い文字が、ゆっくりと浮かんだ。
【公式発表年、一七三五年】
史実では。
その年、バーゼル問題は解かれ、ケーニヒスベルクの橋の問題もまた、解法がアカデミーに提出される。
そして、さらに一行。黒い文字。
【それまで、この名を守り続けよ】
俺は、その文字を見つめた。
バーゼル問題は、まだ解き終わっていない。
だが、消される前に、最初の楔は打ち込めた。
一七三三年冬。
凍てつくサンクトペテルブルクで、俺たちは一行の数式と一つの名前を守った。
1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + …… = π²/6
この式が、二年後に歴史へ刻まれるまで。
俺は、オイラーであり続けなければならない。
第一部「凍都のバーゼル問題」、完結です。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
バーゼル問題はまだ「正式発表」には至っていません。
次の第二部では、1735年までオイラーの名と草稿を守る二年間を描きます。
1735年はオイラーにとって【代償の年】、すなわち名声を得て、光(視力)を失い始める年にあたります。
第二部タイトルは「名を守る二年間」。
宮廷、偽文書、消える日付、そして封印された七つの橋が動き出します。
第二部は明日から開始予定です。
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