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第11話 後ろ盾の船出


【公式発表年、一七三五年】


【それまで、この名を守り続けよ】


草稿の表紙に浮かんだその文字は、しばらく消えなかった。


Leonhard Euler。


その名の下に、冷たい黒字が沈むように残っている。


俺は、乾いた喉で息をした。


「……二年」


思わず呟いた。


一七三三年冬。


今から一七三五年まで。


たった二年。


されど二年。


スマホもない。


パソコンもない。


バックアップもクラウドもない。


紙は消える。


署名は薄れる。


日付は白くなる。


宮廷は勝手に記録する。


そして、校閲者は歴史の順番を書き換えようとしてくる。


この世界で、二年間、ひとつの名前を守り続ける。


それは、思ったよりずっと重い任務だった。


「オイラー様」


カタリナが、表紙を覗き込みながら言った。


「文字の沈み方が、先ほどまでと違います」


「沈み方?」


「はい。脅しというより、条件のようです」


「条件……」


それまで、この名を守り続けよ。


確かに、命令というより契約に近い。


校閲者は、バーゼル問題の解法草稿を完全には消さなかった。


その代わり、猶予を与えた。


一七三五年まで守れ、と。


エリザが腕を組んだ。


「腹が立ちますね」


「何がですか」


「こちらが勝ったように見せて、次の試験を出してくるところです」


「わかります」


「それに」


彼女は草稿の表紙を指した。


「この書き方だと、まるで校閲者の方が正しい歴史を知っていて、私たちに従わせようとしているようです」


その言葉で、俺の胸が少し冷えた。


正しい歴史。


俺は未来から来た。


俺は、史実を知っている。


だが、校閲者もまた、何かを知っている。


しかも、俺と違って、記録そのものへ手を伸ばせる。


「レオンハルト」


ダニエルが静かに言った。


「考えすぎるな」


俺は顔を上げた。


「……はい」


「今は、目の前の紙を守ることだ」


ダニエルは草稿を丁寧に閉じた。


「橋の図は封じた。バーゼル問題の草稿も残った。宮廷も、ひとまず解法を奪うことはしない」


「ひとまず、ですけどね」


「ひとまずでも、勝利は勝利だ」


ダニエルの声は落ち着いていた。


だが、その目には疲れがあった。


宮廷召喚。


検討会。


橋の封印。


校閲者の干渉。


俺たち以上に、ダニエルも消耗している。


「先生」


「何だい」


「少し休んだ方が」


「それは君もだ」


「いや、私は」


エリザは即座に俺の言葉を切った。


「貴方、昨日から余計なことを言い、余計なことを考え、余計な記号を書き続けています」


「余計な記号?」


「πです」


ぎくりとした。


エリザは俺の草稿の端を指で叩く。


そこには、俺がいつもの癖で書いた小さなπがある。


「この記号。便利ですが、妙に浮いています」


「浮いていますか」


「ええ。あなたの筆跡が、というよりも、時代から浮いている」


カタリナも頷いた。


「私も、そう思います」


「カタリナまで」


「父の工房では、時代の違う修復跡は目立ちます。この印も、それに似ています」


俺は言葉に詰まった。


π。


未来では当たり前の記号。


数学を知る人間なら、誰でも知っている。


俺はあまりにも自然に使っていた。


転生してから、これまで何度も書いた。


周囲も、それが円周率を表す印だと理解していた。


だからうっかりしていた。


理解していることと、時代に根づいていることは違う。


この記号は、まだこの世界に深く根を下ろしていない。


そして史実では、 πで円周率を現すことを広く普及させたのは、他ならぬレオンハルト・オイラーだ。


「……気をつけます」


俺が言うと、エリザは目を細めた。


「気をつけるだけでは足りません。正式な記録に載せるなら、印ではなく言葉も添えるべきです」


「円周と直径の比、と?」


「はい。記号を失っても意味が残るように。……そして、この記号を守るためにも」


カタリナがすぐに書き留める。


円周と直径の比。


小さなπの横に、彼女の整った文字が並んだ。


それだけで、少し安心した。


印だけでは危うい。


言葉を添える。


図を添える。


数表を添える。


人の記憶を添える。


この世界では、意味を一箇所に置いてはいけない。


「レオンハルト」


ダニエルが、ふいに俺の名を呼んだ。


いつもより、声が少し低かった。


「大事な話がある」


部屋の空気が変わる。


エリザが口を閉じた。


カタリナも羽ペンを置いた。


「前にも言ったが、私はそう長くサンクトペテルブルクにはいない」


来た。


わかっていた。


史実では、1733年、ダニエル・ベルヌーイはロシアを離れる。


だが、わかっていたことと、本人の口から聞くことは違った。


「……いつですか」


「まだ確定ではない。だが、準備は始めている」


「バーゼルへ?」


ダニエルは少しだけ俺を見た。


「君の夢は、相変わらずよく当たるね」


しまった。


でも、もう完全には隠せない。


俺は黙った。


ダニエルは責めなかった。


彼は窓の外を見た。


外はまだ白い。


凍った川。


雪に沈む街。


新しい帝国の首都。


「ここは悪い街ではない。しかし長くいるほど、数学以外のものに削られる」


「でも、先生がいなくなったら」


思わず言っていた。


「この草稿は、誰が守るんですか」


ダニエルは俺を見た。


「君だよ」


短い答えだった。


「私が?」


「そうだ」


「でも、私は……」


本物ではない。本当の、あの天才の、レオンハルト・オイラーでは。


その言葉を、飲み込んだ。


カタリナがこちらを見る。


エリザも。


ダニエルも、たぶん気づいている。


俺がいつも、その言葉の前で止まることに。


「君が何者であれ」


ダニエルは言った。


「この草稿を最初に、この形まで連れてきたのは君だ」


「エリザやカタリナもいます」


「もちろん」


「先生も」


「私は支えただけだ」


「それが大きいんです」


「だからこそ、いつまでも私の名に支えられてはいけない」


ダニエルは机の上の写しを一枚取った。


そこには、彼の署名がある。


Daniel Bernoulli。


第一部で、俺の名前を守るために何度も書いてもらった署名。


後ろ盾。


証人。


盾。


その文字の端が、かすかに白くなっていた。


「……また」


カタリナが顔を近づける。


「ダニエル様の署名だけです」


エリザも見る。


「他は?」


「オイラー殿の名は残っています。私の赤線も、カタリナ様の図も」


つまり、今狙われているのは、ダニエルの署名。


後ろ盾の名。


校閲者はわかっている。


ダニエルがいなくなる。


その前に、彼の保証を薄めようとしている。


「やはりね」


ダニエルは静かに言った。


「校閲者も、私がこの都を離れることを知っているらしい」


「そんな」


「なら、急がなければならない」


ダニエルは薄くなりかけた署名の下に、もう一度自分の名を書いた。


Daniel Bernoulli。


今度は強く。


深く。


「レオンハルト」


「はい」


「私の名は、君をここへ連れてきた」


羽ペンの音が、部屋に響く。


「だが私は、君の名前を歴史に残すことはできない」


俺は喉を鳴らした。


「君自身の名で立ちなさい」


「……オイラーの名で」


「そうだ」


それが一番怖い。


俺は転生者だ。佐伯悠真だ。


この世界の人間ではない。


本物のオイラーではない。


それなのに、Leonhard Eulerの名で立つ。


歴史のため。


未来のため。


スマホやロケットやGPSのため。


そう言えば聞こえはいい。


でも、目の前には紙がある。


署名がある。


人がいる。


ダニエル。


エリザ。


カタリナ。


彼らは、俺を見ている。


本物か偽物かではなく、今ここで何を残すかを。


「先生」


俺は言った。


「私は、オイラーでいられるでしょうか」


ダニエルは少し笑った。


「それは、私が決めることではない」


「では、誰が」


「君の書いたもの、残したものが決める」


重い。


だが、逃げられない答えだった。


エリザが横から言った。


「穴だらけなら私が直します」


「今いい場面でしたよね」


「いい場面でも、証明の穴は埋まりません」


カタリナも小さく頷いた。


「名前が消えそうになったら、私が写します」


「二人とも……」


救われるような、追い詰められるような。


でも、ありがたかった。


ダニエルは署名入りの写しを三枚に分けた。


「これは私が持つ」


一枚。


「これはエリザ」


二枚。


「これはカタリナ嬢」


三枚。


カタリナは受け取る時、両手で丁寧に持った。


「私でよろしいのですか」


「貴女は紙の変化を見てくれる。なら、私の名が消えかけた時、最初に気づく可能性が高いから」


「承りました」


エリザは自分の写しを見て、少しだけ唇を引き結んだ。


「私のところに置くと、ベルヌーイ家の名と混ざります」


「だからいい」


ダニエルは言った。


「校閲者が名を接続しようとするなら、こちらも接続を複雑にする」


「記録の網ですね」


カタリナが言う。


「そうだ」


ダニエルは頷いた。


「紙一枚ではなく、網で守る」


その瞬間、薄くなっていたダニエルの署名が、かすかに濃さを取り戻した。


完全ではない。


だが、消えない。


俺は息を吐いた。


「……消さない」


エリザが冷静に言う。


「次も来ます」


「わかってます」


「本当に?」


「かなり」


「なら、次の話です」


「まだありますか?」


「当然です」


エリザは草稿を広げた。


「ダニエルが離れるなら、数学的な穴の確認は私の比重が増えます」


「お願いします」


「ただし、私の赤線も狙われます」


「はい」


「なので、赤線を記録する仕組みを作ります」


カタリナが即座に言った。


「赤線用の写しを、工房にも置きます」


「工房?」


俺が聞くと、カタリナは頷いた。


「父の工房です。紙、顔料、封蝋、筆跡の記録があります。アカデミーとは別の保管場所になります」


ダニエルが目を細めた。


「よい考えだ」


「でも、危険では?」


俺が言うと、カタリナは静かに言った。


「危険でない場所は、もうありません」


その通りだった。


アカデミーも危険。


宮廷も危険。


俺の部屋も危険。


なら、分けるしかない。


「父に相談します」


カタリナは言った。


「草稿の一部を、グゼル家の工房へ移せないか」


「お父上は、許しますか」


「わかりません」


「ですよね」


「ですが、説得します」


彼女の顔は真剣だった。


「父は絵の人間です。ですが、絵も記録です。何を誰が描いたか、誰の手が入ったか、どの顔料を使ったか。そういうことを、とても大切にします」


「数学と似ていますね」


「はい」


カタリナは草稿を見た。


「だから、わかってくれると思います」


その言葉で、次の行き先が決まった。


アカデミーではなく、工房。


数式の戦いが、画家の家へ移る。いや、画家の家が加わるのだ。


俺は少しだけ不思議な気分になった。


数学史を守るために、絵筆と顔料の力を借りる。


数式は、紙に残る。


紙は、人の手が守る。


その手が羽ペンでも、絵筆でも。


「では、明日」


ダニエルが言った。


「グゼル家へ行こう」


「先生も?」


「最初の説明には、私もいた方がいい」


「助かります」


「ただし」


彼は俺を見た。


「頼りすぎるな」


「はい」


「交渉するのは君だ」


「……はい」


また宿題が増えた。


ゲオルク・グゼル。


カタリナの父。


史実では、未来の義父になる人物。


そこへ、危険な草稿を預けたいと頼みに行く。


難易度が高すぎる。


エリザが俺を見た。


「顔色が悪いです」


「未来の義父に会うかもしれないので」


言ってから、しまったと思った。


部屋の空気が止まった。


カタリナが目を瞬く。


エリザの目が細くなる。


ダニエル先生が、咳払いをした。


「レオンハルト」


「はい」


「疲れているようだね」


「かなり」


「今日はもう休みなさい」


助かった。


いや助かってはいない。


カタリナがこちらを見ている。


頬が少し赤い。


寒さのせいだ。


きっと。


「今のは」


俺は言った。


「言葉の綾です」


エリザが冷たく返す。


「あなたの言葉の綾は、だいたい未来から来ます」


「やめてください」


ダニエル先生は楽しそうに笑った。


「明日が楽しみだ」


やめてほしい。


本当にやめてほしい。


  ◇  ◇  ◇


その夜。


俺は自分の部屋へ戻った。


机の上に、草稿の不完全な写しを置く。


完全なものは別の場所へ分けた。


ここにあるのは、あえて欠けた写し。


狙われても全体は失われないように。


俺はその表紙を見た。


Leonhard Euler。


まだ残っている。


隣には、カタリナが書き添えた文字。


円周と直径の比。


そして、エリザの赤字。


記号だけに頼るな。


俺は小さく笑った。


本当に、容赦がない。


だが、正しい。


未来の便利な記号。


この時代の紙。


仲間たちの筆跡。


全部が混ざって、少しずつこの世界の数学になっていく。


俺は羽ペンを取った。


日記を書くつもりはなかった。


だが、書かずにはいられなかった。


一七三三年冬。


ダニエル・ベルヌーイの署名、白化。


複数筆跡による再記録で停止。


明日、グゼル家工房へ草稿移送を相談。


そこまで書いた時。


紙の端が、かすかに白く光った。


またか。


俺は身構えた。


だが、消えたのは数式ではなかった。


ダニエルの名前でもない。


明日の予定として書いた、最後の一行。


グゼル家工房へ草稿移送を相談。


その行だけが、白く抜け落ちていた。


そして、空いた場所に、新しい文字が浮かび上がる。


【グゼル家に持ち込めば、絵が消える】


俺は息を止めた。


その下に、さらに一行。


敵、校閲者からの警告。


【記録を増やすほど、失うものも増える】


次回 第12話は、本日5/7 12時過ぎ公開。

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