第12話 グゼル家の工房
【グゼル家に持ち込めば、絵が消える】
【記録を増やすほど、失うものも増える】
その二行が紙に浮かんだのは、昨夜のことだった。
ダニエル先生も、エリザも、カタリナも去った後。
一人になった部屋で、明日の予定を書き留めた直後。
【グゼル家工房へ草稿移送を相談】
その一行だけが白く抜け落ち、代わりにこの脅しが現れた。
俺は結局、朝までほとんど眠れなかった。
窓の外が白み始めても、文字は消えなかった。
机の上の紙は、まるでこちらの決断を待つように、冷たく沈黙していた。
校閲者は見ている。
俺たちが草稿をどこへ動かそうとしているのか。
誰を巻き込もうとしているのか。
そして、何を失えば俺たちが足を止めるのか。
「……卑怯だろ」
俺は紙を握りかけて、やめた。
触れば、余計に変化するかもしれない。
紙を見つめたまま、息を整える。
絵が消える。
それは、グゼル家にとって致命的だ。
ゲオルク・グゼルは画家だ。
カタリナの父だ。
その工房の絵や図版や注文記録が消えれば、彼らの仕事そのものが壊れる。
俺の草稿を守るために、彼らの人生を巻き込むのか。
「……無理だ」
そう呟いた瞬間、扉が叩かれた。
こんこん。
「オイラー様」
カタリナの声だった。
俺は慌てて紙を伏せた。
「はい」
「起きておられますか」
「今、起きました」
嘘だ。
ほとんど寝ていない。
扉が少し開き、カタリナが顔を出した。
厚手の外套を着ている。
手には図版用の筒。
朝の光が、彼女の髪に淡く触れていた。
「お顔が悪いです」
「最近、そればかり言われます」
「事実ですので」
エリザのような言い方になってきた。
よくない影響だ。
カタリナは机の上を見た。
「何かありましたか」
俺は黙った。
黙った時点で、ほとんど答えだった。
カタリナが部屋に入り、伏せた紙へ視線を落とす。
「見せてください」
「見ない方がいいかもしれません」
「それは、私が決めます」
強い。
俺は観念して紙を返した。
カタリナは文字を読んだ。
顔色が少し白くなる。
だが、手は震えなかった。
「父の工房を質にとって、脅していますね」
「はい」
「絵が消える、と」
「今日は行くのをやめませんか?」
俺は言った。
「草稿は、改めて別の場所に」
「行きます」
カタリナは即答した。
「いや、でも」
「行きます」
「カタリナ」
「オイラー様」
彼女は俺を見る。
「絵が消えると言われたから、絵の家へ行かない。それは、校閲者の望み通りではありませんか」
言葉に詰まった。
その通りだ。
でも。
「あなたの家族を危険に晒す」
「もう晒されています」
「私のせいで」
「いいえ」
カタリナは首を振った。
「校閲者のせいです」
短い言葉だった。
けれど、その一言に救われた気がした。
カタリナは紙をそっと机に置く。
「それに、父は怒ります」
「え?」
「私たちが黙って別の場所へ行ったら、もっと怒ります」
「そこですか」
「はい。父は自分の工房を、守られるだけの場所だとは思っていません」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「たぶん、怒鳴ります」
「会うのが怖くなってきました」
「大丈夫です。父は声が大きいだけです」
「それは大丈夫の範囲ですか」
答えはなかった。
しばらくして、エリザとダニエルも合流した。
紙の脅しを見せると、エリザは目を細めた。
「予想通りです」
「予想してたんですか」
「校閲者が脅すなら、あなた本人より周囲を狙うでしょう」
「嫌な予想ですね」
「当たってほしくはありませんでしたが」
ダニエルは静かに紙を見た。
「行こう」
「先生まで即答ですか」
「ここで退けば、保管場所はすべて校閲者の思うままになる」
彼は俺を見る。
「ただし、無理に預けるな。ゲオルク殿が断るなら引く」
「わかりました」
「交渉するのは君だ」
「それ、昨日も聞きました」
「大事なことは何度でも言うよ」
逃げ道はないらしい。
俺たちは雪の中を、グゼル家の工房へ向かった。
サンクトペテルブルクの朝は白い。
建物の輪郭が雪にぼやけ、馬車の車輪が凍った道を軋ませる。
アカデミーとは違う地区に入ると、空気が少し変わった。
宮廷の冷たい整然さではない。
職人の匂い。
木材。
油。
獣脂。
乾いた顔料。
工房に近づくほど、色の匂いが濃くなった。
「ここです」
カタリナが一軒の建物の前で止まる。
大きすぎず、小さすぎない。
窓は広く、北の光を取り込む作りになっている。
扉の横には、絵筆と鳥の羽を組み合わせた小さな印があった。
グゼル家の工房。
俺は息を呑んだ。
「緊張していますか」
カタリナが聞く。
「はい」
「父は噛みません」
「怒鳴るんですよね」
「はい」
「それは噛むのと近いです」
カタリナは少し笑った。
扉が開いた。
中から、がっしりした男が出てきた。
鋭い目。
豊かな髭。
手には絵筆ではなく、木枠を持っている。
ゲオルク・グゼル。
画家。
カタリナの父。
将来の義父候補。
いや、今考えるな。
「カタリナ」
ゲオルクは娘を見て、それから俺たちを見た。
「アカデミーの方々を連れてくるとは聞いていたが」
声が大きい。
本当に大きい。
「その顔は、ただの図版依頼ではないな」
カタリナが頭を下げる。
「父上。お願いがあります」
「まず中へ入れ。寒い」
怒鳴る前に入れてくれた。
少し安心した。
工房の中は暖かかった。
壁には絵。
乾きかけの図版。
天文図。
植物図。
人物画。
色見本。
棚には顔料壺が並んでいる。
紙束と木箱。
封蝋。
注文帳。
絵と記録の世界だった。
俺は思わず見回した。
「すごい」
ゲオルクが俺を見る。
「数学者にも絵がわかるのか」
「わかりません。でも、残す力はわかります」
ゲオルクの眉が少し動いた。
「残す力か」
カタリナが草稿を差し出す。
「父上。これを、一部だけ工房に保管したいのです」
「数学の紙を?」
「はい」
ゲオルクは草稿を見た。
表紙。
Leonhard Euler。
円周と直径の比。
赤線。
図版。
署名。
彼は黙って数枚めくった。
「これは、カタリナの線だな」
「はい」
「こちらは?」
「エリザ様の赤字です」
エリザが軽く礼をする。
ゲオルクは彼女を一瞥し、また紙へ戻る。
「こちらは、オイラー殿の字か」
「はい」
「下手だな」
即死した。
「父上」
カタリナが小さく咎める。
ゲオルクは悪びれない。
「文字の線が焦っている。円も下手だっただろう」
「なぜそれを?」
「カタリナの図は、元の下手な図を直すと整いすぎる」
見抜かれている。
この親子、怖い。
ダニエルが微笑む。
「その観察眼をお借りしたいのです」
ゲオルクは彼を見る。
「ベルヌーイ殿まで来ている。話が大きいな」
「大きいです」
俺は言った。
「そして、危険です」
カタリナが、昨夜の脅しの紙を差し出した。
ゲオルクは読んだ。
【グゼル家に持ち込めば、絵が消える】
【記録を増やすほど、失うものも増える】
工房の空気が、静かになった。
ゲオルクの顔から表情が消える。
「カタリナ」
「はい」
「これは、いつからだ?」
「数日前からです。数学書の文字が消え、署名が消え、日付が消えました」
「そして、今度はうちの絵を脅している」
「はい」
ゲオルクは紙を机に置いた。
そして、俺を見た。
「オイラー殿」
「はい」
「あなたは、うちの娘を何に巻き込んでいる?」
重い。
しかし当然の問いだった。
俺は頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝罪を聞きたいのではない」
「はい」
「何に巻き込んでいるかを聞いている」
俺は息を吸った。
「数学の歴史を守る戦いです」
ゲオルクの目が鋭くなる。
「数学の歴史」
「はい。この草稿は、ただの計算ではありません。無限と円がつながることを示す、一つの道筋です。これが正しく残らなければ、後の数学が遅れます」
「後の?」
「いつかの時代の、波、熱、星、航海、通信。そういうものへつながります」
エリザが俺を見る。
言いすぎるな、という目。
だが、ここでは誤魔化したくなかった。
「でも、それ以上に」
俺は続けた。
「この紙には、誰が何をしたかが残っています。エリザの赤線。カタリナの図。ダニエル先生の署名。私の名。それを、何かが消そうとしている」
ゲオルクは黙って聞いていた。
「だから、記録を分けたい。アカデミーだけではなく、宮廷だけでもなく、工房にも」
「うちを盾にするのか」
「はい」
俺は答えた。
「ただし、断られて当然だと思っています」
カタリナがこちらを見た。
俺は彼女を見ずに続ける。
「グゼル家の絵が消えると言われました。あなたの仕事を危険に晒す。だから、無理を通してお願いする資格は私にはありません」
ゲオルクはしばらく俺を見ていた。
やがて、低く言った。
「資格がないことはわかっているのか」
「はい」
「それでも来た」
「来ました」
「娘が言ったからか?」
「それもあります。でも、それだけではありません」
俺は工房を見回した。
絵。
図。
色見本。
注文帳。
「ここには、残す技術があります。数学者だけでは守れないものを、守る手と知恵があります」
ゲオルクの表情が少し変わった。
怒りだけではない。
何かが届いたような顔だった。
「カタリナ」
彼は娘を見た。
「お前はどうしたいんだ?」
カタリナは背筋を伸ばした。
「預かりたいです」
「絵が消えるかもしれん」
「はい」
「工房の記録も危ない」
「はい」
「それでもか」
「はい」
「なぜ?」
カタリナは草稿の図を見た。
自分が描いた円。
その横に、俺の式。
エリザの赤線。
「この紙は、オイラー殿だけのものではありません」
彼女は言った。
「たくさんの手が入っています。けれど、何もしなければ、たぶん一つずつ消えます」
「お前の手もか」
「はい」
「それが嫌か」
カタリナは少しだけ黙った。
「嫌です」
その声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「私は、絵師ではありません。数学者でもありません。でも、描いた線が消えるのは嫌です」
ゲオルクは深く息を吐いた。
そして、大きな声で言った。
「よし」
俺は肩を跳ねさせた。
「え?」
「預かる」
「いいんですか」
「脅されたから引く職人がいるか」
ゲオルクは鼻を鳴らした。
「絵を消すだと? やれるものならやってみろ。こっちは消えかけた絵を何枚も直してきた」
強い。
親子だ。
確実に親子だ。
「ただし」
ゲオルクは指を立てた。
「こちらのやり方で守る」
「やり方?」
「数学者のように紙束を積むだけでは駄目だ」
彼は棚から数冊の帳面を取り出した。
「注文帳。顔料帳。下絵帳。封蝋記録。弟子の作業台帳。全部に分けて記す」
エリザの目が輝いた。
「記録の分散」
「そうだ」
ゲオルクは草稿を叩く。
「この紙をそのまま隠すだけでは駄目だ。絵の注文記録の中に、図版の依頼として混ぜる。顔料帳には、円の図に使った線の種類を書く。封蝋記録には、誰が何日に封じたかを書く」
カタリナが続ける。
「そして下絵帳に、円の図だけを残す」
「そうだ」
ゲオルクは頷いた。
「数学の意味はわからなくても、線は残る」
俺は息を呑んだ。
これだ。
数学者にはない発想。
証明の全文を守るだけではない。
証明を構成する部品を、別々の文脈へ逃がす。
式。
図。
日付。
筆跡。
封蝋。
依頼記録。
全部で網を作る。
「すごい」
俺は呟いた。
ゲオルクは少し得意げに髭を撫でた。
「職人をなめるな」
「なめてません」
「顔がなめていた」
「そんな顔してました?」
「していた」
カタリナが小さく頷く。
「少し」
ひどい。
それから工房は戦場になった。
ゲオルクが指示を飛ばす。
カタリナが図を写す。
弟子たちが紙を裁つ。
エリザが赤線の位置を別紙に符号で残す。
ダニエルが証人として次々と署名する。
俺は、証明を分解して書いた。
二乗逆数級数。
円周と直径の比。
六で割る。
有限和の表。
無限積の道筋。
ただし、全部を一枚に書かない。
「ここには答えを書かない」
エリザが言う。
「こちらには図だけ」
カタリナが続ける。
「顔料帳には、赤線の順番だけ」
ゲオルクが言う。
「封蝋帳には、日付と証人」
ダニエルが署名する。
「そして、全体を知る者は」
俺が言うと、カタリナが答えた。
「私たちです」
紙だけではない。
人も網の一部。
その時だった。
工房の奥で、ぱきり、と音がした。
全員が振り返る。
壁に掛けられていた小さな肖像画。
人物の顔の部分が、白く抜け始めていた。
ゲオルクの顔が変わる。
「来たか」
カタリナが駆け寄る。
「父上、これは」
「触るな」
ゲオルクは絵の前に立った。
白化はゆっくり広がっている。
顔が消えていく。
だが、背景は残っている。
服も残っている。
消えているのは、名前を示す顔。
俺の背筋が凍った。
校閲者は、本当に絵を消しに来た。
「誰の肖像ですか」
俺が聞く。
ゲオルクは低く答えた。
「亡くなった弟子だ」
カタリナの顔が強張る。
「父上」
「落ち着け」
ゲオルクは近くの棚から下絵帳を取った。
「この絵には下絵がある」
ページをめくる。
同じ人物の素描。
そこにも、顔が白くなりかけていた。
「くそ」
ゲオルクが唸る。
カタリナが叫ぶ。
「私、覚えています」
「カタリナ?」
「この方の絵を覚えています。父上が何度も直していたので」
彼女はすぐに紙を取った。
細い筆で、顔を描き始める。
速い。
迷いが少ない。
白く消える肖像の前で、カタリナは記憶から顔を描いた。
エリザが息を呑む。
ダニエルも黙っている。
俺は、ただ見ていた。
数式ではない。
でも、同じだ。
消える前に、残す。
紙から消えるなら、人の記憶から呼び戻す。
カタリナの筆が止まる。
そこには、若い男の顔があった。
工房の空気が止まる。
ゲオルクがそれを見た。
長い沈黙。
「……似ている」
白化していた肖像の顔が、そこで止まった。
完全には戻らない。
だが、消えきらない。
カタリナの写しが、消失を止めた。
ゲオルクはゆっくりと娘を見た。
「お前」
「はい」
「本当に覚えていたのか」
「はい」
彼女の声は震えていた。
「線なら、忘れません」
俺は胸が熱くなった。
この人は、俺の外部記憶になる。
いつか、目を失うかもしれないオイラーの。
いや、今はまだその話ではない。
でも、確かに見えた。
カタリナ・グゼルは、ただの図版師の娘ではない。
消える歴史に、線を引き直す人だ。
ゲオルクは深く息を吐いた。
「よし」
彼は工房中に響く声で言った。
「この草稿、預かる」
「父上」
「ただし、条件がある」
俺は背筋を伸ばす。
「何でしょう」
ゲオルクは俺を見た。
「娘を便利な手として使うな」
「はい」
「記録係としても、妻候補としても、道具にするな」
妻候補。
俺は固まった。
カタリナの頬が赤くなる。
エリザがこちらを見る。
ダニエルが目を逸らして笑いを堪えている。
「い、いえ、その」
「どうなんだ」
声が大きい。
逃げ場がない。
俺は深く頭を下げた。
「道具にはしません」
「言葉では何とでも言える」
「はい」
「では、何にする?」
俺は迷った。
言うべきか。言うとして、何をどこまでを?
共同研究者。
記録者。
仲間。
未来の妻。
どれも軽い気がした。
カタリナは俺を見ている。
俺は正直に言った。
「一緒に、歴史を残す人として」
ゲオルクは黙った。
カタリナも黙った。
エリザが少しだけ目を伏せる。
やがてゲオルクは鼻を鳴らした。
「上手くはないが、嘘ではないな」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
やっぱり親子だ。
その日の夕方。
草稿の一部は、グゼル家の工房に分散された。
注文帳。
顔料帳。
下絵帳。
封蝋記録。
肖像画の裏紙。
それぞれに、欠片として。
校閲者が一つ消しても、全体は残るように。
帰り際、カタリナは自分の描いた弟子の顔をもう一度見た。
「父上」
「何だ」
「この絵も、守ります」
「ああ」
ゲオルクは短く答えた。
「守れ」
工房の外に出ると、雪は止んでいた。
雲の切れ間から、わずかに夕日が差している。
俺は肩の力を抜いた。
「何とか、預かってもらえましたね」
カタリナが隣で言う。
「はい」
「父は声が大きかったでしょう?」
「大きかったです」
「でも、噛まなかったでしょう?」
「それはそうですね」
彼女は少し笑った。
俺も笑いかけた。
その瞬間、カタリナが持つ図版筒が、かすかに震えた。
「また……?」
彼女が筒を開く。
中には、今日写した円の図。
そして、エリザの赤線位置を写した紙。
そのうち、赤い線だけが、ゆっくり白く抜け始めていた。
エリザが息を呑む。
「私の赤線が……」
白くなった余白に、黒い文字が浮かんだ。
【名なき訂正は、歴史に残らない】
次回 第13話は、本日5/7 21時過ぎ公開。




