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第13話 赤線を残せ


【名なき訂正は、歴史に残らない】


白く抜けた赤線の跡に、その文字が浮かんでいた。


図版筒を抱えたカタリナの手が、かすかに震える。


エリザは、その紙を見つめたまま動かなかった。


雪の止んだ夕方。


グゼル家の工房を出たばかりの道端で、俺たちは立ち尽くしていた。


「私の赤線だけ……」


エリザが低く呟く。


「消えている」


紙には、カタリナが写した円の図が残っている。


俺の式も残っている。


カタリナが整えた注記も残っている。


だが、エリザが入れた訂正位置を示す赤い線だけが、白く抜け落ちていた。


まるで最初から、その批判など存在しなかったように。


「待ってください」


カタリナが急いで紙を取り出す。


「赤い線を覚えています」


「カタリナ様」


「ここです。まず、零点から積へ移る箇所。次に、係数比較の前。三つ目は、有限和の表から結論へ飛ぶところ」


彼女は新しい紙に赤線を引こうとした。


だが、エリザが手を押さえた。


「結構です」


「でも」


「もう一度引いても、また消えるかもしれません」


「なら、何度でも」


「いいえ」


エリザの声は冷たかった。


冷たいというより、凍っていた。


「校閲者の言う通りです」


俺は眉をひそめた。


「何がですか」


「名なき訂正は、歴史に残らない」


「それを認めるんですか」


「現実でしょう」


彼女は紙を見る。


「私は正式な著者ではない。アカデミーの席もない。宮廷の記録に名が出れば監視対象になる。出なければ、私の仕事は赤線ごと消える」


「エリザ」


「どちらにしても、私は残らない」


その声に、怒りはあった。


だが、それ以上に疲れがあった。


出会った最初から彼女は、ずっと穴を見つけてきた。


俺の雑な未来知識を、この時代の言葉に繋いでくれた。


危うい証明を、潰されない形にしてくれた。


それなのに、その赤線だけが消える。


名前も出ない。


仕事も消える。


それは、あまりにも残酷だった。


「戻ろう」


ダニエルが言った。


「ここで立ち話をするべきではない」


「どこへ」


エリザが聞く。


「アカデミーだ。いや、まずは近くの部屋を借りる。赤線が消える条件を調べる」


「条件を調べてどうするのです」


「対策を作る」


ダニエルの声は穏やかだった。


「君が諦めるより先に、我々が手を動かす」


エリザは何も言わなかった。


俺たちは、グゼル家に戻るか迷ったが、ゲオルクの工房をまた巻き込むのは危険だった。


近くの知人の作業部屋を使えるよう、ゲオルクが口を利いてくれた。


いや、正確には怒鳴りながら鍵を渡してくれた。


「消えるなら、消えるところを見ろ!」


彼はそう言った。


「職人は、壊れ方を見ずに直さん!」


その言葉は、たぶんエリザにも届いていた。


小部屋に入ると、カタリナはすぐに紙を並べた。


エリザの赤線が消えた紙。


消えていない草稿。


赤字の写し。


訂正順を記した表。


俺は羽ペンを取った。


「まず確認しましょう」


エリザが尋ねる。


「何を?」


「消えたのは、多分、赤い線だけです。エリザの字は?」


カタリナが草稿をめくる。


「字は、一部残っています」


「一部?」


「はい。数学的な記号に近い部分は残っています。でも、言葉で書いた批判は薄くなっています」


「たとえば?」


カタリナが読み上げる。


「ここ、飛んでいます」


「覚えてますか?」


俺はカタリナに尋ねる。


「もちろん」


カタリナは続けた。


「この類推は危険。係数比較の前提を明記すること。有限和の表で支えること」


「このあたりは?」


「薄くなっていますが、読めます」


「つまり」


ダニエルが言った。


「校閲者は、エリザの仕事を完全には消せていない。赤い線、つまり彼女の痕跡として見えやすい部分を狙っている」


「見えやすい部分」


エリザが繰り返す。


「私の名がないから、線を消せば仕事ごと消えると?」


「そう見える」


俺は言った。


「なら、線を別の形に変えればいい」


エリザがこちらを見る。


「別の形って?」


「赤線ではなく、番号にする。訂正表にする。図の余白に符号を置く。カタリナの顔料帳みたいに、別の帳面へ分ける」


カタリナがすぐに反応した。


「赤線の順番を、色ではなく記号にできます」


「たとえば?」


「丸、一重線、二重線、点。赤が消えても、紙の切れ目や押し跡なら残るかもしれません」


「押し跡」


エリザが顔を上げる。


カタリナは頷く。


「父の工房では、下絵の線を紙に押して写すことがあります。顔料が消えても、紙の凹みが残る場合があります」


「赤を顔料ではなく、凹みで残す」


「はい」


ダニエルが小さく笑った。


「数学者にはない発想だ」


「数学者は紙を雑に扱いすぎです」


カタリナが言う。


俺は黙った。


心当たりがありすぎる。


エリザはしばらく紙を見ていた。


そして、ゆっくり首を振った。


「それでも、私の名は残らない」


「名は」


俺は言った。


「残し方を選べます」


「どういう意味?」


「正式な著者名ではなく、訂正体系の名にする」


「訂正体系?」


「エリザ式赤線表」


「却下です」


即答だった。


「では、ベルヌーイ補注」


「それは家の名に吸われます」


「訂正番号E」


「露骨です」


「Eでいいのでは」


カタリナが言った。


エリザが彼女を見る。


「E?」


「はい。赤線ではなく、E一、E二、E三、と番号を振ります。正式には、検討記号E。意味を知る者だけが、エリザ様の訂正だとわかる」


「隠し名」


ダニエルが呟く。


「暗号に近いな」


「暗号ではありません」


カタリナは言った。


「工房の符丁です。誰がどの作業をしたか、帳面には本名でなく印で残すことがあります」


エリザは黙った。


紙の上に、カタリナが小さく書いた。


E1


E2


E3


それぞれ、元の赤線の場所に対応している。


赤ではない。


黒い小さな符号。


「これなら」


カタリナが言う。


「赤線が消えても、訂正位置は残ります。Eの意味は、別の帳面に残します」


「その帳面が消えたら?」


エリザが問う。


「私が覚えます」


「あなたは本当に、そればかりですね」


「はい」


「怖くないのですか」


「怖いです」


カタリナは即答した。


「でも、消える方がもっと怖い」


エリザの表情が少しだけ崩れた。


怒りではない。


泣きそうでもない。


ただ、何かを受け取った顔だった。


「私は」


エリザは小さく言った。


「自分の名が欲しいわけではないのかもしれない」


俺は黙って聞いた。


「でも、私が見つけた穴を、最初からなかったようにされるのは嫌です」


「はい」


カタリナが頷く。


「それは、とても嫌なことです」


エリザは紙を見た。


「なら、Eでいいです」


「いいんですか」


俺が聞くと、彼女は冷たい目でこちらを見た。


「エリザ式赤線表よりは、はるかにましです」


「すみません」


「あと、その名前は二度と言わないでください」


「はい」


ダニエルが笑いをこらえていた。


エリザは無視した。


そこから作業が始まった。


赤線を、E番号へ変換する。


E1。


零点から積への飛躍。


E2。


係数比較の前提不足。


E3。


有限和表による検算不足。


E4。


円周と直径の比の記号に頼りすぎ。


E5。


結論が美しすぎて、聴衆が疑う箇所。


「E5、ひどくないですか」


俺が言うと、エリザは平然と答えた。


「事実です」


「美しすぎても怒られる」


「数学は美しいだけでは足りません」


「知っています」


「本当に?」


「かなり」


カタリナが小さく笑う。


その横で、彼女はE番号対応表を三種類作っていた。


一つは通常の紙。


一つは工房の顔料帳風。


一つは図版の余白だけで読めるもの。


さらに、押し跡でも残す。


紙の裏から針のような道具で、わずかに点を打つ。


「これは?」


エリザが見る。


「Eの位置を、紙の凹みで残しています」


「字が消えても?」


「光に透かせば見えるかもしれません」


「あなた、恐ろしいですね」


「よく言われます」


「誰に?」


「最近、皆様に」


俺は笑いかけて、やめた。


また校閲者が来るかもしれない。


気を抜けない。


だが、今は少しだけ空気が戻っていた。


エリザの仕事が、別の形で残り始めている。


赤線ではなく、Eとして。


名ではなく、符号として。


不完全な記録だ。


でも、ゼロではない。


それは多くのえにしによって結びつけられ、守られる。


「オイラー殿」


エリザが言った。


「はい」


「あなたは先ほど、訂正体系の名にすると言いました」


「はい」


「訂正は、証明の一部ですか」


「もちろんです」


「では、正式発表の時」


彼女は俺を見る。


「証明が通ったら、それはあなた一人の勝利ではありません」


「当然です」


「本当に当然と思っていますか」


「思っています」


「なら、発表で言ってください」


「何を」


「この証明は、多くの検討と訂正によって支えられている、と」


俺は頷いた。


「必ず言います」


「私の名は出さなくていい」


「いや、でも」


「出さなくていいです」


彼女の声は静かだった。


「ただ、訂正があったことは残してください。天才が一人で一晩で書いたようにしないでください」


この言葉は、俺にも刺さった。


天才が一人で無双する方が気持ちがいいだろう。


でも、俺は天才ではない。


答えだけを知る俺が、何度も周囲の手で歴史に残せる形を目指すのだ。


俺一人がオイラーになるのではない。


オイラーの名で残る数学を、皆で支え、未来に届けるのだ。


「約束します」


俺は言った。


「私一人の勝利にはしません」


エリザは少しだけ目を伏せた。


「ありがとう」


その時だった。


机の上の最初に赤線が消えた紙が、かすかに震えた。


全員が動きを止める。


白く抜けた赤線の跡。


【名なき訂正は、歴史に残らない】


その文字の下に、新しい一行が浮かぶ。


【符号は名ではない】


俺は歯を食いしばった。


「また来た」


カタリナがE対応表を押さえる。


エリザはじっとその文字を見た。


「ええ」


彼女は静かに言った。


「その通りです」


俺は驚いて彼女を見る。


「エリザ?」


「符号は名ではありません」


彼女は羽ペンを取った。


「だから、名を別に残します」


「危険です」


カタリナが言う。


「承知しています」


エリザは新しい紙に、自分の名前を書いた。


Eliza Bernoulli。


その文字は、すぐに白く揺れ始めた。


「エリザ!」


俺が声を上げる。


だが彼女は手を止めなかった。


名前の横に、こう書く。


【この名は公式著者名ではない。


検討者名である。


証明の穴を見た者の名である】


白化が止まった。


いや完全には止まらなかった。


ElizaのEだけが、濃く残った。


残りは薄い。


だが、消えない。


「E……」


カタリナが呟く。


エリザは息を吐いた。


「なるほど」


ダニエルが紙を覗き込む。


「校閲者は、名を完全には許さない。だが、役割を定義すれば一部は残る」


「公式著者ではなく、検討者として」


俺が言う。


「はい」


エリザは紙を見つめた。


「なら、これで十分です」


「十分なんですか」


「今は」


その言葉が重かった。


今は。


いつか、もっと堂々と名を残せる時代が来る。


たぶん彼女は、それを知らない。


俺は知っている。


それでも、まだ十分ではないことも知っている。


「エリザ」


「何です?」


「いつか」


言いかけて、止まった。


未来の話は、危ない。


だが、どうしても言いたかった。


「いつか、検討者の名も、ちゃんと読まれる時代が来ます」


エリザは俺を見た。


「また夢ですか」


「はい」


「便利な夢ですね」


「認めます」


彼女は少しだけ笑った。


「なら、その夢が嘘にならないようにしてください」


「努力します」


「努力では足りません」


「すごく努力します」


カタリナが微笑む。


ダニエルも、静かに頷いた。


その日の夜、俺たちは赤線の防衛網を完成させた。


赤線。


E番号。


押し跡。


対応表。


検討者名。


工房帳。


ダニエルの確認。


カタリナの記憶。


一つの訂正を、いくつもの形に変える。


校閲者が一つを消しても、全部は消せないように。


外はまた雪だった。


小部屋を出る頃には、街灯の光が白く滲んでいた。


エリザは自分の名前が薄く残った紙を、そっと胸に抱えた。


「持っていくんですか」


俺が聞くと、彼女は言った。


「はい」


「危なくないですか」


「危ないですよ」


「なら」


「だから持ちます」


彼女はまっすぐ前を見た。


「私の名ですから」


その一言に、誰も反論できなかった。



俺たちはアカデミーへ戻った。


だが、入口の前で待っていた使者を見て、足を止めた。


宮廷の使者だった。


手には封書。


封蝋には見覚えのある紋章。


アンナの派閥ではない。


イワンのものでもない。


使者は俺たちに頭を下げた。


「レオンハルト・オイラー殿。宮廷より通達です」


「またですか」


思わず本音が漏れた。


使者は表情を変えない。


「帝国の航海局より、数表作成の協力要請が出ております」


エリザが眉をひそめる。


「数表?」


使者は封書を差し出した。


俺は受け取り、封を切る。


中には、短い命令文。


航海用数表の検算に協力せよ。


その下に、知らない名前があった。


アレクセイ・ヴォロンツォフ。


宮廷付き計算官。


そして、その名の横には、校閲者の黒い文字が浮かんでいた。


【名を欲する者は、名を奪う】



第二部開幕に合わせて、本日は3話更新でした。

ここからは無理のないペースで続けていきます。

続きが気になる方は、ブックマークしてお待ちいただけると嬉しいです。


次回 第14話は、明日5/8 21時過ぎ公開。

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