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第14話 帝国の数表


【名を欲する者は、名を奪う】


封書の上に浮かんだ黒い文字を見て、俺は思わず息を止めた。


アレクセイ・ヴォロンツォフ。


宮廷付き計算官。


まだ会ったこともない名前だ。


なのに、校閲者はもうその名に意味を与えている。


名を欲する者。


名を奪う者。


「……嫌な紹介文ですね」


俺が呟くと、エリザが封書を覗き込んだ。


「また校閲者ですか」


「はい」


カタリナも見る。


「黒い文字です。紙に沈んでいます」


「消えにくい?」


「はい。宮廷文書の文字に似ています」


ダニエルが低く言った。


「つまり、宮廷の記録と校閲者の記録が、また重なっている」


「最悪ですね」


「慣れてはいけないが、驚いてばかりもいられない」


ダニエルは封書の本文を読んだ。


「航海用数表の検算に協力せよ、か」


「命令ですか」


「要請と書いてある」


「拒否できます?」


「要請と書いてある命令だ」


ですよね。


エリザが腕を組む。


「数表なら、宮廷が欲しがるのは当然です」


「航海、測量、砲術、暦」


俺が言うと、彼女は頷いた。


「はい。あなたが宮廷うっかり未来の応用を匂わせたせいです」


「ですね。うっかりが多すぎる」


「自覚があるなら結構です」


カタリナが封書の端を見ていた。


「この紙、直接、航海局から来たものです」


「つまり?」


「イワン様やアンナ様の記録とは別系統です」


また面倒な派閥か。


宮廷は一枚岩ではない。


わかっていたが、こうして別々に手が伸びてくると、ますます嫌になる。


「行くしかないですね」


俺は言った。


エリザがすぐに返す。


「行くなら、草稿は持っていかないこと」


「もちろん」


「数学の核心も喋らないこと」


「努力します」


「喋らないこと」 釘を刺された。


「はい」


カタリナが言った。


「私、行きます」


「危険ですよ」


「紙を見る人が必要です」


即答。


もう止めるだけ無駄だ。


ダニエルは少し考えた。


「私は同行しない」


「え?」


「宮廷は、いつまでも私を窓口にしたがる。だが、今回は君が受けなさい」


「先生」


「私が離れた後も、こういう呼び出しは来る」


ダニエルの声は静かだった。


「君自身で、受け流す練習をしなさい」


練習で宮廷に出されるの、重すぎる。


だが、言っていることは正しい。


「わかりました」


「エリザ」


「はい」


「君は行くかい?」


「行きます」


こっちも即答だった。


「数表の検算なら、穴を見つける人間が必要です」


「頼もしい」


「ただし、私の名前は出しません」


「わかっている」


ダニエルは俺を見る。


「レオンハルト。数表を舐めるな」


「もちろん」


「一つの誤差が、船を沈める」


その言葉は、俺の中に重く落ちた。


  ◇  ◇  ◇


指定された日。


俺たちは宮廷の航海局へ向かった。


アカデミーとも宮殿の会議室とも違う場所だった。


壁には地図。


机には羅針盤、定規、天文表。


窓際には、海図の束が積まれている。


ここでは数学は、紙の上の美しさではない。


船の進路。


港の税。


軍艦の移動。


つまり人の生き死にに直結する。それも大勢の。


部屋の中央に、一人の若い男が立っていた。


年は俺と近いか、少し上。


細身。


神経質そうな目。


服は上等だが、貴族ほど華美ではない。


彼は俺を見ると、浅く礼をした。


「アレクセイ・ヴォロンツォフです」


「レオンハルト・オイラーです」


「存じています。無限級数で宮廷を騒がせた方だ」


言い方に棘がある。


エリザの眉が動く。


カタリナは黙って紙を見ている。


「こちらが、検算していただきたい数表です」


アレクセイは机の上に分厚い帳面を置いた。


「航海用の天文計算に使う表です。明日の船を沈めないためのものです」


俺はその言い回しに引っかかった。


校閲者の予告を思い出す。


名を欲する者。


「明日の船を沈めない」


俺は繰り返した。


アレクセイは冷たく笑う。


「帝国に必要なのは、二年後に日の目を見るかもしれない美しい証明ではありません。明日の船を沈めない数表です」


エリザが低く言った。


「無限を笑うわりに、言葉は用意しているのですね」


アレクセイは彼女を見る。


「あなたは?」


「エリザ・ベルヌーイ」


「ベルヌーイ家の?」


「傍系です。正式な席はありません。ですが、計算の穴は見えます」


アレクセイの目が細くなる。


「面白い」


「面白がらないでください」


「では、怖いと言いましょうか」


エリザは無視した。


俺は数表を開いた。


数字が並んでいる。


角度。


時刻。


緯度。


補正値。


手計算の跡。


実務の重みがある。


「どこを見れば?」


「全体です」


「全体?」


「あなたは無限を扱えるのでしょう?」


嫌味だ。まさか数学者ジョークではないだろう。


俺は息を吐いた。


「無限を扱うことと、分厚い数表を一晩で検算することは違います」


「では、できないと?」


「できますが」


言ってから、しまったと思った。


エリザが足を踏む前に、カタリナが紙を差し出した。


「分担しましょう」


「助かります」


カタリナは表の行と列を見ていた。


「この帳面、途中から筆跡が変わっています」


アレクセイの顔が少し動いた。


「複数人で作ったので当然です」


「はい。ですが、変わったところから数字の配置も少し変わっています」


「配置?」


「桁の揃え方です」


エリザが数表を覗く。


「……確かに。小数部分、いや、分数部分の位置が一部ずれている」


アレクセイが苛立ったように言う。


「そこは誤差の範囲です」


俺は顔を上げた。


「誤差の範囲?」


「航海で使う近似表です。完全である必要はありません」


「完全でないとしても、どれだけズレるかは知らなければいけないのでは?」


アレクセイが黙る。


俺は数表の一行を指した。


「ここ。補正値が一段ずれています」


「一段?」


「この行の値は、隣の角度の値に近い。写し間違いか、列ずれです」


カタリナが頷く。


「筆跡が変わった直後です」


エリザが計算する。


「もしこの値を使えば、進路の見積もりに系統的なずれが出ます」


「どの程度です?」


アレクセイの声が低くなった。


俺は即答できなかった。


だから、計算する。


数値を拾う。


差を取る。


誤差を積む。


面倒だ。


スマホが欲しい。


だが、ここにはない。


手でやる。


「おそらく、一度よりは小さい」


俺は言った。


「ですが、航海中に何度も使えば、ずれは積み重なる」


エリザが続ける。


「誤差が偏っていれば、打ち消し合わない」


「つまり船は、少しずつ間違った海へ進むことに?」


カタリナが静かに言った。


部屋が静かになった。


アレクセイの顔から余裕が消える。


「……そこまで言うなら、直せますか」


「直します」


俺は言った。


「ただし、条件があります」


アレクセイが眉を上げる。


「条件?」


「この数表を、バーゼル問題の草稿保護と交換条件にしないこと」


「意味がわかりません」


「宮廷は、数学を使えるものとして見ている。なら、使える数学を守る必要も認めるべきです」


アレクセイは笑った。


「美しいことを言いますね」


「違います」


俺は数表を指した。


「実務の話です。誤った数表は、空論より人を殺しますよ」


その言葉で、アレクセイの笑みが消えた。


「……もう一度」


「誤った数表は、空論より人を殺す」


俺は言った。


「だから、数表を作る者の名前も、検算した者の記録も、日付も、訂正履歴も必要です」


カタリナが素早く書き留める。


エリザも頷いた。


「訂正履歴がなければ、どこからずれたか追えません」


アレクセイは拳を握った。


「あなた方は、何でも名前にするのですね」


「名前ではなく責任です」


「責任」


彼は机の上の自分の計算帳を見た。


そこには細かい数字が並んでいる。


手間がかかっている。


才能もある。


だが、彼の名はおそらく表には出ない。


宮廷付き計算官。


実務の数字を作る者。


間違えば責められ、合っていても名は残らない。


彼の目に、エリザと似た色が一瞬見えた。


だが、アレクセイとエリザは、根本的に違う。


「アレクセイ殿」


俺は言った。


「あなたの表は、価値があります」


彼は顔を上げた。


「慰めですか」


「違います」


「なら、なぜあなたは、私の表を見下すのか?」


「見下していません」


「無限級数の天才様が、実務の数表を?」


刺が深い。


「私は天才ではありません」


「では、何です?」


答えに詰まった。


未来から来た凡人。


オイラーの名を借りている者。


それは言えない。


「間違いを怖がっている者です」


俺は言った。


アレクセイが少し意外そうな顔をした。


「間違いを?」


「はい。私の数式も、あなたの数表も、間違えれば未来をずらします」


「未来」


「航海の未来です」


エリザの視線が刺さる。


危ない。足を踏まれるところだった。


でも今のはごまかせたはずだ。


アレクセイはしばらく黙り、それから帳面をこちらへ押した。


「では、検算してください」


「はい」


「ただし、私の名前も残す」


俺は頷いた。


「もちろん」


アレクセイの目が揺れる。


「本当に?」


「訂正者として。作表者として。責任者として」


エリザが横から言う。


「ただし、誤差も残します」


「容赦ないな、ベルヌーイ嬢」


「事実です」


カタリナが小さく笑いそうになって、こらえた。


作業は長引いた。


数表の誤差を拾い、列ずれを直し、訂正履歴を作る。


アレクセイの計算は速かった。


悔しいが、実務計算では俺より慣れている。


エリザは論理の穴を見る。


カタリナは筆跡と配置を見る。


俺は誤差の流れを見る。


何度か、アレクセイとぶつかった。


「そこは実務上無視できる」


「無視できる根拠を表に書いてください」


「いちいち書くのか」


「書かない誤差は、後で嘘になります」


「あなたは面倒だ」


「よく言われます」


「誰に」


「関わる人、全員に」


アレクセイは少しだけ笑った。


最初の敵意は、薄まっていた。


だが消えたわけではない。


彼は俺を見る目に、まだ嫉妬を残している。


そして、俺もそれを責められない。


名を欲しがる気持ちは、わかる。


俺だって、本物ではないくせに、オイラーの名を守ろうとしている。


夕方。


訂正済みの数表が一応まとまった。


アレクセイは自分の名前を書いた。


Alexei Vorontsov。


その下に、俺が書く。


検算。


Leonhard Euler。


さらにエリザ。


論理検討。


E。


彼女は本名ではなく、Eだけを書いた。


カタリナは紙面確認。


C.G.


それを見て、アレクセイが言った。


「あなた方は、署名すら暗号のようだ」


「名を守る必要があるので」


カタリナが答える。


「守らなければならない名があるのは、羨ましいですね」


アレクセイが小さく言った。


俺はその言葉を聞き逃さなかった。


「あなたにもあります」


「宮廷の帳面に埋もれる名です」


「それでも名です」


「歴史には残らない」


その声は、低かった。


エリザが彼を見る。


何か言いかけて、やめた。


同じ痛みを知っているからかもしれない。


その時だった。


カタリナが、今日の訂正履歴を並べていた手を止めた。


「おかしいです」


「今度は何です?」


俺は身構える。


「白化の記録です」


彼女はこれまでの紙を出した。


検討会。


宮廷召喚。


グゼル家工房。


赤線消失。


そして今日の数表。


日付と白化の強さが、細かく書かれている。


「白化は、毎日同じではありません」


「それはそうでしょう」


エリザが言う。


「でも、単に段々と強まっているだけでもありません」


「では?」


カタリナは指で日付をなぞった。


「人がその日付を読む日に強まっています」


俺は眉をひそめた。


「どういう意味ですか」


「日付そのものが危険なのではありません。日付を、公的な記録として参照した時に白化が強まるのです」


部屋が静まる。


カタリナは続けた。


「検討会の日。宮廷報告の日。工房帳に転記した日。今日の数表提出日。すべて、誰かが記録を確認する日です」


エリザが息を呑む。


「つまり、校閲者は紙ではなく、参照される記録を狙う」


「はい」


アレクセイが低く言った。


「参照されない記録は、歴史にならないからか」


その通りだ。


紙はあるだけでは歴史にならない。


誰かが読む。


誰かが引用する。


誰かが信じる。


その瞬間、記録は歴史になる。


校閲者は、そこを狙っている。


俺はカタリナの表を見た。


「これは、周期表だ」


「周期表?」


「白化が強まる日を予測できるかもしれない」


カタリナが頷く。


「はい。まだ粗いですが」


「十分です」


俺は言った。


「これは武器になります」


アレクセイが表を見つめる。


「記録にも誤差がある」


「あります」


「なら、この表にも検算が必要だ」


彼は羽ペンを取った。


「手伝います」


俺は驚いた。


「いいんですか」


「誤った表は、人を殺すのでしょう」


彼は皮肉げに言った。


だが、その声には少し熱があった。


その瞬間、彼の計算帳の端が、かすかに黒く滲んだ。


俺たちは一斉に見る。


【Alexei Vorontsov】


その署名の横に、黒い文字が浮かぶ。


【名を欲する者は、名を奪う】


今朝と同じ文。


だが、その下に、新しい一行が続いた。


【一七三五年、彼の名は空欄を埋める】


次回 第15話は、明日5/9 21時過ぎ公開。

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