第60話 無限解析入門
空白は、紙の上で待っていた。
実の線と影の線。その上を回る円。横の波と縦の波。指数と対数の鏡。関数名簿。
すべてが机の上に並んでいるのに、中央の一箇所だけが白く空いている。カタリナがあえて残した余白だ。
そこへ、円の回転と指数の変化をつなぐ道を描く。描けるはずだと、頭は知っている。だが、手がすぐには動かなかった。
ベルリンの朝は静かだった。
窓にかけた布が、外の乾いた光を淡く濾している。暖炉の火は小さく、紙の上にはインクと灰と、昨夜から残る蝋燭油の匂いがあった。
右目は相変わらず白く滲む。けれど、カタリナが描いた大判図なら、左目と記憶で追える。個々の線は頼りない。だが、関数の道筋は見え始めていた。
カタリナは、机の端で図版を整えている。
空白を残した大判紙、実線と影線の図、円と波の図、それから関数名簿。
ひとつずつ重ね、光の反射を避ける角度へ置く。その手つきは、まるで礼拝の準備のようだった。
「今日は、この余白ですね」
「はい」
「ここに、円と指数をつなぐ道を描く」
「描くことができれば」
「描きます」
柔らかい敬語なのに、確定している。
「ずいぶん強く言いますね」
「空白を残したのは、そのためですので」
その言葉に、俺は少し笑った。
リーデルは、いつもより早く来ていた。手には関数名簿の清書と、アカデミー用の記録紙。顔には寝不足の影があるが、目は冴えている。彼もこの空白の意味を感じているのだろう。
「オイラー先生、モーペルテュイ殿はまもなく来られます。ヴォルテール殿も、なぜか来るそうです」
「なぜか、ですか」
「昨夜、円と影の話を聞いてから、興味を持たれたようで」
「面倒な興味ですね」
「はい。非常に」
リーデルが即答したので、カタリナが小さく笑った。
やがて、モーペルテュイが来た。今日は静かな顔をしている。続いて、ヴォルテールも現れた。彼は朝からすでに言葉を磨いてきたような顔で、部屋を見回し、机の上の空白に目を止めた。
「おお、今日は白紙が主役か。哲学者には危険な景色ですな。何でも書ける」
「だから慎重に書きます」
俺が答えると、彼は満足そうに笑った。
「よろしい。白紙に最初の嘘を書いた者は、たいてい歴史に残る」
「嘘は書きません」
「人は皆そう言って書き始める」
カタリナが静かに紙を出した。
「今の言葉は、比喩として記録します。正式な議論には入れません」
「夫人、あなたは私の自由を紙の上で逮捕する」
「逃がすと危険ですので」
ヴォルテールは声を上げて笑った。
モーペルテュイは椅子に座り、空白の紙を見た。
「では、始めましょう。君は、指数の変化と円の回転を同じ場所に置こうとしている」
「はい」
「危険ですね」
「危険です」
「しかし、避けるべき危険ではない」
俺は頷いた。
「ここまで来たなら、避けられません」
机の上には、指数の表がある。増える関数。進む道。対数という帰り道。
もう一方には、円の回転。横の波。縦の波。実の線と影の線。
昨日まで、それらは別々の紙にあった。今日は一つの紙へ重ねる。
「指数は、増える規則です」
俺は言った。
「入力が変わると、値が滑らかに変わる。自分自身の性質を保ちながら変化する」
リーデルが写す。
「円の回転は、戻る規則です」
カタリナが大判図を示す。
「一周すれば、同じ場所に戻る」
「この二つは、普通に見れば別物です」
モーペルテュイが言う。
「一方は増加し、一方は回転する」
「はい。実の線だけを見れば、別物です」
俺は、昨日描いた影の線を指した。
「ですが、影の向きを加えると、指数の変化は回転を持てる」
ヴォルテールが身を乗り出した。
「数が踊り始めるわけだ」
「比喩としては」
「また逮捕されるな」
カタリナが真面目に書く。
「比喩語、踊る。正式語、影の方向を持つ変化」
ヴォルテールは楽しそうに両手を上げた。
「私はもう何も言えない」
「おそらく言います」
リーデルが小声で言い、すぐに赤くなった。
部屋が少し和らいだ。
俺は羽ペンを取った。紙の中央、空白の場所へ、実の軸と影の軸を描く。そこに円を描く。右目では線が滲む。だが、カタリナが横から角度を見てくれる。
「線が少し右へ傾いています」
「直してください」
「はい」
彼女の手が俺の線を補う。俺の視界のずれを、彼女の線が正す。
次に、円周上の点を置く。角を増やす。すると、実の成分は横の波となり、影の成分は縦の波となる。ここまでは昨日見た。問題は、その点を指数の関数として書くことだ。
「影の単位を持つ指数」
俺は言った。
「入力が実の数ではなく、影の角を含む時、指数は増えるのではなく回る」
リーデルが手を止めた。
「増える関数が、回る?」
「そうです」
「矛盾していませんか」
「実の線だけで見れば、矛盾します。影の線を加えると、同じ規則が別の顔を見せる」
モーペルテュイが低く言った。
「これは、解析の地図で大きな峠になりますね」
「はい」
その時、机の端に置いていた茶色の封書が、かすかに震えた。
エリザの書簡。
まだ開けていなかった。
リーデルが緊張した顔でこちらを見る。
「開けますか」
「開けない方が怖い」
カタリナが封を切る。
赤字が現れた。
『美しさを理由に証明を省略しないでください。指数、円、影の単位、この三つを接続するなら、各語の定義と対応表を添えなさい。特に、等しい、という語を安易に使わないこと』
俺は額を押さえた。
「遠くからでも、この局面を読んでいる」
モーペルテュイが感心したように言った。
「彼女は本当にこちらにいないのですか」
「いません」
ヴォルテールが笑う。
「いない方が怖い人間というのは、よい文学になる」
カタリナが赤字を大判で写す。
『等しい、を安易に使わないこと』
その言葉は、今まさに必要だった。
俺は式を書こうとしていた。
指数の影の角と、円の横波と縦波を一つにまとめる式。
だが、等号一本でつなげば、美しすぎる。美しすぎるものほど、誤解される。ヴォルテールの言葉も、そこに刺さっている。
「まず、言葉で置きます」
俺は言った。
「影の角を持つ指数関数は、円周上の回転として現れる。その実の部分は横の波、その影の部分は縦の波に対応する」
リーデルが苦心しながら写す。
「実の部分。影の部分。横の波。縦の波」
カタリナが図を描く。指数の道が円へ入り、円の点が横と縦へ分かれる。矢印は太く、名前は複数ある。比喩語と正式語を分ける欄も作る。
モーペルテュイが、しばらくその図を見ていた。
「君は、円と指数を同じ関数の二つの窓として扱うつもりですか」
「はい」
「それは、とても美しい」
ヴォルテールが即座に言う。
「そして、とても危険だ」
「あなたに言われると、嫌な予感がします」
「美しさは、いつも横領される」
その瞬間、紙の中央が黒く滲んだ。
校閲者の文字だった。
【美しき接続を断て】
予想していた。
だが、実際に見ると、胸が冷える。
指数の図と円の図を結ぶ矢印が、黒く塗りつぶされていく。つながりが消されるのではない。黒く塗られ、見えなくされる。乾いたベルリンの光の下で、紙の中央だけが闇に沈んでいく。
カタリナがすぐに紙を押さえる。
「接続矢印です。指数から円への道が黒くなっています」
リーデルが記録する。
「接続部、黒化。白化ではなく黒化」
モーペルテュイが低く言う。
「消すのではなく、覆う。隠す攻撃ですね」
ヴォルテールが声を落とした。
「見えないものは、存在しないと人は思う」
俺は羽ペンを取った。
指が少し震えた。
右目はもう役に立たない。左目で、黒く塗られた接続を見る。だが、見えないなら、声で。図で。式で。赤線で。これまで何度もそうしてきた。
「言葉で残します」
俺は言った。
「影の角を持つ指数は、円の回転を生む」
カタリナが復唱する。
「影の角を持つ指数は、円の回転を生む」
リーデルが書く。
「接続命題。指数から円へ」
モーペルテュイが証言する。
「私は、この接続を見た」
ヴォルテールが、少しだけ真面目な声で言った。
「私は、この接続が人を誘惑するほど美しいと見た」
「それも記録します」
カタリナが言う。
「危険性として」
ヴォルテールは苦笑した。
「容赦がない」
エリザの赤字を見ながら、俺は慎重に記号を書いた。
まず、言葉。
次に、記号。
影の単位を含む指数関数。
横の波。
影の単位を伴う縦の波。
それらが一つの関係として並ぶ。
現代の形なら、一行で書ける。
だが、ここでは、文字と図と注記を重ねる。
それでも最後に、俺は書いた。
『e^{ix}=cos x+i sin x』
書いた瞬間、部屋の空気が止まった。
リーデルが息を呑む。
カタリナの手が紙の端で止まる。
モーペルテュイは、ゆっくり立ち上がった。
ヴォルテールは、珍しく何も言わなかった。
式は、美しかった。
美しすぎるほどだった。
指数。
影の単位。
円の横波。
円の縦波。
別々だったものが、一行で結ばれている。
右目では滲む。だが、左目では見える。いや、目よりも先に、頭の奥で見えている。
その瞬間、校閲者の黒い文字が激しく揺れた。
【美しき接続を断て】
黒い塗りつぶしが、式の中央へ伸びる。
等号を狙っている。
エリザの赤字が目に入る。
『等しい、という語を安易に使わないこと』
俺は叫びそうになるのをこらえた。
「等号を守ります」
カタリナが即座に大判写しを作る。
「左辺、影の角を持つ指数。右辺、横の波と影の縦の波。等号、接続」
リーデルが通常記録へ写す。
「等号は、定義と展開による接続。比喩ではない」
モーペルテュイが言う。
「これは、解析の中心に置くべき式だ」
ヴォルテールがようやく口を開いた。
「君の式は美しい。だが、美しいものほど、人は勝手な意味を読もうとする」
「では、注記をつけます」
カタリナが言った。
「美しい、は比喩。正式には、指数関数と三角関数の接続」
ヴォルテールが笑った。
「私の美まで逮捕するか」
「はい」
そのやりとりで、少しだけ空気が戻った。
黒い塗りつぶしは、等号の上で止まった。
完全には消えない。だが、等号は残った。
式は残った。
e^{ix}=cos x+i sin x
その一行の下に、エリザの書簡から一文を写した。
『美しさを理由に証明を省略しないこと』
さらに、カタリナが書く。
『読める大きさで残すこと』
リーデルが書く。
『正式記録に、比喩と定義を分けて残すこと』
モーペルテュイが書く。
『解析の地図に、この接続を記すこと』
ヴォルテールが、最後に勝手に一行を書いた。
『美しい式ほど、退屈な注記を必要とする』
エリザが見たら赤線を入れるだろう。
だが、今日だけは残すことにした。
夕方、式は封じられた。通常写し、大判写し、図版写し、言葉による説明、比喩対応表、赤線書簡。全部を一組にして保管する。
カタリナは、最後に大判図を壁へ掛けた。
円。
波。
指数。
影の単位。
等号。
俺はそれを左目で見た。右目では白く滲む。けれど、もう右目だけで見る必要はなかった。
「片目で見る世界は狭い」
俺は言った。
「だが、関数で見れば、数は互いに道を持つ」
カタリナが微笑んだ。
「では、その道を読める大きさで描きます」
モーペルテュイは深く頷いた。
「無限解析への入門。その中核が、見えましたね」
ヴォルテールは扉へ向かいながら言った。
「オイラー殿、君の式は美しい。私はその美しさを信じないが、その危険は信じよう」
「褒めていますか」
「半分は」
「残り半分は?」
「いつも通り、危険だ」
リーデルが笑った。
夜になって、サンクトペテルブルクからもう一通の書簡が届いた。
エリザだった。
封を開けると、赤字が一行だけあった。
『あなたの書く式は美しい。ですが、美しさを理由に証明を省略しないでください』
俺は笑った。
「遠くからでも刺してくるな……」
カタリナが、壁の大判図を見上げながら言った。
「届いていますね」
届いている。
赤線も。
式も。
見えない道も。
ベルリンの乾いた夜の中で、円と指数を結ぶ一行は、静かに紙の上で息をしていた。




