第59話 虚の回転
円が関数として歌い始めた翌日、俺はその歌の届かない場所を見ていた。
机の上には、昨日の大判図がある。
円、横の波、縦の波。同じ円運動から生まれる二つの周期関数。
カタリナの線は太く、右目でも輪郭だけなら追える。けれど、円の点が一周するたび、俺の頭の中には別の問いが残った。
横の波と縦の波は、別々に見える。だが、本当に別々ではない。一つの回転を、二つに裂いて見ているだけではないか。
ベルリンの朝は静かだった。窓の外には薄い霧が出ている。
サンクトペテルブルクの湿った霧とは違う、乾いた冷気に混じる淡い白だ。
机には、昨日ヴォルテールから届いた短い手紙が置かれている。円が歌うなら、その楽譜を見たい。彼らしい軽口だが、そこに妙な真実があった。円の歌には、まだ楽譜が足りない。
「レオンハルト様、右目を閉じていらっしゃいます」
カタリナが言った。
彼女は円の図を壁から外し、机の高さに置き直していた。
照明の角度、紙の距離、線の太さ。すべてを俺の目に合わせる。その手つきは、もう看病ではなく共同作業だった。
「閉じた方が、頭の中で回しやすいんです」
「目を閉じる方が、見えるのですか」
「変な言い方ですが」
「変ではありません。記録します」
本当に書かれた。
右目を閉じると、円の回転を内側で追いやすい。
「それは病状記録ですか」
「研究環境記録です」
「分類が増えていく」
「必要ですので」
彼女は穏やかに返した。
扉が叩かれ、リーデルが入ってきた。手には細長い筒と、一通の封書がある。顔には眠気と興奮が同居していた。
「オイラー先生、ヴォルテール殿からの返書です。それと、モーペルテュイ殿から、今日の議論には私も同席してよいとのことです」
「今日の議論?」
「虚数について、と伺っています」
彼の声が少しだけ不安げになった。
カタリナも顔を上げる。
「虚数」
その言葉だけで、部屋の空気が少し冷える。
負の数の平方根。
存在しない数。
実在しない、という意味を含む言葉。
だが、俺は知っている。それが、円の回転と指数の変化を結ぶ鍵になることを。ただし、ここで急ぎすぎれば危険だ。記号も、概念も、時代から浮く。校閲者は必ずそこを狙う。
「虚数という言葉は、慎重に扱いましょう」
俺は言った。
リーデルは筒から紙を出した。
そこには、昨日の円と波の図を彼なりに清書したものが入っている。書記らしい整った字で、横の関数、縦の関数、周期、角、と書かれていた。その下に、小さく問いが添えられている。
『二つの波を、一つの記録に戻せるか』
俺は、その問いを見て少し笑った。
「リーデル、あなたはもうただの案内役ではないですね」
彼は耳を赤くした。
「書いていると、疑問が増えます」
「よいことです」
「ただ、増えすぎて怖いです」
「それもよいことです」
カタリナが柔らかく言った。
「怖いところを見つけると、紙を置く場所がわかります」
リーデルは深く頷いた。
昼前、モーペルテュイが来た。
彼は今日、少し重い顔をしていた。右手には小さな黒い手帳。左手にはヴォルテールの手紙がある。どうやらあの文人は、俺だけでなく彼にも同じような冗談を送っていたらしい。
「円の楽譜、ですか」
モーペルテュイは椅子に座りながら言った。
「ヴォルテールらしい。軽口ですが、問題の置き方としては悪くない」
「楽譜にするには、横と縦を一つに戻す必要があります」
「そこで虚数ですか」
「はい。ただし、物の数ではありません」
「そこが重要ですね」
モーペルテュイは頷いた。
「存在しない数を、存在するもののように扱うと攻撃されるでしょう」
「ですから、回転を記述するための影の単位として扱いたいのです」
カタリナがその言葉を聞き、すぐに紙へ書いた。
『影の単位』。
リーデルが小さく繰り返す。
「影の単位……」
「比喩ですよ」
俺は先に言った。
「正式には、負の数の平方根に相当する記号的単位。ですが、その言い方だけでは人が離れていくので」
モーペルテュイが微笑む。
「ベルリンの作法に慣れてきましたね。比喩と正式文を一緒に置く」
「遠くから赤線で鍛えられています」
その時、机の端に置かれた茶色の封書が、わずかに音を立てた。
エリザからの書簡だった。
カタリナが封を開く。
赤字があった。
『存在しない、という語を乱用するな。数学的対象としての虚と、現実に物がないことを混同すれば、証明は崩壊します』
リーデルが天を仰いだ。
「本当に先回りされますね」
「はい」
カタリナは慣れた声で言った。
俺は赤字を読み、苦笑した。
「虚数を説明する前から怒られている」
「怒っているのではなく、分類しています」
カタリナが言った。
「あなたまでエリザみたいに」
「良いところですので」
モーペルテュイが低く笑った。
俺は紙の中央に、実数の線を描いた。
右へ正、左へ負。次に、そこから垂直に伸びる影の線を描いた。実線ではなく、カタリナが用意した薄墨で描く。実数の線とは違う種類の線だと、一目でわかるように。
「ここが、普通の数の線です」
リーデルが頷く。
「右へ行けば正、左へ行けば負」
「では、そこから直角に回る道を考える」
俺は中心から上へ伸びる影線を指した。
「これは、石を数えるための数ではありません。けれど、回転を記録するためには、この影の方向が役に立つ」
「つまり、数の平面ですか」
リーデルが言った。
「線ではなく、面」
「はい」
その言葉はよかった。
カタリナは実線を黒く、影線を灰色にして、二つが交わる点を大きく描いた。
「実の線と、影の線ですね」
「はい」
「では、円はこの面の上で回るのですか」
「そうです」
「横の波は実の線への影。縦の波は影の線への影」
「その通りです」
リーデルの顔が変わった。
「二つの波が、一枚の面に戻りました」
モーペルテュイが静かに言った。
「これが、円の楽譜か」
その時、部屋の空気が変わった。
実線と影線の交点に、黒い文字が浮かぶ。
【存在しないものを、線にするな】
校閲者だった。
カタリナの手が止まる。
リーデルが息を呑む。
モーペルテュイの表情も硬くなる。
「やはり来ましたね」
俺は言った。
「虚を、存在しないものとして消そうとしている」
エリザの赤字が、机の上で赤く残っている。
『存在しない、という語を乱用するな』
俺は羽ペンを取った。
『これは物の数ではない。回転を記録するための単位である』
黒い文字が揺れた。
完全には消えない。
カタリナが続けて大きく書く。
『石の数ではなく、向きを変えるための印』
リーデルが通常記録へ写す。
「物の数ではない。操作の単位」
モーペルテュイが頷く。
「承認する。実在しないのではなく、別の役割を持つ数だ」
黒い文字は少し薄れた。
だが、校閲者はさらに来た。
影の線そのものが白くなり始めた。灰色の線が紙から抜け、実線だけが残ろうとする。そうなれば、円はまた横と縦に裂かれ、回転を一つに戻せなくなる。
「影線です」
カタリナが言った。
「消えています」
「声で残します」
俺は即座に言った。
「実の線。影の線。直角に交わる。円はその面で回る」
カタリナが復唱する。
「実の線、影の線。直角に交わる。円はその面で回る」
リーデルが続ける。
「横の影は実の線へ。縦の影は影の線へ」
モーペルテュイが、重い声で加えた。
「この影の線は、実在の長さではなく、回転を記述するための学術的構成である」
影線の白化が止まった。
線は薄い。
だが、残った。
俺は息を吐いた。右目の奥が熱い。だが、頭の中の円は、いま確かに一つの面で回っている。
その時、扉が開いた。
入ってきたのはヴォルテールだった。
「失礼。円の楽譜を見せてもらえると聞いて、音楽より先に来てしまった」
相変わらず、現れるだけで部屋の空気が変わる。
彼は机の上の実線と影線を見た。
「なるほど。今度は存在しない線を引いている」
「存在しないのではありません」
エリザの手紙が、まるでこちらを見ている気がした。
「物の数ではないだけです」
ヴォルテールは楽しそうに目を細めた。
「石では数えられないが、回転は数えられる。よろしい。哲学者が喜び、神学者が怒りそうだ」
「怒る人は、こちらの意図に関係なく怒ります」
彼はカタリナの影線を見た。
ヴォルテールは満足げに頷く。
「しかし美しい。存在しないものに、役割を与える。まるで宮廷の詩人のようだ」
「それは褒めていますか」
「半分は」
「残り半分は」
「危険です」
リーデルが小声で言った。
ヴォルテールは笑った。
「若い書記までベルリンを覚えてきた」
彼は俺を見た。
「オイラー殿。存在しない数で世界を説明するのかね」
「存在しない数ではありません。回転を語るための影の単位です」
「影は、光がなければできない」
その言葉に、俺は少し黙った。
ヴォルテールは時々、冗談で急所を突く。
影の単位。
それは、実の線があって初めて意味を持つ。
実の世界を捨てるのではない。そこへ直角の影を足す。
サンクトペテルブルクで幾何に式を足したように。ベルリンで関数に言葉を足したように。
見えないから捨てるのではなく、役割を与えるのだ。
「では」
俺は言った。
「この影は、実の光を回転させるためにあります」
ヴォルテールは、しばらく俺を見た。
「すばらしい。詩としても悪くない」
「詩にしないでください」
カタリナが即座に紙を出した。
「比喩語、影。正式語、回転を表す虚の単位。比喩語、光。正式語、実の量。対応表を作ります」
ヴォルテールが声を上げて笑った。
「なんと。私の比喩まで捕縛された」
「逃がすと危険ですので」
カタリナの声は柔らかいが、本気だった。
その時、校閲者の黒い文字が最後にもう一度だけ濃くなった。
【虚は虚であり、数ではない】
俺は、机の上の面を見た。
実の線。影の線。
円の回転。
横の波。縦の波。
そして、その向こうに指数の変化がかすかに見え始めている。まだ言葉にはできない。だが、近い。円の回転と指数の増加が、同じ紙の上で呼び合っている。
「数ではないなら」
俺は静かに言った。
「数に加えるための新しい向きです」
黒い文字が揺れた。
モーペルテュイが息を呑む。
リーデルが急いで書き取る。
カタリナが大きく清書する。
新しい向き。
ヴォルテールが低く呟いた。
「片目の数学者が、数に新しい向きを与えた。これは、少し出来すぎているな」
「出来すぎたものは危険ですね」
俺が言うと、彼は笑った。
「その通り。だから美しい」
影の線は残った。
薄いが、消えない。
その日の夕方、机の上には新しい図ができていた。
実の線と影の線。その上を回る円。横の波と縦の波。
そして、まだ空白のまま残された場所。指数の変化を接続するための場所だ。
カタリナがその空白を指した。
「ここに、次の道が来るのですね」
「はい」
「では、空けておきます」
彼女は空白を消さなかった。
白い余白として残した。
次に何かが来るための場所。
俺は右目を閉じ、左目でその余白を見た。そこにはまだ何もない。だが、頭の中では、円の回転と指数の道が、互いへ近づいていた。
次に校閲者が狙うのは、きっとそこだ。
接続。
円と指数が、まだ出会っていない場所。




