第58話 円と波
ベルリンの朝は、円を描くには明るすぎた。
窓にかけた布越しでも、乾いた光は机の上の白紙を鋭く照らす。
右目にはその白が痛い。だが、カタリナが選んだ薄い灰色の紙なら、まだ見られた。
紙の上には大きな円がある。細い線ではない。太く、少し不格好な黒い円。中心から右へ一本。上へ一本。円周上には、小さな点が置かれている。
その点は、止まっていない。
俺の頭の中では、ゆっくり回っている。
バーゼル問題では、円周と直径の比を守った。
あの時、記号は剥がされ、俺たちは円を言葉で呼んだ。今、その円はただの値ではなく、動き始めている。
円周上の一点が回る。横から見れば、右へ行き、左へ戻る。縦から見れば、上がり、下がる。その影は、波になる。
「円は、また戻ってくるのですね」
カタリナが言った。
彼女は円の下に、横へ伸びる波の図を描いている。
円の点から、横方向の長さを取り出し、時間に沿って並べる。もう一枚には、縦方向の長さ。こちらも波になる。
彼女の線は慎重だった。以前の彼女なら、美しい図を描くことをまず考えただろう。今は違う。どの線が定義で、どの線が補助で、どの線が比喩かを分けて描いている。
「円は、逃げても戻ります」
俺は言った。
「周期ですね」
「はい。戻る規則です」
リーデルが、机の反対側で書類板を構えていた。
彼は円と波を見比べ、眉間に皺を寄せている。ベルリンの若い書記にとって、関数はようやく入口と出口の道として見えてきたところだ。
その道が今度は円を回り、波になる。混乱するのも当然だった。
「先生、これは関数なのですか。円なのですか。運動なのですか」
「全部です」
「困ります」
「私も昔は困りました。今も少し困っています」
リーデルは、なぜか少し安心した顔をした。
「では、私が困っても正常ですね」
「ええ。かなり正常です」
「かなり、ですね」
「正常です」
カタリナが小さく笑った。
机の端には、サンクトペテルブルクから届いた封書が置かれている。エリザの赤線書簡だ。今日はまだ開けていない。開ければ必ず刺される。だが、開けずに進めばもっと刺される。俺は諦めて封を切った。
赤字が見えた。
『円を関数として扱うなら、まず何を入力とし、何を出力とするかを明記しなさい。角を入れるのか、時間を入れるのか、弧の長さを入れるのか。曖昧な円は、ただの絵です』
俺は天井を見た。
「遠くからでも完璧に嫌なところを突いてくる」
リーデルが恐る恐る聞く。
「何と?」
「入力を決めろ、と」
「それは必要なことでは?」
「必要です」
「なら、どうして嫌がるのですか?」
「必要なことを的確に言われるのは、時に嫌なものなんです」
カタリナが柔らかく言った。
「エリザ様の赤線は、お薬のようですね。苦いですが、とても効く」
「薬より頻繁です」
リーデルは、赤字を通常記録へ写しながら言った。
「では、入力は何にしますか」
俺は円の中心から伸びる半径を指した。
「まずは角です。円の中心から見て、点がどれだけ回ったか。これを入力とします」
「出力は?」
「横の長さ。あるいは縦の長さ」
カタリナが、円の点から下へ線を下ろした。
「横の長さは、こちらですね。右へ行くほど大きく、左へ行くほど小さい」
「はい」
「縦の長さは、こちら。上なら大きく、下なら小さい」
「そうです」
リーデルがゆっくり書く。
入力、角。
出力、横の長さ。
別の関数、縦の長さ。
「つまり、円周上の一点を、横から見る関数と、縦から見る関数がある」
「はい。そのとおりです」
俺は頷いた。
「それが、三角関数の入口です」
「三角なのに、円なのですか」
リーデルが言う。
「困ります」
「歴史的には、三角形から来ています。でも、円で見ると動きが見えやすい」
「名前が過去を引きずるのですね」
「残念ですが、数学の歴史にはよくあります」
カタリナが、円の右端から始まる波を描いた。
点が右端にある時、横の長さは最大。上へ回るにつれて横の長さは減り、上端ではゼロ。左端では最小。下を回って、また右端へ戻る。波が生まれる。
「これは、横の影ですね」
「はい」
「では、縦の影は、少し遅れて始まる波になりますか」
「そうです。そのとおり」
俺は驚いて彼女を見た。
カタリナは当然のように、もう一つの波を描き始めていた。横の波と縦の波。形は似ている。だが、山と谷の位置がずれている。
「円の点は一つなのに、影は二つ」
リーデルが呟いた。
「同じ動きを、別の向きから見たものです」
俺は言った。
「円も、波も、別々ではない。同じ動きを、違う窓から見ている」
その瞬間、円の図の上に黒い文字が浮かんだ。
【窓を入れ替えよ】
カタリナが息を呑む。
「ラベルです」
彼女の指が、横の波の名前へ向かう。横の長さ、と書いた札が薄くなり、縦の波の札と入れ替わりかけている。円の横の影と縦の影が、紙の上でねじれるように場所を変えようとしていた。
リーデルが青ざめる。
「横と縦が逆になります」
「なら、定義を固定します」
俺はすぐに言った。
「円の中心から右向きに測る長さを、横の関数とする。円の中心から上向きに測る長さを、縦の関数とする」
リーデルが写す。
「右向き、横。上向き、縦」
カタリナが、円の右側に太い矢印を描く。
「こちらが横です。右へ向かう線。こちらが縦です。上へ向かう線」
彼女は矢印の根元に、小さな触れる印をつけた。もし文字が消えても、線の場所と押し跡でわかるように。
エリザの書簡が、机の上でわずかに震えた。赤字の追伸が見える。
『名称より定義位置を優先しなさい。名が消えても、どの長さを測るかが残れば復元できます』
「エリザ様、また先に」
リーデルが唸るように言った。
「慣れます」
カタリナが言った。
「慣れたくないような」
「でも、助かります」
「はい」
黒い入れ替えは少し止まった。
だが、校閲者はまだ引かない。
今度は、波の山と谷が白く揺れる。横の波の山が、縦の波の山と重なりかける。ずれが消えようとしている。
「位相のずれです」
俺は言った。
リーデルが聞き返す。
「位相?」
「まだ言葉としては難しいですね。要するに、波の山の位置のずれです」
カタリナが波の下に小さな鐘の絵を描いた。
「同じ歌でも、歌い出しが少し違う、ということでしょうか」
「良い比喩です」
「では、横の波と縦の波は、同じ円から出た二つの歌。歌い出しがずれている」
リーデルが興奮したように書いた。
「同じ円から出た二つの歌」
「比喩です」
俺は言った。
「正式には、同じ円運動から出る二つの関数」
「はい。比喩と正式文、両方残します」
彼も慣れてきた。
カタリナが、波の山に小さな印をつけた。横の山。縦の山。その位置の違いを、文字だけでなく印で残す。
白化が止まる。
波は戻った。
横と縦は入れ替わらない。
俺は息を吐いた。
右目の奥が少し熱い。円の線を追いすぎたらしい。カタリナがすぐに気づいた。
「休まれますか」
「あと少し」
「そのあと少しを、先に定義してください」
「エリザみたいですね」
「はい。良いところですので、真似します」
リーデルが笑いをこらえていた。
俺は素直に椅子へ座り直した。
カタリナが円の図を壁へ掛け、俺の右目に近すぎない距離へ置く。遠すぎると見えない。近すぎると光る。その中間を、彼女はもう身体で覚えている。
「円周と直径の比」
俺は呟いた。
「また、そこへ戻るのですね」
カタリナが言った。
「はい。あの時は、円の値を守りました。今は、円の動きを関数として見る」
「円は、値でもあり、動きでもあり、波でもある」
リーデルが言う。
「そして、記号は危険」
「それもです」
机の上で、過去の紙がいくつも重なって見えた。
バーゼル問題の草稿。
πを剥がされた記録。
円周と直径の比という長い言葉。
Mechanicaの運動表。
そして今、円と波。
数学は戻ってくる。ただし、同じ顔ではない。以前は答えだった円が、今は関数になっている。なるほど、ベルリンでは体系が必要だ。
その時、窓の外から馬車の音がした。リーデルが外を見た。
「サロンからの使いです」
「またですか」
「おそらく、ヴォルテール殿からです」
予感通り、届いたのは短い手紙だった。
『オイラー殿。
円が歌うなら、ぜひ一度その楽譜を見たいものです。
V. 』
俺は頭を抱えた。
「盗み聞きされていますか」
リーデルが苦笑した。
「ベルリンでは、比喩は噂より速く走るんです」
カタリナは手紙を見て、静かに言った。
「歌、という比喩も記録した方がよさそうですね」
「広がる前に柵を作る」
「はい」
彼女は新しい対応表を作った。
比喩語、歌。
正式語、同じ円運動から生じる二つの周期関数。
リーデルが目を丸くする。
「周期関数」
「まだ早いですが」
俺は言った。
「戻ってくる関数の名前です。一定の間隔で、同じ値を繰り返す」
「円の点が一周して戻るように」
「はい」
カタリナが円の終点と始点を同じ場所に描き、そこへ小さな輪をつけた。
「戻ってくる道」
「それが周期です」
エリザの書簡の端が、また揺れた。
赤字が一行増えているように見えた。
『周期を定義するなら、どの間隔で戻るかを明記しなさい』
俺は思わず笑った。
「本当に、どこまで先回りするんだ」
カタリナが微笑んだ。
「届いていますね」
「ええ。遠くからでも、よく届く」
ベルリンの乾いた光の中で、円と波の図は壁に残った。
横の影。
縦の影。
同じ円から生まれる二つの波。
校閲者は入れ替えようとした。ずらそうとした。だが、定義と図と声と遠隔赤線が、それをつなぎ止めた。
俺は、右目を少し休ませながら、壁の大きな円を左目で見た。
円は、もうただの円ではなかった。
それは、関数として歌い始めていた。




