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第57話 言葉の男


ヴォルテールに会う前から、彼の声は部屋に入ってきていた。


サロンの扉の向こうで、細く、明るく、よく研がれた刃物のような笑いが起きる。

その笑いの中心にいる人物が誰かは、見なくてもわかった。

ベルリンの空気は乾いている。けれど、その部屋の中だけは、香水と蝋燭と温めた葡萄酒の匂いが濃く、言葉の熱で少し湿っていた。宮廷の広間ほど眩しくはないが、別の意味で目に痛い場所だった。


リーデルは扉の手前で、いつもより小声になった。

「オイラー先生、ここでは反論も笑いに包まれます。包まれたまま刺されることがあります」


「それは助言ですか、警告ですか」


「両方です」


「ベルリンは便利な両方が多いですね」


「はい。それも、たいてい危険なやつです」


カタリナは俺の右側に立っていた。

サロンの光は宮廷の広間より柔らかいが、燭台が多い。小さな火がいくつも揺れると、右目では光が白い輪になって広がる。

彼女はそれに気づき、自然に俺を壁際の少し暗い位置へ誘導した。誰にも目立たないように。それでいて、俺が話から外れすぎない場所へ。


「ここなら、火が直接入りません」


「ありがとうございます」


「声は届きます」


「むしろ届きすぎそうです」


部屋に入ると、すぐにそれがわかった。


ヴォルテールは人の輪の中央にいた。

細い身体、よく動く目、薄い唇。年齢を感じさせる顔なのに、言葉だけが若く、速い。

彼は誰かに向かって話しているのではない。部屋全体を相手にしていた。

言葉を投げるたび、人々が笑い、頷き、少し怯える。まるで、彼の一言ひとことが見えない糸となって、サロンの椅子や扇やグラスを動かしているようだった。


リーデルが俺たちを紹介した。

「ヴォルテール殿。レオンハルト・オイラー先生と、オイラー夫人です」


ヴォルテールは振り返り、俺を見た。そして、俺の右目に視線を置きすぎない程度に置いた。その加減がうまい。宮廷人の無礼ではなく、文人の観察だった。


「おお、オイラー殿。ついにお会いできた。ベルリンへようこそ。ここでは数式も、多少は身なりを整える必要がありますよ」


「到着した日から、何度もそう言われています」


「それはよい都へ来た証拠です。野蛮な場所では、真理は裸で寒がるだけですから」


「真理に服を着せると、嘘と見分けがつきにくくなりませんか?」


ヴォルテールの目がきらりとした。


「すばらしい。数学者にしては、返事に靴を履かせている」


周囲が笑った。


俺は笑われたのか、褒められたのか、一瞬判断に迷った。


カタリナは静かに見ている。彼女は笑わなかった。ただ、ヴォルテールの言葉がどこへ刺さるかを見ていた。


「さて」

ヴォルテールは近くの椅子に腰を下ろし、手にしたグラスを軽く回した。

「あなたは最近、数に新しい礼儀を教えているそうですね。数を入れると別の数が出る。その道筋に名前をつける。関数、でしたか」


「はい」


「関数とは、数の運命ですか」


「いいえ」


「では、数の性格?」


「それも違います」


「数の宮廷作法?」


周囲が笑う。


俺は少し考えた。


「数の習慣、なら少し近いかもしれません」


ヴォルテールの笑みが止まった。


「ほう」


「同じ数を入れれば、同じ数が出る。規則が変わらなければ、振る舞いも変わらない。だから、運命ではありません。命令でもありません。ただ、その規則に従う習慣です」


リーデルが隅で慌てて書き取っている。


カタリナも、小さな帳面を開いた。


ヴォルテールは、グラスを机へ置いた。


「数の習慣。おもしろい。では、人間にも関数はありますか。同じ侮辱を入れれば、同じ怒りが出る。違う褒め言葉を入れれば、同じ媚びが出る」


「人間は、そこまで安定していません」


「残念。私は宮廷人の関数表を作りたかった」


「例外だらけになるでしょう」


「だから文学があるのです」


彼はそう言って笑った。


この男は危険だ。


数学を馬鹿にしているのではない。理解しようとしているわけでもない。

ただ、言葉に乗せた瞬間に、こちらの概念の別の顔を引きずり出す。

エリザの赤線とは違う。エリザは不備を切る。

ヴォルテールは比喩の服を着せて、こちらを踊らせるのだ。


「では、オイラー殿」


ヴォルテールは声を少し落とした。


「数は嘘をつきますか」


「数そのものは」


「嘘をつかない、と?」


俺は、サンクトペテルブルクの符丁文書を思い出した。素数表を鍵にして、給金停止の命令を隠した宮廷文書。数はそこにあった。嘘をついたのは数ではない。だが、数は嘘の服にもなった。


「嘘をつくのは、数ではありません。嘘をつくのはいつも、数を持ち出す人間です」


ヴォルテールは満足そうに頷いた。


「それです。私が聞きたかったのは、その答えです」


「先に答えを持って、待っていたのでは?」


「文人は、答えより返事の表情を見ます」


「性格が悪い」


「褒め言葉です」


「褒めていません」


「では、私がそう受け取ります」


また笑いが起きた。


その時、カタリナが小さく息を呑んだ。


彼女の帳面の上で、文字が黒く滲んでいた。


『数の習慣』


さっき俺が言った言葉だ。その習慣という部分だけが、黒く濃くなっている。さらに、その横に校閲者の文字が浮かんだ。


【習慣は運命となる】


カタリナはすぐに帳面を机へ置き、俺に見せた。


笑い声が少し遠のく。


ヴォルテールも、笑みを消して覗き込んだ。


「これは?」


「よくあることです」


「よくある、の範囲が広すぎませんか。これは怪異だ」


リーデルが青ざめながら記録板を構えた。


「関数の比喩、習慣、が運命へずらされています」


「運命ではありません」


俺は言った。


「関数は、規則です」


ヴォルテールが興味深そうに目を細める。


「君は、運命という言葉を嫌いますね」


「宮廷が、それをよく使いたがるので」


「なるほど。ロシアの匂いがする」


鋭い。


俺は返事をしなかった。


カタリナが柔らかい声で書き添える。

「習慣という言葉は比喩。正式には、同じ入力に同じ出力を定める規則」


リーデルも写す。

「比喩語、習慣。正式語、対応規則」


ヴォルテールはその様子を見ていた。

「あなた方は、言葉の周りに柵を作るのですね」


「柵がないと、言葉が連れ去られます」

カタリナが言った。


ヴォルテールは、彼女を見た。

「オイラー夫人、あなたは数学者よりも言葉に用心深い」


「紙の上では、言葉も線も同じくらいの重みがありますから」


「名言です。私が盗みたい」


「盗まれる前に記録します」

カタリナは本当に書いた。


ヴォルテールは声を上げて笑った。

「素晴らしい。ベルリンへ来た数学者は、妻に守られているだけでなく、妻に引用を封じられている」


場に笑いが戻る。


だが、帳面の黒い文字はまだ消えない。


【習慣は運命となる】


俺は、その横に書いた。


『規則は運命ではない。入力を変えれば、出力は変わる』


ヴォルテールがそれを見て、軽く指を鳴らした。


「それは文学にも使えますね。人間も、与えられるものが変われば、返すものが変わる」


「人間は関数ほど素直ではありません」


「だから面白い」


「だから危険です」


「危険なものほど、よく売れる」


「売らないでください」


「努力します」


「努力では不十分です」

カタリナが小さく言った。


その言い方がエリザに似ていて、俺は思わず笑った。ヴォルテールは、そのやり取りを聞いて楽しそうに目を細めた。


「ベルリンは、あなた方を退屈させないでしょう」


「すでに疲れています」


「疲労は知性の税です」


「高すぎます」


「王に相談してみては」


「税を増やされそうです」


ヴォルテールはまた笑った。


帳面の黒い文字は、そこでようやく薄れ始めた。習慣という比喩は、運命へ奪われず、対応規則という柵に戻った。


サロンの空気は再び動き出した。別の客が音楽の話を始め、誰かがフランスの芝居について意見を述べる。言葉があちらこちらで火花を散らす。俺はその場に立ったまま、関数という概念がいかに危うい服を着せられやすいかを思った。


運命。習慣。性格。宮廷作法。


どれも似ている。


だが、どれもそのままでは違う。


リーデルが近づいてきた。

「先生、今日の記録は難しいです。どこまでが比喩で、どこからが定義なのか」


「そこを分けるのが、あなたの仕事です」


「厳しいですね」


「ベルリンの書記には、そこまで期待します」


彼は少しだけ笑った。

「そう言われると、逃げられませんね」


カタリナが帳面を閉じた。

「今日の分は、家で整理します。比喩語と正式語の対応表を作りましょう」


「また表ですか」


俺が言うと、彼女は頷いた。


「はい。言葉にも目録が必要です」


その時、ヴォルテールが去り際にこちらへ戻ってきた。


「オイラー殿。最後に一つ」


「何でしょう?」


「君の関数は、数の習慣だと言った。私はその言い方が気に入った」


「喜んで良いのでしょうか?」


「だが、美しい比喩は、ときに醜い誤解を連れてくる。気をつけたまえ」

彼は笑わずに言った。

「美しい式も同じだ。人は美しいものに、自分の望む意味を勝手に読む」


そう言って、彼は別の会話の輪へ戻っていった。


俺はその背を見送った。


言葉の男。


茶化し、笑わせ、刺し、そして去り際に本質だけを置いていく。


カタリナが静かに言った。

「今の言葉も、記録します」


「ええ。お願いします」


「美しいものほど、誤解される」


「……はい」


サロンを出る頃には、外は夜になっていた。

ベルリンの夜は乾いていて、星が硬く見えた。右目では星が白い滲みになる。左目では、点として見える。俺はしばらく空を見上げた。


数は運命ではない。


関数は習慣ではない。


だが、比喩は橋になる。


そして橋は、渡る者によって別の意味を持つ。


ベルリンでは、数式だけでなく、言葉まで守らなければならないのだと、俺はようやく理解し始めていた。


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