第56話 指数と対数の鏡
関数名簿が仮採用された翌朝、ベルリンの空は薄く晴れていた。
窓にかけた布を通して、乾いた光が机の上へ落ちる。
白すぎない紙、太い線、大きな字。カタリナが整えた仕事部屋は、もう旅先の仮住まいではなく、ベルリンで数学を残すための小さな工房になりつつあった。
壁には関数の対応図が掛けられている。入口、道、出口。規則A、規則B。fとg。消えかけた記号たちは、説明と図と例に囲まれて、ようやく落ち着いた顔をしていた。
その机の中央に、今日は二つの表が置かれていた。
一つは、数が増えていく表。
一、二、四、八、十六、三十二。
もう一つは、その増え方を戻る表。
一なら零。二なら一。四なら二。八なら三。十六なら四。
リーデルはそれを見て、困ったように眉を寄せていた。
「オイラー先生、これは数の階段ですか」
「はい、階段と言ってもよいです」
「こちらは上る表で、こちらは下りる表?」
「かなり近いです」
「かなり」
彼はすぐに言い直した。
「近いのですね」
カタリナが、小さく笑った。
「リーデル様も、その言い方を気になさるようになりましたね」
「この家では、言葉がすぐ記録されますので」
「よい心がけです」
リーデルは、少し誇らしげに背筋を伸ばした。
そこへモーペルテュイが来た。
ベルリン・アカデミーの長は、朝の光を背にして部屋へ入ると、机の上の二つの表を一目で見た。表情にわずかな興味が浮かぶ。
彼は宮廷人の服を着ていても、紙を見る時だけは学者の顔になる。
「指数と対数ですね」
「はい」
俺は答えた。
「関数の具体例として扱います」
「増やす規則と、戻る規則」
モーペルテュイは表を指した。
「これは、よい入口です。関数がただの抽象語ではないと示せる」
カタリナは机の横に鏡を置いた。小さな手鏡だ。銀の縁に、旅の途中でついた細い傷がある。彼女はその前に、増える表と戻る表を向かい合わせた。
「指数が進む道なら、対数は戻る道ですか」
「そうです」
「では、鏡のように描けるかもしれません」
彼女は紙に、左から右へ進む矢印を描いた。二を何度も掛けていく道。次に、右から左へ戻る矢印を描く。その数が、二を何回掛けたものかを数える道。
「こちらが進む道。こちらが帰る道」
リーデルがその図を見て、目を輝かせる。
「これはわかります。行きの規則と、帰りの規則です」
「逆対応です」
エリザならそう言うだろう、と思った瞬間、机の端に置いていた封書が目に入った。
茶色の封蝋。
サンクトペテルブルクからの赤線書簡。
まだ開けていなかった。ベルリンへ来てから、エリザの手紙は時折、こちらの議論より先に席に着いているような気がする。
カタリナが封を切った。
赤字が現れる。
『戻る規則が常に存在するとは限りません。逆対応が成立する条件を明示しなさい』
リーデルが息を呑んだ。
「また、先に」
「はい」
俺は苦笑した。
「遠くからでも先に刺してきます」
モーペルテュイは楽しげに赤字を見た。
「このベルヌーイ嬢は、一度お会いしたいものです」
「会うと、かなり刺されますよ」
「良い批評家は、少し痛いものです」
カタリナが赤字を大きく写し、鏡の図の下に添えた。
戻る規則には、条件がある。
「たとえば」
俺は言った。
「二を何回掛けたか、という道では、二、四、八、十六、それぞれに戻る数が決まります。二なら一回。四なら二回。八なら三回」
リーデルが頷く。
「では、三は?」
「二を何回か掛けて、ぴったり三にはなりません」
「それでも戻れますか」
「厳密に広げれば考えられますが、入口としては、まず二の冪の列で見るのが安全です」
モーペルテュイが言った。
「つまり、帰り道を作るには、まず行き道がどの範囲を通るのかを知らねばならない」
「はい」
「関数の道には、通る場所と通らない場所がある」
「その通りです」
リーデルが慌てて記録した。
通る場所。
通らない場所。
帰り道の条件。
カタリナは鏡の図へ、薄い灰色の部分を描き足した。行きの道が届かない場所。そこには、帰り道がまだ描かれていない。
「こちらは、まだ鏡に映っていない場所ですね」
「良い図です」
俺は頷いた。
モーペルテュイも見入っている。
「オイラー夫人の図は、数学の礼儀を知っていますね。見せすぎず、隠しすぎない」
カタリナは少し驚いたように瞬いた。
「ありがとうございます。父の工房では、影を描きすぎると形が潰れると言われました」
「数学も同じです」
モーペルテュイは静かに言った。
「影を扱う学問ですから」
その時、鏡の図がかすかに白く光った。
カタリナがすぐに紙を押さえる。
「校閲者です。戻る矢印を狙っています」
指数の道から対数の道へ戻る矢印が、白く抜け始めていた。進む矢印は残っている。帰る矢印だけが消えていく。
リーデルの顔が青ざめる。
「帰り道を消している」
「指数と対数の逆対応を切りに来ています」
俺は言った。
モーペルテュイが机へ身を寄せた。
「行き道だけが残れば、増える表はただの増加です。戻る道があるから、計算の道具になる」
「はい」
俺は羽ペンを取った。
『指数は、数を掛け重ねて進む道』
『対数は、その道を何歩進んだかを戻す道』
白化は少し止まった。
だが、戻る矢印はまだ薄い。
カタリナが、鏡の図だけでなく、表を読み上げた。
「一は零歩。二は一歩。四は二歩。八は三歩。十六は四歩」
リーデルが続ける。
「同じ行き道に対して、戻る歩数は一つ」
モーペルテュイが言った。
「増える数と、歩数の対応」
俺は書き足す。
『同じ到達点には、同じ歩数』
エリザの書簡の赤字が、まるで満足したように見えた。
戻る矢印が、少し濃くなる。
その時、窓の外で馬車が通り過ぎ、乾いた石畳を叩く音がした。
ベルリンの街は、こちらの議論など知らずに動いている。だが、その音もまた、進む道と戻る道を持っているように思えた。
車輪の回転、距離、速度、時間。運動も、関数として見れば道になる。
リーデルがふと尋ねた。
「先生、指数と対数は、王の宮廷にも説明できますか」
「どうでしょう」
「進む道と帰る道なら、陛下にも通じるかもしれません。軍なら、行軍と帰還。音楽なら、主題と変奏。宮廷なら、命令と報告」
モーペルテュイが笑った。
「リーデル君、君はベルリンの書記らしくなってきたね」
「褒め言葉でしょうか」
「半分は」
「残り半分は」
「危険です。宮廷の比喩は、すぐ政治になる」
その言葉で、俺はアンナやヴォルコフを思い出した。
数が政治に使われる危険は、ロシアに置いてきたわけではない。ベルリンにも別の形である。
フリードリヒの宮廷は、言葉と機知を愛する。だからこそ、数学の比喩もすぐ飾りとして奪われるだろう。
「比喩には注記をつけます」
カタリナが言った。
「進む道、戻る道。これは理解のための絵であり、正式には指数関数と対数関数の逆対応、と」
「完璧にエリザ化している」
俺が言うと、カタリナは少し困ったように笑った。
「良いところは、学びたいです」
「ええ、非常に良いと思います」
モーペルテュイが言った。
「ベルリンには、こうした記録作法も必要になりそうですね」
その時、机の上に置いていた関数名簿が黒く滲んだ。
規則名、指数。
規則名、対数。
その間に書いた逆対応という語が、薄くなる。
校閲者は、今度は矢印だけでなく、名簿の接続語を狙ってきた。
リーデルがすぐに反応した。
「関数名簿の対応欄です。指数と対数を互いに結ぶ欄が消えています」
「声で読んで防ぎます」
カタリナが言った。
「指数、進む規則。対数、戻る規則。互いに逆の対応」
リーデルが写す。
「名簿欄、逆対応。補助説明、行き道と帰り道」
モーペルテュイが証言する。
「この対応を、私は見ました」
俺も書く。
『指数と対数は、同じ道を反対から見る関数である』
逆対応の文字が、完全ではないが止まった。
関数名簿に、二つの規則が並んだ。
指数。対数。
行き道。帰り道。
鏡。
その配置が残ると、部屋の空気が少し和らいだ。リーデルは額の汗を拭い、カタリナは図の端を整えた。モーペルテュイは、しばらく鏡の図を眺めていた。
「オイラー殿」
「はい」
「関数という考えは、危険なほど便利です」
「わかっています」
「個々の表を越えて、規則そのものを扱える。指数と対数を、ただの数表ではなく、互いに向き合う関数として見る。これは、解析の地図に大きな道を一本引くことになる」
「はい」
「その道は、やがて円にも届くでしょう」
円。
その言葉に、胸の奥が小さく反応した。
バーゼル問題。
円周と直径の比。
あの時、πの印は危うかった。孤立していたからだ。
だが、今もなお、円は俺の数学の中心に潜んでいる。
「円は、また後です」
俺は言った。
「今は、指数と対数を固めます」
「よろしい。焦らない方がよい」
モーペルテュイは立ち上がった。
「しかし、ベルリンは焦らせます。陛下も、サロンも、成果を急がせる。お気をつけなさい」
そう言って彼は帰っていった。
夕方、リーデルも名簿を持ってアカデミーへ戻った。仕事部屋には、俺とカタリナだけが残る。窓の外は薄暗く、鏡の表面に蝋燭の火が映っていた。
カタリナは鏡の図をしまう前に、俺を見た。
「右目は、お疲れではありませんか」
「少し」
「では、今日はここまでです」
「あと一行だけ」
「その一行は、明日も逃げません」
「最近、厳しくなりましたね」
「必要ですので」
彼女は静かに笑った。
俺は、鏡に映る自分の顔を見た。右目のあたりは、光が滲んでぼやけている。左目はまだはっきりしている。鏡の中の俺は、どこか知らない数学者のようだった。
行き道と帰り道。
指数と対数。
見える目と、見えにくい目。
進んだものが、同じ道を戻れるとは限らない。
けれど、戻る道を定義できるなら、世界は少し広くなる。
机の上で、エリザの書簡の最後の赤字が目に入った。
『戻る規則がある時、それは贈り物です。乱用しないこと』
俺は笑った。
遠くからでも、彼女は最後まで釘を刺してくる。
それでも、その赤字があるかぎり、サンクトペテルブルクへの帰り道も、まだ完全には消えていない気がした。




