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第55話 消えるf


関数の定義を置いた翌朝、ベルリンの空は薄い灰色だった。


窓にかけた布越しの光は柔らかく、サンクトペテルブルクの雪明かりほど湿っていない。それでも右目で見る紙の端は白く滲み、細い線は相変わらず信用できなかった。机の上には、昨日カタリナが描いた入口と出口の図がある。数を入れる。道を通る。別の数が出る。その道の名を、関数と呼ぶ。


右目では入口の文字がぼやける。


だが、道の太い線は見える。


それが少しだけ救いだった。


リーデルは朝早くから来ていた。ベルリンの書記らしく、もうきちんとした服を着ている。手には新しい写し。昨日の関数定義を、アカデミー用の文書体に整えたものだった。


「オイラー先生、こちらが清書案です。関数とは、ある量から別の量を定める規則である。補助説明として、入口、規則、出口の図を添えます」


「かなり整っていますね」


「かなり、でよろしいのですか」


「ベルリンの書記までその言い方を覚えないでください」


リーデルは真面目に頷いた。

「失礼しました。では、整っていますか」


「整っています」


カタリナが机の上の清書を見た。


「文字の間隔がよいですね。右目でも、単語の切れ目がわかりやすいです」


「それを意識しました」


リーデルは少し照れたように言った。


「大きすぎる字はアカデミー文書としては珍しいですが、読めない記録は記録ではない、とオイラー夫人がおっしゃっていましたので」


「言いました」

カタリナは穏やかに頷く。

「そして、それは本当です」


そのとき、扉を叩く音がした。


リーデルが顔を上げる。カタリナが紙の端を押さえる。俺は一瞬、また宮廷の使者かと思ったが、届けられたのは一通の封書だった。茶色の封蝋。遠くサンクトペテルブルクからのもの。


エリザだ。


封を切る前から、赤線の気配がした。


カタリナが封書を受け取り、紙質を確かめる。


「いつもの茶色の封蝋です。折り方も同じ。途中で開けられた跡はありません」


「開けましょう」


封を切ると、やはり最初から赤字だった。


『関数という概念を定義したなら、次は記号を慎重に扱いなさい。便利な印は、しばしば時代より早く走ります。πの失敗を忘れないこと』


俺は額を押さえた。


「遠くから古傷を刺してくる」


リーデルが恐る恐る聞く。


「πの失敗、ですか」


「便利な記号を便利なまま使いすぎたのです」

カタリナが説明した。

「印だけが時代から浮き、消されかけました」


「それで、関数の記号も同じ危険があると」


「はい」


リーデルはすぐに清書案を見直した。

「じつは、私も記号を考えていました。長い表現を毎回書くと、記録が重くなりますので」


彼は別紙を出した。


そこには、小さくこう書かれていた。


f(x)


俺は黙った。


来た。


便利な印。


未来では当たり前のように使う関数記法。だが、この時代ではまだ慎重に扱うべきものだ。しかも、校閲者は記号の浮き上がりを見逃さない。


「これは」


リーデルが少し緊張した声で言った。


「規則に名前をつけ、その規則に入れる数を括弧の中に置く、という記法です。つまり、fという規則にxを入れる。そう読むのはどうかと」


「発想はよいです」


俺は言った。


「ですが、危険です」


「やはり」


「便利すぎます」


カタリナが、リーデルの紙を覗き込んだ。

「fの文字が、規則の名前なのですね。括弧の中が入口の数」


「はい」


リーデルは頷いた。


「入口と道と出口の図を、短く書けると思ったのです」


「とても便利です」

カタリナは柔らかく言った。

「だから、狙われます」


その言葉が終わる前に、紙が白く光った。


f(x)のうち、fだけが薄れていく。


括弧とxは残っている。


だが、規則の名前が消える。


リーデルの顔が青ざめた。

「私が書いたから」


「違います」

俺は即座に言った。

「あなたが急所を捉えたから、狙われただけです」


エリザの手紙が机の上で小さく震えた。赤字の下に、新しい黒い文字が浮かんでいる。


【規則に名を与えるな】


昨日と同じ言葉。


だが、今日の攻撃は、もっと直接的だった。

fを消せば、規則はただの括弧つきのxに戻る。入口は残る。だが、どの道を通るのかが失われる。


カタリナがすぐに記録する。

「関数記号案、fのみ白化。括弧とxは残存。攻撃対象は、規則名」


リーデルは震える指で書類板を構えた。

「補助記録、ヨハン・リーデル。白化を確認」


「ありがとうございます」

カタリナが頷く。

「名が消えそうな時は、見た人の名も支えになります」


リーデルは、自分の名を書く手に力を込めた。


俺は白く抜けるfを見つめた。

「まず、記号と概念を分けます」


「はい」

カタリナが新しい紙を出す。


俺はそこに書いた。


規則そのもの。規則の名。規則に入れる数。規則から出る数。


「fは規則そのものではありません」


俺は言った。


「fは、規則につけた名前です」


リーデルが頷く。


「つまり、fが消えても、規則が消えるとは限らない」


「そうです」


「ですが、名前が消えると持ち運べない」


「はい」


カタリナが、入口と出口の図を描き直した。道の上に、規則Aと書く。別の道に、規則Bと書く。さらにその横に、fという印を小さく添えた。

「まずは、規則A、規則Bとして残しましょう。fはその別名として置きます」


「よいです」

俺は頷いた。

「記号だけに頼らない」


エリザの書簡の赤字が、また目に入る。


『記号と定義を混同するな』


まったく、遠くからでも正確に刺してくる。支えてくれる。


リーデルが紙を見つめた。

「では、アカデミー文書では、最初に規則名を言葉で書き、その後に短い記号を添える、という形にしましょうか」


「それが安全です」


「たとえば、規則A。入れた数を二乗する規則。以後、必要に応じてfと略す」


「はい」

カタリナが柔らかく補う。

「そして、もしfが消えても、規則Aの説明が残ります」


リーデルはほっとしたように息を吐いた。


「記号を消されても、言葉で戻せる」


「言葉の方が消されることがあります」

俺は言った。

「だから図も必要です」


カタリナは頷き、道の図をもう一枚描いた。


入口、x。


道、入れた数を二乗する。


出口、xを二回掛けた数。


その道の上に、規則A。


さらに小さく、f。


紙面は少し賑やかになったが、意味は強くなった。


白くなっていたfが、わずかに濃さを取り戻した。


完全ではない。


だが、消えない。


リーデルが目を輝かせた。

「戻った」


「支えが増えたからです」

カタリナが言った。


「名前、説明、図、例。四つで支えると、少し強くなります」


その時、エリザの書簡の末尾に、別の赤字が見えた。


『記号を採用するなら、同じ記号を複数の規則に使わないこと。規則名の衝突は、概念の混線を招きます』


「次は名前の衝突ですか」


俺が言うと、リーデルが慌てて書類板をめくった。


「実は、すでに」


「すでに?」


「別の書記が、別の規則にもfを使っていました。フランス語のfonctionの頭文字だろう、と。誰も深く考えずに」


「それは危険です」

カタリナが言った。

「二つの道に、同じ名前札がついてしまいます」


リーデルは青くなった。

「すぐ回収します」


「その前に、記録します」

俺は言った。

「規則名は、一つの規則に一つ。別の規則には別の名を与える」


机の上に、また黒い文字が浮かんだ。


【名が増えれば、混乱も増える】


校閲者だった。


リーデルが唇を噛む。


「確かに、名前を増やせば書記が混乱します」


「だから管理表を作ります」


カタリナが即答した。


「規則名、説明、記号、例、保管場所。この五つを表にします」


「関数名簿ですね」

リーデルが言った。

「名前を管理する帳面」


「はい」


彼の顔に、書記としての熱が戻ってきた。


「それならベルリン・アカデミーでも扱えます。人の名簿と同じです。規則にも名簿を作る」


「人と同じように」


カタリナが言った。


「名がずれないように」


俺は、これまで守ってきた名前を思い出した。


Leonhard Euler。


Daniel Bernoulli。


ElizaのE。


Alexei Vorontsov。


ハインリヒ・クラウゼ。


マティアス・クライン。


名は、役割と結びつくと残る。


関数も同じだ。


「関数名簿を作りましょう」


俺は言った。


「規則A、二乗する規則。記号f。入力x。出力xを二回掛けたもの」


リーデルが書く。


「規則B、二倍する規則。記号g。入力x。出力二倍されたx」


カタリナが別紙に図を描く。


二本の道。


一つは二乗へ。


一つは二倍へ。


同じ入口から出ても、道が違えば出口が違う。


そして、道には別の名前がある。


エリザの書簡が、また赤く目に入る。


『規則の名と規則の内容を常に併記せよ。省略は敵です』


「省略は敵」

リーデルが小さく読んだ。

「この方、書記にも厳しいですね」


「すべてに厳しいです」

俺は答えた。


黒い文字、名が増えれば、混乱も増える、は薄れた。


代わりに、関数名簿の紙が濃く残る。


規則A。規則B。


f。 g。


説明。例。


関数はただの記号ではなく、名前を持つ道になった。


その日の午後、リーデルは関数名簿を抱えてアカデミーへ走っていった。


俺とカタリナは、仕事部屋に残った。


机の上には、白化しかけたfの紙がある。消えかけた文字が、まだ少し薄いまま残っている。


「便利な印は、やはり怖いですね」


カタリナが言った。


「はい」


「でも、名前がないと持ち運べません」


「そうです」


「人も、規則も、同じなのですね」


「似ています」


彼女は小さく頷いた。


「なら、名前だけでなく、役割も一緒に残します」


その言葉を聞いた時、ベルリンへ持ってきたものの意味が少し変わった気がした。


エリザとアレクセイは遠くにいる。


だが、赤線と数表は届く。


関数も同じだ。


記号は小さい。だが、説明と図と例を持たせれば、遠くへ届く。



その夜、アカデミーからリーデルの短い報告が届いた。


『関数名簿、仮採用。書記室に混乱あり。ただし有効』


その下に、彼らしい小さな追伸があった。


『fは、消えませんでした』


俺はその紙を見て、少しだけ笑った。


関数の道に、最初の名前札が立った。


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