第54話 関数とは何か
関数という語は、ベルリンの机の上に置かれたばかりの小さな橋だった。
その橋はまだ細い。渡るための欄干もなく、足元の板も頼りない。
だが、一度そこに置かれると、机の上の紙束が急に違って見えた。
無限級数、運動表、素数棚、円の図、指数の覚書。
ばらばらに積まれていたものが、何か一つの道へ向かって並び始める。
右目で見れば紙の端は白く溶けるのに、その中心にある関数という語だけは、左目と頭の奥で黒く残った。
モーペルテュイの部屋から戻った後、俺たちは新居の仕事部屋で、関数の定義を机に広げていた。
ベルリンの乾いた光は朝から強く、カタリナは窓に薄い布をかけてくれた。布を通した光は少し柔らかくなり、紙の白さが右目に刺さらなくなる。
机には大判紙、通常写し、リーデルの記録板、エリザの赤線書簡が並んでいた。
カタリナは、関数のための図を描いていた。
左に、入口。
右に、出口。
その間に、道。
入口には数。出口にも数。道には、規則、と書かれている。
「これで、よろしいでしょうか」
「かなり良いです」
「かなり、ですね」
「良いです」
「では、残します」
彼女は柔らかく笑い、図の下に大きく書いた。
ある数を入れる。規則を通る。別の数が出る。
リーデルがそれを覗き込み、目を輝かせた。
「これは、私にもわかります。入口と出口ですね」
「そうです」
俺は頷いた。
「たとえば、ある数を入れると、その二乗を返す規則があります。二を入れれば四。三を入れれば九。四を入れれば十六」
リーデルはすぐに書類板へ書いた。
「数を入れる。規則が働く。数が返る。なるほど。では、関数とは計算機のようなものですか」
「計算機というより、計算の規則そのものです」
「規則そのものに名前をつける」
「はい」
彼は少し考え込んだ。
「ベルリンでは、役職に名前がつくと扱いやすくなります。侍従、書記、顧問官、音楽家。名前があると呼び出せる。関数も、そういうものですか」
「似ています」
カタリナが言った。
「名前がないと、紙の上で持ち運びにくいのです」
リーデルは感心したように頷いた。
「では、関数は数の役職名ですね」
「その比喩は、面白いですが危険ですね」
俺が言うより先に、机の上のエリザの書簡が目に入った。封はもう切ってある。赤字の追伸が、こちらを睨んでいる。
『同じ入力に複数の出力を許すな。同じ入口から二つの出口が出るなら、それは規則ではなく混乱です』
まるで、この会話を予測していたようだった。
「エリザなら、今の比喩に赤線を入れますね」
カタリナが言った。
「確実に」
リーデルは少し緊張した顔をした。
「遠くのベルヌーイ嬢は、私の比喩にも赤線を?」
「もちろん」
「恐ろしい方ですね」
「有能な方です」
カタリナが柔らかく訂正した。
「恐ろしいほど」
俺は大判紙に例を書いた。
『規則A。
入れた数を二乗する。
一を入れると一。
二を入れると四。
三を入れると九。
四を入れると十六。』
リーデルはそれを見て、指で追う。
「これはわかります。同じ数を入れたら、同じ数が出る」
「そこが大事です」
「もし、二を入れた時に四が出たり五が出たりしたら?」
「その規則は壊れています」
カタリナが、図の道を二股に分けた。
入口、二。
出口、四。
もう一つの出口、五。
「こうなると、道が二つに割れてしまいますね」
「はい」
「これは関数ではない?」
「少なくとも、今ここで定義した関数ではありません」
リーデルが頷いた。
「同じ入口には、同じ出口。覚えます」
その瞬間、二股の図が黒く滲んだ。
カタリナの手が止まる。
「校閲者です」
図の入口、二の横から、黒い線が二本伸び始めた。一本は四へ。もう一本は五へ。カタリナが例として描いた二股が、冗談や誤例ではなく、正しい図のように濃くなっていく。
リーデルの顔が青ざめた。
「私が変なことを聞いたからですか」
「違います」
俺は言った。
「そこが狙われる急所だからです」
エリザの書簡が、机の上でかすかに震えた。
赤字の追伸が、少しだけ濃く見える。
『同じ入力に複数の出力を許すな』
「対応を固定します」
俺は羽ペンを取った。
関数とは、同じ入力に対し、同じ出力を定める規則である。
カタリナがすぐに大字で清書する。
リーデルが通常記録に写す。
「同じ入力、同じ出力」
彼は声に出して読んだ。
「関数とは、道が枝分かれしない規則」
「比喩としては有効です」
俺は言った。
「ただし、正式文は残します」
「もちろんです。ベルヌーイ嬢に刺されたくありません」
リーデルが震えて言う。
「刺される前提なのですね」
「はい」
少しだけ笑いが生まれた。
黒い二股線は、そこで揺らいだ。四へ向かう線は残る。五へ向かう線は薄くなる。だが、完全には消えない。
カタリナが、二股の誤図を別紙へ写した。
「誤対応として保管します。入口二に対して、出口四と五が同時に出る図。関数定義に反するもの」
「はい。そうしてください」
俺は頷いた。
「消すより、誤りとして残した方が強い」
リーデルは、そのやり方をじっと見ていた。
「あなた方は、誤りも捨てないのですね」
「捨てると、また別の場所へ出ます」
カタリナが答えた。
「誤りには、誤りとしての箱が必要です」
「箱」
「はい。サンクトペテルブルクから続けている方法です」
リーデルは、少しだけ背筋を伸ばした。
「では、ベルリンにもその箱を作ります。誤対応記録箱」
「名前が少し直截的ですね」
「グゼル、いえ、オイラー夫人の具体名に倣いました」
カタリナは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
俺はリーデルの言い直しに気づいた。グゼル夫人と言いかけて、オイラー夫人へ直した。細かいが、書記として大事なことだ。
「リーデル」
「はい」
「その言い直しも記録に残す必要はありませんよ」
「いえ、私の中で残します。ベルリンでは呼称も政治ですので」
彼は真面目に答えた。
「オイラー夫人は、オイラー先生の記録者であり、旧姓グゼルの工房で紙を見てこられた方。どちらの名も必要な時がある、と理解しました」
カタリナが少し驚いた顔をする。
「ありがとうございます」
リーデルは頭を下げた。
「こちらこそ。私はまだ、あなた方の記録作法を学んでいるところですから」
その時、玄関から手紙が届いた。
ベルリンの配達人ではない。アカデミー経由で回された、遠い紙の匂いがする封書だった。封蝋は茶色。エリザのものだ。
「またですか」
リーデルが小さく呟く。
「赤線は速いものです」
カタリナが封を切り、俺へ渡した。
中には短い赤字があった。
『関数を定義したら、例を三つ置きなさい。二乗、倍加、定数。定数関数を忘れると、規則を「変化」に限定する誤解が生じます』
俺は目を閉じた。
遠くからでも完璧に刺してくる。
「定数?」
リーデルが聞いた。
「入れる数が何であっても、同じ数を返す規則です」
「同じ入口に同じ出口、どころか、どの入口にも同じ出口ですか」
「はい」
彼は目を瞬いた。
「それでも関数なのですか」
「関数です。何も変えないという規則も、規則です」
カタリナが新しい図を描いた。
入口、一、二、三、四。
すべて同じ出口、五へ向かう。
「これは、道が全部同じ広場へ向かうようなものですね」
「良い比喩です」
俺は言った。
「変化しないから無意味ではない。一定の値を返す規則も、関数です」
リーデルは感心したように言った。
「つまり、関数は変化そのものではなく、対応なのですね」
その言葉に、胸が少し熱くなった。
「そうです」
俺は大きく書いた。
『関数は変化だけではない。対応である』
校閲者の黒い二股線が、また薄くなった。
今度はかなり弱い。
エリザの遠隔赤線が効いた。
カタリナが、三つの例を並べた。
二乗する規則。
二倍する規則。
いつも五を返す規則。
リーデルがそれぞれに番号を振り、通常記録へ写した。
「この三つがあれば、ベルリンの書記たちにも説明できます」
「書記たちに?」
「はい。正直に申し上げると、陛下やサロンの方々より、まず書記が理解しないと記録が乱れます。美しい説明より、間違えにくい説明が必要なんです」
「あなた、もう、かなりこちら側の人ですね」
俺は関心して言った。
リーデルは困ったように笑った。
「昨日までは宮廷側のつもりでした」
「戻れますか」
「たぶん、もう難しいです」
その言葉と同時に、机の上の関数定義の紙が白く光った。
今度は、関数という語そのものではない。
規則という語の一部が、薄くなり始めていた。
カタリナが声を上げる。
「規則の文字です」
俺はすぐに言った。
「対応、と書き足します」
エリザの書簡にも、その語があった。
対応。
俺は大きく書く。
『関数とは、数と数の対応である』
リーデルが続ける。
「入口と出口の対応」
カタリナが描く。
「道と広場の対応」
俺は書く。
「同じ入口には、同じ出口」
白化が止まる。
規則の文字は薄いが、対応の文字が黒く残った。
「用語を一つに絞るべきですか」
リーデルが聞く。
「いずれは」
俺は答えた。
「でも今は、規則と対応の両方で支えます。片方が狙われても、もう片方で戻せるように」
カタリナが頷く。
「言葉の二重記録ですね」
「はい」
リーデルが目録へ書く。
関数。規則。対応。入口。出口。
「これで、かなり見えてきました」
彼は言った。
「数を直接見るのではなく、数から数への道を見る。関数は、その道の名前」
俺は右目を少し開いた。
紙の右側は、相変わらず白い。
だが、カタリナの太い図なら見える。
入口。
道。
出口。
個々の点は滲む。
しかし、道の形は見える。
「片目で見る世界は狭い」
俺は呟いた。
カタリナがこちらを見る。
「でも、関数で見れば、数は互いに道を持つ」
その言葉を、彼女はすぐに書いた。
リーデルも、息を呑むように写した。
ベルリンでの最初の定義は、まだ危うい。
だが、数と数を結ぶ橋は、確かに紙の上に架かり始めていた。




