第53話 体系を作れ
モーペルテュイの部屋は、宮廷の広間より静かだった。
静かだが、軽くはない。
壁にはフランス語の書物とラテン語の論文が並び、机の上には地図、天体表、書簡、未整理の紙束が積まれている。窓から入るベルリンの乾いた光は、紙の山を斜めに切り、埃を細い金色の粒に変えていた。
サンクトペテルブルクの湿った書庫とは違う。ここでは紙が腐る前に、人の思惑で燃えそうな気がした。
俺は右目を少し閉じたまま、椅子に座った。宮廷の光で疲れた目は、まだ奥が重い。カタリナは隣に立ち、いつものように大判紙を抱えている。
リーデルは扉近くで控え、緊張した顔で書類板を握っていた。
モーペルテュイは、ただの学者ではなく、ベルリン・アカデミーの中心にいる人間なのだろう。
ピエール=ルイ・モーペルテュイは、机の向こうで俺を見た。
鋭いが、王の視線とは違う。フリードリヒの目は人を評価する目だった。モーペルテュイの目は、考えの形を探る目だった。彼の服装は宮廷人の洗練を持っていたが、指先には紙とインクの疲れがあった。少なくとも、こちら側の人間だ。そう思えた。
「オイラー殿。ベルリンへようこそ」
「お招きに感謝します」
「招いたのは我々です。しかし、君を最も強く招いたのは、君自身の仕事でしょう」
彼は机の上の紙束を指した。
「バーゼル問題。橋。力学。素数。どれも一つ一つ、大きな成果です。だが、ベルリンで君に求めたいものは、成果の列挙ではありません」
「では、何を?」
「体系です」
その言葉は、乾いた部屋に重く置かれた。
体系。
個別の式ではない。個別の発見でもない。全部を結び、誰かが次に使える形にすること。俺は、机の上の紙束を見た。右目では端が滲む。左目で見ても、紙は多すぎる。今まで守ってきたものが、散らばったまま積まれている。
モーペルテュイは続けた。
「君は、数を並べているのではない。変化の文法を作っている」
「変化の文法」
「そうです。無限級数は変化する和です。橋問題はつながり方の文法でした。力学は位置と速度の文法。素数は整数の骨格の文法。だが、それらを別々に置けば、読者は迷います」
カタリナが、そっと紙を出した。
「迷わないための地図が必要なのですね」
モーペルテュイは彼女を見て、柔らかく頷いた。
「オイラー夫人、その通りです。地図です。ただし、都市の地図ではない。数学、いや、解析の地図です」
リーデルが小さく息を吸った。
「解析の地図……」
彼は思わず繰り返し、慌てて口を閉じた。モーペルテュイは咎めなかった。
「若い書記には、よい言葉でしょう。記録しなさい、リーデル君」
「はい」
リーデルの羽ペンが走る。
解析の地図。
カタリナも同じ言葉を書いた。大きく、右目でも読める太さで。
「しかし」
俺は言った。
「地図を作るには、中心が必要です。何を中心に置くべきか」
モーペルテュイは、少しだけ微笑んだ。
「君は、もう気づいているのではありませんか」
その時、俺の外套の内側で、リーデルが届けてくれた書簡がかすかに鳴った。サンクトペテルブルクからの封書。茶色の封蝋。赤ではない。だが、中に赤があることはわかっている。
「エリザからです」
カタリナが言った。
「今朝届いたものです。謁見の前に開けると議論が始まると思い、後にしました」
「私の行動が読まれている」
「はい」
彼女は柔らかく言った。
俺は封を切った。
最初の一行から赤かった。
『関数という語の用法が不安定です。ベルリンの空気で浮かれているなら、早急に冷却してください』
リーデルが小さく咳き込んだ。
「手紙で、ここまで」
「いつも通りです」
カタリナが穏やかに言う。
モーペルテュイは興味深そうに眉を上げた。
「これは、なかなか鋭い書簡ですね」
「鋭すぎることが多いです」
俺は苦笑した。
書簡は続いていた。
『関数を単なる式の別名として扱うな。数そのものでもない。計算手順だけでもない。ある量が別の量へ従属する規則を、ひとまとまりとして扱うなら、その定義を明示しなさい』
エリザの赤線は、遠くにいても容赦がない。
だが、必要だった。
俺は紙を机に置いた。
「関数」
モーペルテュイがその語を静かに言った。
「君が宮廷の帰りに書いたという語ですね。数を別の数へ連れていく規則」
「まだ、言葉としては危ういです」
「危うい言葉ほど、中心になることがあります」
彼は机の上の紙を一枚取り、そこに大きく円を描いた。その周りに、級数、力学、素数、三角、指数、と書く。
「これらは、ばらばらに見える。だが、関数という考えを中心に置けば、互いに道ができる。級数は関数として見られる。運動も時刻から位置への関数として見られる。三角も円の角から長さへの関数になる。指数や対数も、数を変える規則だ」
リーデルが息を呑んだ。
「数ではなく、規則を中心に置くのですか」
「その通りです」
俺は答えた。
「ある数を入れる。別の数が出る。その対応の規則を、名前をつけて扱う」
「それは、道の名前をつけるようなものですか」
カタリナが聞いた。
「はい。橋ではなく、橋の通り方に名前をつけるようなものかもしれません」
モーペルテュイが頷く。
「よいですね。君の過去の仕事が、皆ここに戻ってくる」
俺は、右目の滲む紙面を見た。
橋。運動。素数。
すべて、つながり方を見てきた。
今度は数と数のつながり方を見る。
その時、机の上のエリザの書簡が黒く滲んだ。
赤い字の横に、校閲者の文字が浮かぶ。
【規則に名を与えるな】
前にも見た言葉だった。
だが今回は、さらに続きがある。
【名を得た規則は、歴史を越える】
部屋の空気が冷えた。
リーデルが青ざめる。
「これは、昨日の」
「続きです」
カタリナがすぐに記録する。
「ベルリン到着後、関数概念への干渉。文言、規則に名を与えるな。続き、名を得た規則は歴史を越える」
エリザがいたなら、そこが急所です、と言っただろう。
モーペルテュイは黒い文字を見つめていた。
「この敵は、関数という語を恐れているのですか」
「おそらく」
「何故だと思いますか?」
「名前があれば、規則を持ち運べます。別々の問題に、同じ見方を適用できる。無限級数にも、運動にも、円にも、指数にも」
「つまり、関数は解析の地図の凡例になる」
リーデルが言った。
言ってから、自分で驚いたように口を閉じた。
モーペルテュイは笑った。
「よい表現です。記録しなさい。自分で」
リーデルは耳を赤くして書いた。
関数は、解析の地図の凡例。
エリザの赤線があれば、「比喩です、正式文も添えなさい」と刺しただろう。だから俺は先に書いた。
『関数とは、ある量から別の量を定める規則である』
カタリナがその文を大きく清書する。
リーデルが通常記録へ写す。
モーペルテュイが、フランス語の表現を添える。
それぞれの筆跡が、同じ概念を囲む。
黒い文字が揺れた。
【規則に名を与えるな。
名を得た規則は、歴史を越える】
「越えていいんです」
俺は言った。
「越えるために、名前をつけます」
カタリナが、こちらを見た。
「未来へ、持ち運ぶために」
「はい」
「ベルリンへ持ってきた紙と同じですね」
「ええ。関数は、問題を越えて持ち運ぶための名前です」
モーペルテュイは、深く息を吐いた。
「これがおそらく、君がベルリンで作るべきものの中心になる。個別の論文ではなく、入口となる本。解析へ入るための本」
「入門」
俺は呟いた。
「そう。無限解析への入門です」
その言葉が、机の上に落ちた。
『無限解析入門』
まだ本ではない。
だが、題だけが先に生まれたようだった。
黒い文字が薄れた。
完全には消えない。
だが、紙の奥へ押し込まれる力を失っている。
その瞬間、エリザの書簡の下に赤い追伸が見えた。
『関数という語を定義したら、次に同じ入力が同じ出力を持つことを確認しなさい。同じ入口から二つの出口が出るなら、それは規則ではなく混乱です』
俺は思わず笑った。
「遠くから次の罠まで教えてくる」
カタリナが微笑む。
「エリザ様らしいです」
リーデルが恐る恐る尋ねた。
「このエリザ様という方は、いつもこのように?」
「いつもです」
俺とカタリナが同時に答えた。
モーペルテュイは楽しそうに笑った。
「よい遠隔審査員をお持ちだ」
「遠隔でも痛いですね」
「痛い審査ほど、効くものです」
机の上には、関数の定義が残った。
『関数とは、ある量から別の量を定める規則である』
その文字は、右目でも読めるほど太く書かれていた。
ベルリンで最初に作るべきものは、成果ではなく体系。
その中心に置くべき語は、決まった。
関数。
数と数を結ぶ、見えない橋。
そして、その橋を渡るための地図が、これから作られる。




