表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
53/61

第53話 体系を作れ


モーペルテュイの部屋は、宮廷の広間より静かだった。


静かだが、軽くはない。

壁にはフランス語の書物とラテン語の論文が並び、机の上には地図、天体表、書簡、未整理の紙束が積まれている。窓から入るベルリンの乾いた光は、紙の山を斜めに切り、埃を細い金色の粒に変えていた。

サンクトペテルブルクの湿った書庫とは違う。ここでは紙が腐る前に、人の思惑で燃えそうな気がした。


俺は右目を少し閉じたまま、椅子に座った。宮廷の光で疲れた目は、まだ奥が重い。カタリナは隣に立ち、いつものように大判紙を抱えている。

リーデルは扉近くで控え、緊張した顔で書類板を握っていた。

モーペルテュイは、ただの学者ではなく、ベルリン・アカデミーの中心にいる人間なのだろう。


ピエール=ルイ・モーペルテュイは、机の向こうで俺を見た。


鋭いが、王の視線とは違う。フリードリヒの目は人を評価する目だった。モーペルテュイの目は、考えの形を探る目だった。彼の服装は宮廷人の洗練を持っていたが、指先には紙とインクの疲れがあった。少なくとも、こちら側の人間だ。そう思えた。


「オイラー殿。ベルリンへようこそ」


「お招きに感謝します」


「招いたのは我々です。しかし、君を最も強く招いたのは、君自身の仕事でしょう」


彼は机の上の紙束を指した。


「バーゼル問題。橋。力学。素数。どれも一つ一つ、大きな成果です。だが、ベルリンで君に求めたいものは、成果の列挙ではありません」


「では、何を?」


「体系です」


その言葉は、乾いた部屋に重く置かれた。


体系。


個別の式ではない。個別の発見でもない。全部を結び、誰かが次に使える形にすること。俺は、机の上の紙束を見た。右目では端が滲む。左目で見ても、紙は多すぎる。今まで守ってきたものが、散らばったまま積まれている。


モーペルテュイは続けた。


「君は、数を並べているのではない。変化の文法を作っている」


「変化の文法」


「そうです。無限級数は変化する和です。橋問題はつながり方の文法でした。力学は位置と速度の文法。素数は整数の骨格の文法。だが、それらを別々に置けば、読者は迷います」


カタリナが、そっと紙を出した。


「迷わないための地図が必要なのですね」


モーペルテュイは彼女を見て、柔らかく頷いた。


「オイラー夫人、その通りです。地図です。ただし、都市の地図ではない。数学、いや、解析の地図です」


リーデルが小さく息を吸った。


「解析の地図……」


彼は思わず繰り返し、慌てて口を閉じた。モーペルテュイは咎めなかった。


「若い書記には、よい言葉でしょう。記録しなさい、リーデル君」


「はい」


リーデルの羽ペンが走る。


解析の地図。


カタリナも同じ言葉を書いた。大きく、右目でも読める太さで。


「しかし」


俺は言った。


「地図を作るには、中心が必要です。何を中心に置くべきか」


モーペルテュイは、少しだけ微笑んだ。


「君は、もう気づいているのではありませんか」


その時、俺の外套の内側で、リーデルが届けてくれた書簡がかすかに鳴った。サンクトペテルブルクからの封書。茶色の封蝋。赤ではない。だが、中に赤があることはわかっている。


「エリザからです」

カタリナが言った。

「今朝届いたものです。謁見の前に開けると議論が始まると思い、後にしました」


「私の行動が読まれている」


「はい」

彼女は柔らかく言った。


俺は封を切った。


最初の一行から赤かった。


『関数という語の用法が不安定です。ベルリンの空気で浮かれているなら、早急に冷却してください』


リーデルが小さく咳き込んだ。


「手紙で、ここまで」


「いつも通りです」

カタリナが穏やかに言う。


モーペルテュイは興味深そうに眉を上げた。

「これは、なかなか鋭い書簡ですね」


「鋭すぎることが多いです」

俺は苦笑した。


書簡は続いていた。


『関数を単なる式の別名として扱うな。数そのものでもない。計算手順だけでもない。ある量が別の量へ従属する規則を、ひとまとまりとして扱うなら、その定義を明示しなさい』


エリザの赤線は、遠くにいても容赦がない。


だが、必要だった。


俺は紙を机に置いた。


「関数」


モーペルテュイがその語を静かに言った。


「君が宮廷の帰りに書いたという語ですね。数を別の数へ連れていく規則」


「まだ、言葉としては危ういです」


「危うい言葉ほど、中心になることがあります」


彼は机の上の紙を一枚取り、そこに大きく円を描いた。その周りに、級数、力学、素数、三角、指数、と書く。


「これらは、ばらばらに見える。だが、関数という考えを中心に置けば、互いに道ができる。級数は関数として見られる。運動も時刻から位置への関数として見られる。三角も円の角から長さへの関数になる。指数や対数も、数を変える規則だ」


リーデルが息を呑んだ。


「数ではなく、規則を中心に置くのですか」


「その通りです」

俺は答えた。


「ある数を入れる。別の数が出る。その対応の規則を、名前をつけて扱う」


「それは、道の名前をつけるようなものですか」

カタリナが聞いた。


「はい。橋ではなく、橋の通り方に名前をつけるようなものかもしれません」


モーペルテュイが頷く。

「よいですね。君の過去の仕事が、皆ここに戻ってくる」


俺は、右目の滲む紙面を見た。


橋。運動。素数。


すべて、つながり方を見てきた。


今度は数と数のつながり方を見る。


その時、机の上のエリザの書簡が黒く滲んだ。


赤い字の横に、校閲者の文字が浮かぶ。


【規則に名を与えるな】


前にも見た言葉だった。


だが今回は、さらに続きがある。


【名を得た規則は、歴史を越える】


部屋の空気が冷えた。


リーデルが青ざめる。

「これは、昨日の」


「続きです」


カタリナがすぐに記録する。

「ベルリン到着後、関数概念への干渉。文言、規則に名を与えるな。続き、名を得た規則は歴史を越える」


エリザがいたなら、そこが急所です、と言っただろう。


モーペルテュイは黒い文字を見つめていた。


「この敵は、関数という語を恐れているのですか」


「おそらく」


「何故だと思いますか?」


「名前があれば、規則を持ち運べます。別々の問題に、同じ見方を適用できる。無限級数にも、運動にも、円にも、指数にも」


「つまり、関数は解析の地図の凡例になる」

リーデルが言った。


言ってから、自分で驚いたように口を閉じた。


モーペルテュイは笑った。

「よい表現です。記録しなさい。自分で」


リーデルは耳を赤くして書いた。


関数は、解析の地図の凡例。


エリザの赤線があれば、「比喩です、正式文も添えなさい」と刺しただろう。だから俺は先に書いた。


『関数とは、ある量から別の量を定める規則である』


カタリナがその文を大きく清書する。


リーデルが通常記録へ写す。


モーペルテュイが、フランス語の表現を添える。


それぞれの筆跡が、同じ概念を囲む。


黒い文字が揺れた。


【規則に名を与えるな。


名を得た規則は、歴史を越える】


「越えていいんです」

俺は言った。

「越えるために、名前をつけます」


カタリナが、こちらを見た。

「未来へ、持ち運ぶために」


「はい」


「ベルリンへ持ってきた紙と同じですね」


「ええ。関数は、問題を越えて持ち運ぶための名前です」


モーペルテュイは、深く息を吐いた。

「これがおそらく、君がベルリンで作るべきものの中心になる。個別の論文ではなく、入口となる本。解析へ入るための本」


「入門」


俺は呟いた。


「そう。無限解析への入門です」


その言葉が、机の上に落ちた。


『無限解析入門』


まだ本ではない。


だが、題だけが先に生まれたようだった。


黒い文字が薄れた。


完全には消えない。


だが、紙の奥へ押し込まれる力を失っている。


その瞬間、エリザの書簡の下に赤い追伸が見えた。


『関数という語を定義したら、次に同じ入力が同じ出力を持つことを確認しなさい。同じ入口から二つの出口が出るなら、それは規則ではなく混乱です』


俺は思わず笑った。

「遠くから次の罠まで教えてくる」


カタリナが微笑む。

「エリザ様らしいです」


リーデルが恐る恐る尋ねた。

「このエリザ様という方は、いつもこのように?」


「いつもです」

俺とカタリナが同時に答えた。


モーペルテュイは楽しそうに笑った。

「よい遠隔審査員をお持ちだ」


「遠隔でも痛いですね」


「痛い審査ほど、効くものです」


机の上には、関数の定義が残った。


『関数とは、ある量から別の量を定める規則である』


その文字は、右目でも読めるほど太く書かれていた。


ベルリンで最初に作るべきものは、成果ではなく体系。


その中心に置くべき語は、決まった。


関数。


数と数を結ぶ、見えない橋。


そして、その橋を渡るための地図が、これから作られる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ