第52話 王のサロン
謁見の知らせは、ベルリンに着いたその日のうちに家の中へ入り込んだ。
それは、扉の外から入ってきた一通の文書でありながら、暖炉の火の向きまで変えてしまうような力を持っていた。王からの呼び出し。フリードリヒ。まだ直接名を呼ばれていないのに、家の空気にはその名の影が差した。サンクトペテルブルクの宮廷が湿った闇なら、ベルリンの宮廷は乾いた光の刃だ。どちらも人を切る。ただ、傷口の乾き方が違う。
翌日の昼、リーデルが迎えに来た。彼は前日よりもさらにきちんとした服を着ており、髪も一筋の乱れなく整えていた。手には手袋と、予定を書いた小さな帳面がある。若い書記の顔には、期待と不安が半分ずつ浮かんでいた。
「オイラー先生、陛下は形式を重んじられます。ただし、形式だけを重んじる方ではありません。機知を好まれます。返答は短く、しかし鈍くならないように」
「短く、鈍くなく」
「はい。長い正しさは、宮廷では時に眠気を誘います」
「私には向いていない場所ですね」
リーデルは困ったように笑った。
「ですから、私が前もって申し上げております」
カタリナは、俺の外套の襟元を直していた。彼女はベルリンに来てから、家の中の光だけでなく、俺の立ち位置まで調整するようになった。右目に強い光が入らないよう、玄関でも馬車でも、自然と左側へ寄せる。今日の外套も、濃い色のものを選んだ。白い壁の部屋で、右目が疲れすぎないように、という理由だった。
「紙はお持ちになりますか」
「謁見に紙束を抱えていくのは、さすがに」
「では、小さい帳面だけ。大きな字で、必要な語を書いておきました」
彼女は掌に収まるほどの帳面を渡した。
位置。速度。変化。素数。
関数。
最後の語は、まだ正式に定まっていない。けれど、もうそこにあった。ベルリンへ来た理由の一つとして。
「関数も?」
「これから必要になる言葉だと思いました」
柔らかい声で、未来を先に置く。カタリナは、いつもそうやって道具を整える。
馬車は宮殿へ向かった。ベルリンの道はサンクトペテルブルクほど凍ってはいなかったが、乾いた石畳が車輪を硬く鳴らした。通りには商人、兵士、紳士、帽子をかぶった婦人たち。人々の言葉は速く、空気にはパンと馬と乾いた埃の匂いがあった。遠くに宮殿が見えると、リーデルの背筋がさらに伸びた。
「ここから先は、言葉が紙より早く走ります」
彼は小声で言った。
「紙で守れないのですか」
「守れます。ただ、紙に落ちる前に笑いになることがあります」
嫌な助言だった。
宮廷の広間は、眩しかった。
金色の装飾、磨かれた床、白い壁、壁際に並ぶ鏡。窓から入る乾いた光が、銀器や剣の柄に反射して、右目に細い痛みを走らせる。俺は少しだけ顔を左へ向けた。見えないようにしたつもりだったが、カタリナは見ていた。彼女の指が、ほんの一瞬、俺の袖に触れる。そこにいます、という合図だった。
広間にはフランス語が多かった。流れるような言葉。笑い。皮肉。褒め言葉と刃物の境界が曖昧な声。ロシアの宮廷の沈黙とは違う。ここでは、人は言葉で相手の周りを舞い、笑いながら距離を測る。
リーデルが低く告げた。
「陛下です」
フリードリヒ二世は、想像より若く見えた。細身で、姿勢がよく、目が鋭い。軍人の硬さと、音楽家の繊細さが同じ身体に入っているようだった。彼は俺を見た。最初に俺の顔を見た。次に、右目を見た。ほんの一瞬だ。だが、王の視線は速く、隠しようがなかった。
「レオンハルト・オイラー」
王はフランス語で言った。
「ロシアの雪から、ようやく我がベルリンへ来たか」
俺は礼をした。
「陛下のお招きに感謝いたします」
「招いたのは私だけではない。数学そのものも、君を連れてきたのだろう」
周囲に小さな笑いが起きた。褒め言葉の形をしているが、どこか試す響きがある。
「数学は、行き先を命じるより、道を示すものです」
俺は答えた。
王の口元が、少し動いた。
「道か。君は橋の問題も解いたと聞く。都市を点と線へ変えたそうだな」
「解いたというより、渡れないことを示しました」
「不可能を示す学問。宮廷では嫌われそうだ」
「だからこそ、条件を変える必要がありました」
王は楽しそうに目を細めた。
「条件を変える。よい言葉だ。政治にも使える」
「使い方には注意が必要です」
「数学者はすぐ注意を添える」
また笑いが起きた。
その笑いの中に、別の声が混じった。
「片目で世界を見て、なお条件を見分けるとは、なかなかのサイクロプスぶりですな」
広間の端からだった。誰かはわからない。声は軽い。冗談の形をしていた。
だが、部屋の空気がほんの少しだけ動いた。笑ってよいのか、笑わない方がよいのかを、皆が王の顔で測っている。
俺は返事をしなかった。
カタリナの指が、袖を握る力を強めた。
彼女の怒りは声にならなかったが、確かにそこにあった。
リーデルは青ざめている。
王はその声の方向を一瞬見たが、咎めなかった。ただ、少しだけ退屈そうに俺へ視線を戻した。
「君の目については、噂を聞いている」
「噂は、たいてい余分な装飾を持ちます」
「よい返しだ」
王は頷いた。
「では、その片目で何を見る、オイラー?」
広間が静まる。
ここで傷ついた顔をすれば、笑いになる。怒れば、野暮になる。逃げれば、負ける。ベルリンは、正しさだけでは足りない場所だ。リーデルの言葉が胸に戻った。正しさに服を着せろ。
俺はゆっくり答えた。
「片目では、細い線を見落とします」
カタリナが息を止めたのがわかった。
「ですが、線がなぜそこにあるかは、式で追えます。点が見えにくければ、点と点を結ぶ規則を見ます」
王の目が変わった。
「規則?」
「ある数を入れ、別の数が出る。その対応の規則です。個々の点が滲んでも、規則が残れば、世界は見えます」
王は、少し沈黙した。
周囲は、さっきの笑いを忘れている。
「それは、君がベルリンで作ろうとしているものか」
「はい」
「式だけでは会話にならぬぞ、オイラー」
「ならば、式にも言葉を与えます」
王は今度こそ笑った。嘲笑ではない。興味を持った笑いだった。
「よろしい。君の式に、我がベルリンで通じる服を着せてみせよ」
「努力します」
「努力は兵士の言葉だ。成果を待つ」
エリザがいたら、同じことを言っただろう。努力では不十分です、と。俺は内心で苦笑した。
謁見は長くはなかった。王は他にも話すべき相手がいた。音楽、軍、フランスの哲学者、アカデミーの運営。ベルリンの宮廷は、すべてが速く、そして見せ方を持っていた。去り際、王はもう一度こちらを見た。
「モーペルテュイに会うといい。彼は君の式を、私よりは忍耐強く聞くだろう」
「ありがとうございます」
「ただし、私にもわかる形にしておくことだ。わからぬものは、王の前では存在しないのに似ている」
その言葉は、褒め言葉ではなかった。
警告だった。
宮殿を出ると、乾いた夕方の風が頬に当たった。右目の奥が痛む。広間の光は、思った以上に疲れたらしい。馬車へ向かう途中、カタリナが小さく言った。
「先ほどの言葉、記録します」
「どれですか」
「片目では細い線を見落とす。けれど、規則が残れば世界は見える」
「大げさです」
「いいえ」
彼女の声は柔らかいが、硬かった。
「笑いにされたものを、こちらの言葉に変えました。残すべきです」
リーデルが恐る恐る言った。
「オイラー先生、今日の返答は、かなりよかったと思います」
「かなり?」
「はい。少なくとも、広間は笑いから興味へ移りました」
「それは勝ちですか」
リーデルは少し考えた。
「ベルリンでは、負けなかった、というのがまず大事です」
疲れる場所だ。
馬車へ乗る直前、俺の外套の内側で小さな帳面が震えた。カタリナが渡してくれた帳面だ。開くと、最後の語、関数、の横に黒い文字が浮かんでいた。
【規則に名を与えるな】
校閲者だった。
ベルリンの宮廷の笑いを抜けた直後に、今度は数学そのものを攻撃しに来る。
俺は帳面を閉じなかった。右目では黒い字が滲む。左目では読める。カタリナも覗き込み、すぐに紙を出した。
「記録します。宮廷謁見後、関数の語に干渉」
リーデルが青ざめながらも帳面を構える。
「私も見ました。【規則に名を与えるな】です」
俺は羽ペンを取った。
『規則に名がなければ、持ち運べない』
黒い文字が揺れた。
カタリナが横に大きく書く。
『数を別の数へ連れていく規則』
その文字は、まだ白くならなかった。
王の広間で生まれた言葉が、馬車の前で初めて紙に残った。
ベルリンは、冷たく、乾いて、よく笑う。
だが、この街で俺は、数と数を結ぶ規則に名を与えることになる。




