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第51話 ベルリンの乾いた光


ベルリンの光は、サンクトペテルブルクの光と違っていた。


雪と湿気に滲む白ではない。もっと乾いていて、薄い刃のように物の輪郭を切り出す光だった。馬車の窓から見える街並みは、石と屋根と塔の線がはっきりしている。ネヴァの霧のようにすべてを同じ白へ沈めることはない。だが、その分、影もまた濃かった。


俺は窓の外を見ながら、右目を少し閉じた。右側の世界はまだ白く滲む。乾いた光は優しいかと思ったが、そうでもなかった。細い屋根の線、馬車の車輪、遠くの塔の縁。左目では鋭く見えるそれらが、右目では薄い水の膜を通したようにほどける。


カタリナは俺の隣で、膝の上に目録を広げていた。ヨハン・アルブレヒトは眠っている。小さな寝息が、馬車の揺れに合わせて浅く上下する。カタリナの手元には、素数棚の主図、『Mechanica』の大判写し、ベルリン到着時に開く荷の順番、薬草の包み、子どもの衣類の箱番号まで書かれている。


「日差しが強いですね」


彼女が静かに言った。


「ロシアの雪明かりより、線がはっきり見えます」


「右目には少し強いです」


「では、机は窓に対して斜めに置きましょう。正面から光が入らないように。紙は白すぎないものを選びます」


家に着く前から机の位置を決めている。


カタリナらしい。


「まだ家も見ていませんよ」


「見てからでは、荷を置き直すのが大変ですので」


「合理的ですね」


「暮らしは、最初の配置で疲れ方が変わります」


その言葉は、数式よりも生活に近く、だからこそ重かった。

俺は右目を閉じたまま頷いた。彼女は、俺が見えるようにするだけではない。俺が疲れすぎずに書き続けられるよう、家そのものを組み替えようとしている。


馬車が止まったのは、午後の少し前だった。


ベルリンの新居は、大きすぎず小さすぎず、石造りの壁に淡い色の窓枠がついていた。通りには馬車と人の声が行き交い、サンクトペテルブルクよりも乾いた土とパンの匂いがした。遠くでフランス語が聞こえ、近くではドイツ語が飛び交う。ラテン語の世界から少し外へ出たような、不思議なざわめきだった。


玄関先には、一人の若い男が立っていた。


年は二十代半ばだろうか。細身で、明るい茶色の髪をきちんと撫でつけている。服は上品だが、宮廷人ほど派手ではない。手には書類板。姿勢は丁寧だが、目は好奇心でよく動く。


「レオンハルト・オイラー殿ですね。ヨハン・リーデルと申します。ベルリン・アカデミーの書記補です。到着時の確認と、当面のご案内を仰せつかりました」


発音の整ったドイツ語だった。少し緊張している。だが、若さのせいか、恐れより好奇心が勝っている。


「オイラーです。こちらは妻のカタリナ」


「お二人とも、長旅、お疲れさまです」


リーデルは深く礼をした。カタリナも礼を返す。


「ありがとうございます。まず、紙箱を湿気の少ない部屋へ入れたいのですが、どちらがよろしいでしょうか」


リーデルは一瞬目を瞬いた。


「紙箱、ですか。通常は居室のご案内から」


「紙は湿気を嫌います。子どもの衣類より先に入れる箱があります」


「なるほど」


彼は慌てて書類板を見た。


「では、奥の北向きの小部屋がよいかと。日差しは弱く、暖炉からも遠いです」


カタリナは頷いた。


「では素数棚と大判写しは、そこへ。薬草と子どものものは、暖かい部屋へお願いします」


リーデルは、また瞬いた。


「素数棚?」


「後で説明します」


俺が言うと、彼は少し笑った。


「ベルリンでは、到着した学者が家具より先に素数の棚を運ぶことは珍しいです」


「サンクトペテルブルクでも珍しかったと思います」


「それは、ますます楽しみです」


悪い人間ではなさそうだった。


ただ、ベルリンの人間らしい軽さがある。言葉に小さな飾りがついている。ロシアの湿った沈黙とは違う。


荷下ろしが始まった。


書物の箱が運ばれる。草稿の平箱が運ばれる。子どもの寝台。調理具。図版筒。カタリナはひとつひとつ確認し、リーデルはその隣で目録を写す。彼は、最初こそ戸惑っていたが、次第に楽しそうな顔になった。


「夫人、この箱は」


「『Mechanica』の大判写しです。右目用ですので、立てて運んでください。紙の角を折らないように」


「右目用」


リーデルは俺を見た。


その視線は一瞬だけ、俺の右目に触れた。


好奇心。そして、気まずさ。


すぐに彼は目を逸らした。


「承知しました。立てて運びます」


俺は何も言わなかった。


ベルリンに来ても、右目はついてくる。人の視線もついてくる。病んだ目を持つ数学者。片目の外国人。新しい都は、そのことを忘れさせてはくれないらしい。


家の中は、まだ空っぽの匂いがした。乾いた木、石灰、古い壁。カタリナは最初に机の位置を決めた。窓を正面にせず、少し斜め。右側に強い光が入らないように。紙箱は北の小部屋。図版は湿気を避けて壁際。薬草は暖炉に近すぎない棚。子どもの寝台は、昼の光が入るが、隙間風の少ない場所。


家が、彼女の手で少しずつ数学を受け入れる形になっていく。


俺は机に手を置いた。


ロシアの机ではない。


だが、ここにも紙は置ける。


式は書ける。


「オイラー殿」


リーデルが声をかけた。


「午後遅くに、アカデミーから正式な到着確認の使いが来ます。明日以降、モーペルテュイ殿からもお呼びがあるかと」


「フリードリヒ王は」


「まだ日程は未定です。ただ、到着の報はすでに上がっています」


「早いですね」


「ベルリンでは、報告が早いことも礼儀です。もっとも、早すぎる報告は政治ですが」


リーデルは少しだけ声を落とした。


「オイラー先生、ここでは正しさだけでは足りません。まず、正しさを聞いてもらう服を着せる必要があります」


「服」


「はい。言葉、順番、相手の顔、部屋の空気。ベルリンの宮廷では、正しいことを正しいまま出すと、時々嫌われます」


「面倒ですね」


「面倒です」


彼は素直に言った。


「ですが、慣れると便利でもあります。正しさが良い服を着れば、遠くまで歩けます」


カタリナがその言葉に反応した。


「式にも、服が必要なのですね」


リーデルは少し照れたように笑った。


「私の言い方が悪ければ、そうです。ベルリンでは、裸の真理は風邪を引きます」


「ヴォルテールの真似ですか」


俺が聞くと、彼は肩をすくめた。


「ばれましたか」


ヴォルテール。


ベルリンに来たのだ。


その名が普通に会話へ出る場所へ。


俺は、少しだけ胃の奥が重くなるのを感じた。数式を守るだけではない。ここでは言葉とも戦わなければならない。


夕方近く、北の小部屋で最初の異変が起きた。


紙箱を開けたカタリナが、小さく息を呑んだ。


「オイラー殿」


その声で、俺はすぐに部屋へ向かった。


素数棚の主図が、白く光っていた。


そして、その隣に置いたMechanicaの大判写しも。


ロシアから持ってきた二つの記録。素数の骨と、運動の式。その紙の端が、ベルリンの乾いた光の中で薄く白化している。


「ここまで来ても、追ってくるのですね」


カタリナの声は静かだった。


リーデルが青ざめた。


「これは、紙の傷みですか」


「違います」


俺は言った。


「記録への干渉です」


「干渉」


彼は言葉を失っている。


そりゃそうだ。初日からこんなものを見せられたら、普通は帰る。


だが、リーデルは帰らなかった。震える手で書類板を構えた。


「記録した方がよいのですね」


「はい」


カタリナが頷いた。


「まず、時刻。場所。紙の種類。光の向き。白化した範囲」


「承知しました」


リーデルの声は震えているが、手は動いた。


ベルリンの新しい書記が、最初の白化記録を取る。


それを見て、少しだけ心強く感じた。


白化しているのは、素数棚の表題と、Mechanicaの「変化」という語だった。校閲者は、こちらがベルリンでどの記録を核にするか知っている。素数の棚。運動の変化。どちらも、次の数学への足場だ。


俺は羽ペンを取った。


ここはベルリン。


記録は移動した。


白化が少し止まる。


カタリナが続けて書く。


素数棚、ベルリン到着時白化。Mechanica大判写し、同時白化。記録者、カタリナ・グゼル。補助記録、ヨハン・リーデル。


リーデルは自分の名が入ったのを見て、少し顔を強張らせた。


「私の名も?」


「はい」


カタリナは柔らかく言った。


「見た方の名があると、記録は強くなります」


「なるほど……怖いですね」


「怖いです。でも、残ります」


リーデルは、しばらく紙を見てから、小さく頷いた。


「では、私も見ました。ベルリンで、この白化を見ました」


その言葉で、白化は止まった。


完全に戻りはしない。


だが、消えない。


俺は息を吐いた。


ベルリンでも、同じだ。


校閲者は来る。


紙は狙われる。


だが、新しい目も増える。


その時、玄関の方で馬の蹄の音がした。乾いた石畳を叩く硬い音。続いて、扉を叩く音。家の中が、また少し緊張した。


リーデルが窓から外を見た。


「アカデミーからです。いえ……宮廷印があります」


早い。


早すぎる。


カタリナが俺の右目を一度見て、机の上の紙を整えた。


「強い光の部屋ではなく、こちらでお会いください。右目が疲れます」


「王ではないでしょう」


「使者でも、光は選べます」


その通りだった。


俺は外套を正し、玄関へ向かった。


ベルリンの乾いた光は、もう夕暮れの金に変わりつつあった。扉の向こうに誰がいるのかはまだわからない。だが、この街は俺たちを静かに迎えるつもりなどないらしい。


扉が開くと、使者は深く礼をした。


「レオンハルト・オイラー殿。陛下より、近日中の謁見を命じられております」


フリードリヒ。


その名はまだ口に出されなかった。


だが、ベルリンの空気が、その名を先に運んできていた。


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