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第50話 雪の都を発つ日


出立の日、サンクトペテルブルクは白かった。


空は低く、雪は降っていないのに、街全体が凍った息を吐いているようだった。馬車の車輪は石畳に薄く張った氷を噛み、軋むたびに鋭い音を立てる。ネヴァ川の方から吹く風は、毛皮の襟の隙間へ入り込み、熱の抜けた右目の奥まで冷やした。


俺は、家の前に積まれた荷を見ていた。


書物の箱。


草稿の箱。


大判写しを入れた平箱。


カタリナの図版筒。


子どもの衣類。


鍋。


薬草。


小さな木の匙。


数学史と生活が、同じ馬車に積まれていく。数式とおむつ、図版と黒パン、素数棚と子どもの毛布。未来を救うはずの旅は、思ったよりも生活の匂いがした。


カタリナは、荷のひとつひとつを確認していた。


「素数棚の主図、第一箱。右目用大判写し、第二箱。Mechanicaの控え、平箱。子どもの外套、こちら。薬湯の包み、私の手元です」


「そこまで覚えているなら、目録はいらないのでは」


「目録は、私が倒れた時のためです」


柔らかい声で、恐ろしいことを言う。


俺は口を閉じた。


彼女は、こちらを見て少し微笑んだ。


「冗談ではありません」


「冗談じゃない方が怖いです」


「だから、書いています」


カタリナは手元の目録へ印を入れた。彼女の字は、雪の朝でも乱れない。細いが、芯がある。第一部で初めて図を預けた頃より、ずっと強い線になっていた。


ヨハン・アルブレヒトは、乳母の腕の中で眠っていた。小さな顔は毛布に半分埋もれ、冷たい空気を嫌がるように眉を寄せている。俺は、その頬を見た。Eulerの名を持つ子。俺が本物であるかどうかに関係なく、この子はこの世界で生まれ、息をしている。


その現実が、紙よりも重い。


「オイラー殿」


背後から声がした。


エリザだった。


黒い外套に身を包み、赤い羽ペンを革の筒に入れて持っている。雪の朝でも、彼女の姿勢はいつも通りまっすぐだった。顔色は少し悪い。昨夜遅くまで写しの分割をしていたからだろう。だが、目は眠っていない。


「忘れ物です」


彼女は、一通の封書を差し出した。


「もう赤線ですか」


「当然です」


「まだ出発もしていませんよ」


「出発前に誤る人間が、出発後に正しくなる保証はありません」


「別れの朝なのに」


「だからこそ、定義を固定します」


俺は封書を受け取った。封蝋は茶色。赤ではない。エリザが決めた通り、外から見れば普通の書簡だ。だが、中に赤線が入っていることは、封を触っただけでわかる気がした。


「開けても?」


「馬車の中で。今開けると、あなたは議論を始めます」


「信用がない」


「経験則です」


アレクセイが横から現れた。


「その経験則、俺も支持する」


彼は厚手の帽子をかぶり、片手に小さな木箱を持っていた。無精髭が少し伸びている。朝早くから来たのだろう。目元は眠そうだが、口調は相変わらずぶっきらぼうだった。


「これを持っていけ」


「何ですか」


「粗い数表と、俺の検算用の枠だ。ベルリンで美しいだけの表を書いたら、これを見て反省しろ」


「贈り物の言い方ではないですね」


「贈り物じゃない。監視道具だ」


木箱を開けると、中には小さな数え玉と、折りたたみ式の表板が入っていた。第4部で使った触れる位置表を改良したものだ。数字が見えにくい時、指で動かして数列を追える。


「右目が悪いなら、手も使え」


アレクセイは視線を逸らして言った。


「お前の目がどこまで保つかは知らん。だが、数は目だけで読むものじゃない」


カタリナが静かに頭を下げた。


「ありがとうございます。馬車の中でも使えますね」


「揺れたら玉が落ちる。そこは工夫しろ」


「紐をつけます」


「早いな」


「必要ですので」


アレクセイは、少しだけ笑った。


エリザが言った。


「ヴォロンツォフ殿、宮廷文書の写しは」


「俺の机の下だ」


「不適切です」


「鍵付きの箱に入れた机の下だ」


「やや改善」


「ややかよ」


「定期報告を送ってください。符丁、給金、素数表の政治利用。三点です」


「わかってる」


「本当に?」


「かなり」


俺は思わず笑った。


アレクセイがこちらを睨む。


「お前の癖が移った。責任取れ」


「それは申し訳ない」


「謝るな。余計腹が立つ」


いつものやり取り。


だが、今日はそのいつも通りが痛かった。


俺は二人を見た。


エリザはロシアに残る。


アレクセイも残る。


二人とも危険な場所に残る。ヴォルコフがいる宮廷。給金の止まるアカデミー。紙の減っていく雪の都。そこへ、俺たちは背を向ける。


「本当に、残るんですね」


エリザが即答した。


「確認は不要です」


アレクセイも言う。


「しつこいぞ」


「そうですね」


「お前らが行く。俺たちは残る。それだけだ」


「それだけ、では」


「それだけにしとけ」


アレクセイの声が少しだけ低くなった。


「別れを大きくすると、後が面倒だ」


エリザが冷静に続ける。


「感傷は、判断を鈍らせます」


「二人とも、最後まで厳しいですね」


「当然です」


「当然だろ」


別々の声が、同じ意味で重なった。


カタリナは、二人へ小さな包みを渡した。


「こちらは、グゼル家工房の紙質記録です。ヴォルコフ様の文書と同じ紙が来たら、封を開ける前にわかります。それから、こちらは子どもの洗礼記録の写しです。念のため、こちらにも一部を」


エリザはそれを受け取った。


「家庭記録も分散するのですね」


「はい」


「有効です」


「ありがとうございます」


アレクセイが包みを持ち上げる。


「子どもの記録まで俺が見張るのか」


「嫌でしたか」


カタリナが不安そうに聞くと、アレクセイは顔をしかめた。


「嫌じゃねえ。責任が重いだけだ」


「では、お願いします」


「……任された」


その言い方が、少しだけ優しかった。


遠くで、御者が馬をなだめる声がした。馬の鼻息が白く上がる。車輪の近くで、凍った泥が割れる音。出立の時間が近い。


俺は家の扉へ振り返った。


この家で、どれだけの紙を守っただろう。バーゼル問題の写し。橋の地図。Mechanicaの大判写し。素数棚。アンナの手紙。ヴォルコフの符丁。カタリナの目録。子どもの出生記録。


この家の壁にも、きっとインクの匂いが染みついている。


「オイラー殿」


エリザが呼んだ。


「はい」


「ベルリンへ行っても、関数という語を軽く使わないでください」


「まだベルリン編に入ってもいないのに」


「予防です」


「また予防」


「あなたは新しい語を便利に使いすぎます。πの時もそうでした。積の時もそうでした。次は関数です。必ず曖昧になります」


「予言ですか」


「論理的予測です」


アレクセイが笑った。


「女史の予言は当たりそうで嫌だな」


エリザは俺に向き直った。


「赤線書簡は、月に一度送ります」


「多い」


「必要なら増やします」


「減る可能性は」


「ありません」


「はい」


彼女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「あなたが正しく書けば、短くなります」


「かなり難しい」


「努力では足りません」


「結果で示します」


エリザは満足そうに頷いた。


「よろしい」


アレクセイが、馬車の扉を叩いた。


「ほら、行け。雪が深くなる」


俺はカタリナを見た。彼女はヨハンを乳母から受け取り、しっかり抱いた。もう片方の手には、目録と小さな図版筒。妻で、母で、記録者で、俺の目でもある人。


「行きましょう」


カタリナが言った。


「はい」


馬車に乗る前に、俺はもう一度二人を見た。


「エリザ」


「はい」


「赤線、待っています」


「待たずに書きなさい」


「アレクセイ」


「何だ」


「数表を、頼みます」


「嘘にしねえよ」


短い。


それで十分だった。


馬車に乗り込むと、車内は革と毛布の匂いがした。木箱、紙束、子どもの毛布、薬草の包み。生活と数学の匂いが混ざっている。カタリナがヨハンを膝に抱き、俺の隣に座る。右目で窓の外を見ると、雪の白さが大きく滲んだ。左目で見ると、エリザとアレクセイの姿がはっきり見える。


御者が手綱を鳴らした。


馬車が動き出す。


車輪が凍った石畳を噛み、ゆっくり音を立てる。家が後ろへ下がる。雪の都が、少しずつ遠ざかる。エリザは動かず立っていた。赤い羽ペンの筒を胸元に抱えている。アレクセイは腕を組み、寒そうに肩をすくめながら、それでも最後までこちらを見ていた。


窓の曇りに、カタリナが指で小さく丸を描いた。


そこから外が少し見える。


「見えますか」


「左なら」


「では、左で見てください。右は、休ませましょう」


俺は頷いた。


馬車の中で、エリザの封書を開けた。予想通り、最初から赤字だった。


ベルリンへ行く前に、あなたは自分が逃げるのではないことを定義しなさい。


その下に、さらに一行。


移動とは、記録網の拡張である。


俺は笑った。


「どうしましたか」


カタリナが聞く。


「もう刺されました」


「エリザ様らしいです」


「ええ」


俺は封書を畳み、大判写しの箱にしまった。


窓の外で、サンクトペテルブルクの白い街が流れていく。ネヴァ川の方から、冷たい風が吹いてくる。雪の都には、赤線と数表が残った。素数の影も、符丁の記録も、給金停止の紙も、そこに残ったままだ。


俺たちはベルリンへ向かう。


右目の光は戻らない。


だが、紙は分かれた。


声は残った。


赤線は届く。


馬車が街の門へ近づいた時、膝の上の木箱が小さく鳴った。アレクセイの数え玉が、中で揺れた音だった。俺はその音を聞きながら、遠くのベルリンを思った。


次に開くのは、関数の世界だ。


雪の都の白さの向こうで、まだ見ぬ無限解析の扉が、静かに待っていた。


ここまで読んでいただきありがとうございます。

第五部:右目の曇りと素数の影、そして第一部から続いたサンクトペテルブルク編、これにて完了です。


次回、そして第六部。

雪の都を離れ、ベルリンへ向かうオイラーたち。

しかし待っていたのは、華やかな宮廷、鋭い機知、そして「正しさ」だけでは通じない新しい戦場だった。


片目の視界は狭くなる。

けれど、数と数を結ぶ“関数”という見方は、世界をどこまでも広げていく。


円、波、指数、そして虚数。

別々に見えていたものが、一つの式へ収束していくとき、校閲者はその接続を断とうとする。


次章、ベルリン編。

オイラーたちは、史上最も美しい数式に挑みます。

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