第49話 赤線は残る
「私は、行きません」
エリザのその一言は、雪の夜に置かれた刃のようだった。
部屋の中には、しばらく誰の息も聞こえなかった。
暖炉の火は小さくなり、黒くなりかけた薪の奥で赤い芯だけが残っている。
机の上には、ベルリンからの封書、給金延期の通知、アンナの警告、ヴォルコフの符丁文書、素数棚の図、そしてエリザの赤い羽ペンがあった。
すべてが別れの道具のように見えた。
「行かない、とは?」
俺はようやく言った。
「ベルリンへは同行しません」
エリザは正確に言い直した。
「サンクトペテルブルクに残る写しを見る者が必要です」
「でも」
「甘えです」
即座に切られた。
いつもの声だった。冷たく、正確で、逃げ道がない。
「あなたがベルリンへ持っていく草稿だけが、歴史ではありません。ここに残る写し、赤線、失敗表、符丁記録、橋の記録、宮廷報告書。これらを見る者が必要です」
「それは、ほかの誰かでも」
「無理です」
短い。
「なぜ?」
「赤線の意味を知っている者が少ない。校閲者の癖を知っている者も少ない。あなたの飛躍を見慣れている者は、さらに少ない」
アレクセイが横から言った。
「最後のは、まあまあ悪口だぞ」
「事実です」
「まあ、否定はしねえ」
俺も否定できなかった。
カタリナは、エリザを見つめていた。
彼女はまだ口を開かない。ベルリンへ行く決断を口にしたのはカタリナだ。
だが、エリザが残るということは、別の意味の重みを持っている。
ここまで何度も、エリザの赤線は俺たちを救った。その線が、これからは同じ机の上にない。
「エリザ様」
カタリナが静かに言った。
「本当に、残られるのですね」
「ええ」
「危険です」
「承知しています」
「ヴォルコフ様がいます。宮廷文書も、給金の問題も、校閲者の白化も」
「だから残ります」
エリザは、カタリナをまっすぐ見た。
「あなたは隣で彼の目になってください。私は、遠くから彼の誤字になります」
「え、誤字、ですか」
「訂正されるまで残る、厄介な赤です」
カタリナは少しだけ笑った。泣く寸前の笑いではなかった。
受け取ったものを、きちんと胸にしまうための笑いだった。
「それは、エリザ様らしいです」
「褒め言葉として受け取ります」
「はい。褒めています」
エリザは一瞬だけ目を伏せた。すぐに戻したが、その一瞬を俺は見逃さなかった。彼女も平気ではない。平気ではないのに、もう自分の役割を定義している。
役割が定まれば、名は残る。
アレクセイにも、ハインリヒにも、エリザ自身にも、起きたことだ。
この人は今、自分の役割と居場所を自分で定義している。
アレクセイが、符丁文書を指で叩いた。
「俺も残る。これは決まりだ」
「あなたは最初からそう言っていましたね」
「俺はロシアの計算官だ。宮廷の数表と文書を見る奴がいる。ヴォルコフみてえな陰気な野郎を野放しにしたら、素数表まで黒くなる」
「危険です」
カタリナが言う。
「危険じゃない仕事なんざ、最近見てねえよ」
「でも」
「俺たちが残る理由はある。お前らが行く理由もある。それでいい」
アレクセイは素数表を見た。
「ベルリンで偉くなっても、数表を嘘にするなよ」
「偉くなる予定はありませんよ」
「予定してなくても、勝手に偉くされることがある。名前ってのはそういうもんだろ」
その言葉は、妙に深かった。
Leonhard Euler。
守ってきた名。
その名が、どこへ行っても俺についてくる。
エリザが赤い羽ペンを取り、机に新しい紙を置いた。
「では、分割します」
「いまですか」
「当然です。感傷は後で処理してください」
「処理って」
「持ち出す写し。残す写し。送る写し。危険写し。焼却候補。分類します」
アレクセイが顔をしかめる。
「焼却候補って言い方、物騒だな」
「物騒な文書があるからです」
エリザはヴォルコフの符丁文書を指した。
「これは全写しを残してはいけません。残すなら解読記録と一緒に。単独で残せば、再利用されます」
「分かった。それは俺が預かる」
アレクセイが言った。
「符丁の原本、解読表、宮廷文書の紙質記録、俺の署名。まとめて航海局の裏保管へ入れる」
「信頼できますか」
エリザが問う。
「俺をか?」
「あなたではなく、航海局を」
「信頼はするな。だが、俺の机の下なら、宮廷の書庫よりましだ」
「では、保管場所を二重化します」
「俺の机の下まで分類するなよ」
「必要です」
カタリナが、そっと紙を出した。
「グゼル家工房にも、符丁の紙質記録だけ残します。内容は残さず、紙と封蝋の特徴を。もし同じ紙がまた来れば、わかります」
エリザが頷く。
「有効です。内容を残さず、媒体特徴を残す。危険写しの代替として適切です」
「ありがとうございます」
カタリナは柔らかく答えた。
俺は、素数棚の図を手に取った。第五の戦いの中心だった紙だ。棚の中は和。棚と棚の間は積。積が消されかけ、言葉を増やし、操作を残し、例を残した。ここまで来たのに、これを置いていくのか。
「素数棚は?」
「二部に分けます」
エリザが言った。
「ベルリンへ持つものには、素数棚の主図、十二分の一の例、接続手順を入れる。サンクトペテルブルクに残すものには、定義防衛、一の除外、二の特殊性、合成数表、赤線書簡を残す」
「なぜ分けるのですか」
「片方だけで完成しないようにするためです」
エリザは淡々と答えた。
「もしベルリン側が狙われても、定義の補助はここに残る。もしこちらが狙われても、主図はベルリンにある。校閲者に一箇所を消すだけで全体を壊させません」
アレクセイが低く言った。
「えげつねえな。だが、いい」
カタリナは、素数棚の図を二つに写し始めた。一本一本、棚の線を太く、数字を大きく。右目のための大字版と、通常版。紙の擦れる音が部屋に満ちた。外の雪音はない。夜が深くなり、街は静かだった。
俺は、ベルリンの封書を見た。プロイセン王フリードリヒ2世の招き、ベルリンの科学アカデミーにヨーロッパ中の学者を集めようという野心。俺に数学教室長の席を約束するとある。
「まだ、行くと正式に決めたわけでは」
「決めてください」
カタリナの声だった。
柔らかい。でも、今夜いちばん強い声だった。
「この街を離れましょう」
暖炉の火が小さく鳴った。
「カタリナ」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「君が生まれた街だ。君と出会った街。子どもたちが生まれた街でもあるのに?」
彼女は羽ペンを置き、こちらを見た。子どもを寝かしつける母の顔でもあり、紙を見る記録者の顔でもあり、俺の右目の滲みを知る妻の顔でもあった。
「ここに残れば、草稿は守れるかもしれません。でも、あなたの目、子どもたち、家、紙、薬、蝋燭。全部が少しずつ削られます。私は、あなたを歴史のためだけに削らせたくありません」
その言葉で、胸が詰まった。
歴史のためだけに。
俺は、ずっとそれを言い訳にしてきたのかもしれない。未来のため。数学史のため。オイラーの名のため。だが、それだけでは、人は生きられない。カタリナはそれを、黒パンと薬湯と子どもの匙と薄くなった紙で知っている。
エリザが静かに言った。
「移住は逃避ではありません。記録網の再配置です。あなたがベルリンへ行くことで、記録は二都市に分かれます。危険は増えますが、全滅確率は下がります」
アレクセイが肩をすくめる。
「女史らしい見送りだな。全滅確率だとよ」
「感傷より正確です」
「まあな」
俺は目を閉じた。
右側の白い滲みが消え、左側の視界も暗くなる。闇の中で、これまでの紙が浮かぶ。バーゼル問題の草稿。名簿。橋の地図。Mechanicaの大判写し。素数棚。アンナの警告。ヴォルコフの符丁。給金延期の通知。全部、雪の都に積もっている。
ここを離れる。
その言葉がようやく胸の中に落ちた。
「行きます」
俺は言った。
「ベルリンへ」
カタリナは目を閉じ、短く息を吐いた。
エリザはすぐに紙へ書いた。
『移住決定。記録分散開始』
「早い」
「決定事項は即時記録します」
「本当に容赦ない」
「揺らぐ前に固定します」
アレクセイが机を叩いた。
「よし。じゃあ、分けるぞ。俺は宮廷文書と数表を見る。ヴォルコフの野郎がまた素数を符丁に使ったら、こっちで潰す」
「危険な仕事です」
カタリナが言う。
アレクセイは胸をたたく。
「知ってる。でも、ロシアの紙はロシアにいる奴が見た方が早い」
エリザが続ける。
「私は、理論写しと赤線書簡を担当します。ベルリンへは定期的に赤線を送ります」
「定期的に刺すんですね」
「はい」
「はい、なんだ」
「定義は手紙でも刺せます」
アレクセイが笑った。
「ベルリンまで逃げても刺されるのか。気の毒だな」
「あなたの数表も刺します」
「俺もかよ」
「当然です」
カタリナが、エリザの前に一枚の紙を置いた。
「エリザ様。こちらに、ベルリンへの送付方法を書いていただけますか。赤線書簡が迷子にならないように、紙の大きさ、封蝋の色、折り方も決めておきたいのです」
「そうね。封蝋は赤ではなく茶色にします。赤は目立ちすぎます」
「赤線なのに?」
俺が言うと、エリザは冷静に答えた。
「赤線は中身です。封蝋まで赤くする必要はありません」
「なるほど」
「あなたは外見と機能を混同しがちです」
「最後まで刺す」
「今後も刺します」
カタリナは、そのやりとりを聞きながら小さく笑った。けれど、すぐにまた紙へ向かう。
作業は夜明け近くまで続いた。
持ち出す写し。残す写し。送る写し。危険写し。焼却候補。
素数棚の主図はベルリンへ。定義防衛はロシアへ。符丁文書の原本はアレクセイへ。紙質記録はグゼル家工房へ。赤線写しはエリザへ。右目用大判写しは二部作る。一部は持ち出し、一部は残す。
カタリナは、子どもの寝息を確かめに何度か部屋を出た。そのたびに、俺は机の上の小さな匙を見た。ベルリンへ持っていくものの中に、あの匙も入るのだろう。歴史ではなく、生活の道具として。
夜明け前、窓の外が淡く白み始めた。
サンクトペテルブルクの雪が、また街を覆っていた。すべてを隠す白。だが、俺たちの机の上では、紙が分けられ、封がされ、名が書かれていく。消されないためではない。離れても、つながるために。
エリザが最後に、素数棚のロシア側写しへ赤い線を一本入れた。
「これは?」
俺が聞くと、彼女は言った。
「未完の赤線です」
「未完?」
「あなたがベルリンで続きを書くまで、ここに残します」
「戻ってきた時に、また直されるの?」
「戻らなくても直しますよ。手紙で」
アレクセイが箱を閉じた。
「じゃあ、そろそろ寝ろ。明日から逃げる準備だ」
「逃げるではなく移住です」
エリザが訂正する。
「俺から見りゃ逃げるだ」
カタリナが柔らかく言った。
「では、逃げるように移ります。でも、記録は置いていきます。友情も」
アレクセイは、少しだけ黙った。
「それならいい」
エリザが俺を見た。
「オイラー殿」
「はい」
「ベルリンへ行っても、定義を甘くしないでください」
「努力します」
「努力では不十分です」
「かなり努力します」
「不十分です。結果で示しなさい」
最後までエリザだった。
俺は笑った。
右目の向こうで、彼女の輪郭は少し滲んでいる。けれど、赤い羽ペンだけは妙にはっきり見えた。たぶん、目で見えているのではない。ここまで何度も見てきたから、頭が覚えているのだ。
エリザは、赤い羽ペンを机に置いた。
「赤線は残ります」
その一言で、別れが決まった。
雪の都は、まだ白い。
右目の光は戻らない。
だが、素数の影と赤い訂正線は、サンクトペテルブルクに残ったまま、俺たちをベルリンへ送り出そうとしていた。




