表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
49/61

第49話 赤線は残る


「私は、行きません」


エリザのその一言は、雪の夜に置かれた刃のようだった。


部屋の中には、しばらく誰の息も聞こえなかった。

暖炉の火は小さくなり、黒くなりかけた薪の奥で赤い芯だけが残っている。

机の上には、ベルリンからの封書、給金延期の通知、アンナの警告、ヴォルコフの符丁文書、素数棚の図、そしてエリザの赤い羽ペンがあった。

すべてが別れの道具のように見えた。


「行かない、とは?」

俺はようやく言った。


「ベルリンへは同行しません」

エリザは正確に言い直した。


「サンクトペテルブルクに残る写しを見る者が必要です」


「でも」


「甘えです」


即座に切られた。


いつもの声だった。冷たく、正確で、逃げ道がない。


「あなたがベルリンへ持っていく草稿だけが、歴史ではありません。ここに残る写し、赤線、失敗表、符丁記録、橋の記録、宮廷報告書。これらを見る者が必要です」


「それは、ほかの誰かでも」


「無理です」


短い。


「なぜ?」


「赤線の意味を知っている者が少ない。校閲者の癖を知っている者も少ない。あなたの飛躍を見慣れている者は、さらに少ない」


アレクセイが横から言った。

「最後のは、まあまあ悪口だぞ」


「事実です」


「まあ、否定はしねえ」


俺も否定できなかった。


カタリナは、エリザを見つめていた。

彼女はまだ口を開かない。ベルリンへ行く決断を口にしたのはカタリナだ。

だが、エリザが残るということは、別の意味の重みを持っている。

ここまで何度も、エリザの赤線は俺たちを救った。その線が、これからは同じ机の上にない。


「エリザ様」

カタリナが静かに言った。

「本当に、残られるのですね」


「ええ」

「危険です」

「承知しています」

「ヴォルコフ様がいます。宮廷文書も、給金の問題も、校閲者の白化も」

「だから残ります」


エリザは、カタリナをまっすぐ見た。

「あなたは隣で彼の目になってください。私は、遠くから彼の誤字になります」


「え、誤字、ですか」


「訂正されるまで残る、厄介な赤です」


カタリナは少しだけ笑った。泣く寸前の笑いではなかった。

受け取ったものを、きちんと胸にしまうための笑いだった。


「それは、エリザ様らしいです」


「褒め言葉として受け取ります」


「はい。褒めています」


エリザは一瞬だけ目を伏せた。すぐに戻したが、その一瞬を俺は見逃さなかった。彼女も平気ではない。平気ではないのに、もう自分の役割を定義している。


役割が定まれば、名は残る。


アレクセイにも、ハインリヒにも、エリザ自身にも、起きたことだ。

この人は今、自分の役割と居場所を自分で定義している。


アレクセイが、符丁文書を指で叩いた。

「俺も残る。これは決まりだ」


「あなたは最初からそう言っていましたね」


「俺はロシアの計算官だ。宮廷の数表と文書を見る奴がいる。ヴォルコフみてえな陰気な野郎を野放しにしたら、素数表まで黒くなる」


「危険です」

カタリナが言う。


「危険じゃない仕事なんざ、最近見てねえよ」

「でも」

「俺たちが残る理由はある。お前らが行く理由もある。それでいい」

アレクセイは素数表を見た。

「ベルリンで偉くなっても、数表を嘘にするなよ」


「偉くなる予定はありませんよ」


「予定してなくても、勝手に偉くされることがある。名前ってのはそういうもんだろ」


その言葉は、妙に深かった。


Leonhard Euler。


守ってきた名。


その名が、どこへ行っても俺についてくる。


エリザが赤い羽ペンを取り、机に新しい紙を置いた。


「では、分割します」


「いまですか」


「当然です。感傷は後で処理してください」


「処理って」


「持ち出す写し。残す写し。送る写し。危険写し。焼却候補。分類します」


アレクセイが顔をしかめる。


「焼却候補って言い方、物騒だな」


「物騒な文書があるからです」


エリザはヴォルコフの符丁文書を指した。

「これは全写しを残してはいけません。残すなら解読記録と一緒に。単独で残せば、再利用されます」


「分かった。それは俺が預かる」

アレクセイが言った。

「符丁の原本、解読表、宮廷文書の紙質記録、俺の署名。まとめて航海局の裏保管へ入れる」


「信頼できますか」

エリザが問う。


「俺をか?」

「あなたではなく、航海局を」

「信頼はするな。だが、俺の机の下なら、宮廷の書庫よりましだ」

「では、保管場所を二重化します」

「俺の机の下まで分類するなよ」

「必要です」


カタリナが、そっと紙を出した。


「グゼル家工房にも、符丁の紙質記録だけ残します。内容は残さず、紙と封蝋の特徴を。もし同じ紙がまた来れば、わかります」


エリザが頷く。

「有効です。内容を残さず、媒体特徴を残す。危険写しの代替として適切です」


「ありがとうございます」

カタリナは柔らかく答えた。


俺は、素数棚の図を手に取った。第五の戦いの中心だった紙だ。棚の中は和。棚と棚の間は積。積が消されかけ、言葉を増やし、操作を残し、例を残した。ここまで来たのに、これを置いていくのか。


「素数棚は?」


「二部に分けます」

エリザが言った。

「ベルリンへ持つものには、素数棚の主図、十二分の一の例、接続手順を入れる。サンクトペテルブルクに残すものには、定義防衛、一の除外、二の特殊性、合成数表、赤線書簡を残す」


「なぜ分けるのですか」


「片方だけで完成しないようにするためです」


エリザは淡々と答えた。

「もしベルリン側が狙われても、定義の補助はここに残る。もしこちらが狙われても、主図はベルリンにある。校閲者に一箇所を消すだけで全体を壊させません」


アレクセイが低く言った。

「えげつねえな。だが、いい」


カタリナは、素数棚の図を二つに写し始めた。一本一本、棚の線を太く、数字を大きく。右目のための大字版と、通常版。紙の擦れる音が部屋に満ちた。外の雪音はない。夜が深くなり、街は静かだった。


俺は、ベルリンの封書を見た。プロイセン王フリードリヒ2世の招き、ベルリンの科学アカデミーにヨーロッパ中の学者を集めようという野心。俺に数学教室長の席を約束するとある。


「まだ、行くと正式に決めたわけでは」


「決めてください」

カタリナの声だった。


柔らかい。でも、今夜いちばん強い声だった。


「この街を離れましょう」


暖炉の火が小さく鳴った。


「カタリナ」

「はい」

「本当に?」

「はい」

「君が生まれた街だ。君と出会った街。子どもたちが生まれた街でもあるのに?」


彼女は羽ペンを置き、こちらを見た。子どもを寝かしつける母の顔でもあり、紙を見る記録者の顔でもあり、俺の右目の滲みを知る妻の顔でもあった。


「ここに残れば、草稿は守れるかもしれません。でも、あなたの目、子どもたち、家、紙、薬、蝋燭。全部が少しずつ削られます。私は、あなたを歴史のためだけに削らせたくありません」


その言葉で、胸が詰まった。


歴史のためだけに。


俺は、ずっとそれを言い訳にしてきたのかもしれない。未来のため。数学史のため。オイラーの名のため。だが、それだけでは、人は生きられない。カタリナはそれを、黒パンと薬湯と子どもの匙と薄くなった紙で知っている。


エリザが静かに言った。

「移住は逃避ではありません。記録網の再配置です。あなたがベルリンへ行くことで、記録は二都市に分かれます。危険は増えますが、全滅確率は下がります」


アレクセイが肩をすくめる。

「女史らしい見送りだな。全滅確率だとよ」


「感傷より正確です」


「まあな」


俺は目を閉じた。


右側の白い滲みが消え、左側の視界も暗くなる。闇の中で、これまでの紙が浮かぶ。バーゼル問題の草稿。名簿。橋の地図。Mechanicaの大判写し。素数棚。アンナの警告。ヴォルコフの符丁。給金延期の通知。全部、雪の都に積もっている。


ここを離れる。


その言葉がようやく胸の中に落ちた。


「行きます」


俺は言った。


「ベルリンへ」


カタリナは目を閉じ、短く息を吐いた。


エリザはすぐに紙へ書いた。


『移住決定。記録分散開始』


「早い」


「決定事項は即時記録します」


「本当に容赦ない」


「揺らぐ前に固定します」


アレクセイが机を叩いた。


「よし。じゃあ、分けるぞ。俺は宮廷文書と数表を見る。ヴォルコフの野郎がまた素数を符丁に使ったら、こっちで潰す」


「危険な仕事です」

カタリナが言う。


アレクセイは胸をたたく。

「知ってる。でも、ロシアの紙はロシアにいる奴が見た方が早い」


エリザが続ける。

「私は、理論写しと赤線書簡を担当します。ベルリンへは定期的に赤線を送ります」


「定期的に刺すんですね」


「はい」


「はい、なんだ」


「定義は手紙でも刺せます」


アレクセイが笑った。

「ベルリンまで逃げても刺されるのか。気の毒だな」


「あなたの数表も刺します」

「俺もかよ」

「当然です」


カタリナが、エリザの前に一枚の紙を置いた。


「エリザ様。こちらに、ベルリンへの送付方法を書いていただけますか。赤線書簡が迷子にならないように、紙の大きさ、封蝋の色、折り方も決めておきたいのです」

「そうね。封蝋は赤ではなく茶色にします。赤は目立ちすぎます」


「赤線なのに?」

俺が言うと、エリザは冷静に答えた。


「赤線は中身です。封蝋まで赤くする必要はありません」


「なるほど」


「あなたは外見と機能を混同しがちです」


「最後まで刺す」


「今後も刺します」


カタリナは、そのやりとりを聞きながら小さく笑った。けれど、すぐにまた紙へ向かう。


作業は夜明け近くまで続いた。


持ち出す写し。残す写し。送る写し。危険写し。焼却候補。


素数棚の主図はベルリンへ。定義防衛はロシアへ。符丁文書の原本はアレクセイへ。紙質記録はグゼル家工房へ。赤線写しはエリザへ。右目用大判写しは二部作る。一部は持ち出し、一部は残す。


カタリナは、子どもの寝息を確かめに何度か部屋を出た。そのたびに、俺は机の上の小さな匙を見た。ベルリンへ持っていくものの中に、あの匙も入るのだろう。歴史ではなく、生活の道具として。


夜明け前、窓の外が淡く白み始めた。


サンクトペテルブルクの雪が、また街を覆っていた。すべてを隠す白。だが、俺たちの机の上では、紙が分けられ、封がされ、名が書かれていく。消されないためではない。離れても、つながるために。


エリザが最後に、素数棚のロシア側写しへ赤い線を一本入れた。


「これは?」


俺が聞くと、彼女は言った。


「未完の赤線です」


「未完?」


「あなたがベルリンで続きを書くまで、ここに残します」


「戻ってきた時に、また直されるの?」


「戻らなくても直しますよ。手紙で」


アレクセイが箱を閉じた。

「じゃあ、そろそろ寝ろ。明日から逃げる準備だ」


「逃げるではなく移住です」

エリザが訂正する。


「俺から見りゃ逃げるだ」


カタリナが柔らかく言った。

「では、逃げるように移ります。でも、記録は置いていきます。友情も」


アレクセイは、少しだけ黙った。

「それならいい」


エリザが俺を見た。

「オイラー殿」


「はい」

「ベルリンへ行っても、定義を甘くしないでください」

「努力します」

「努力では不十分です」

「かなり努力します」

「不十分です。結果で示しなさい」


最後までエリザだった。


俺は笑った。


右目の向こうで、彼女の輪郭は少し滲んでいる。けれど、赤い羽ペンだけは妙にはっきり見えた。たぶん、目で見えているのではない。ここまで何度も見てきたから、頭が覚えているのだ。


エリザは、赤い羽ペンを机に置いた。


「赤線は残ります」


その一言で、別れが決まった。


雪の都は、まだ白い。


右目の光は戻らない。


だが、素数の影と赤い訂正線は、サンクトペテルブルクに残ったまま、俺たちをベルリンへ送り出そうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ