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第48話 雪の都を離れるか


『当月分支払い、延期。


理由、宮廷手続き停滞』


会計係の通達は、たったそれだけだった。

だが、その紙はどの校閲者の黒字よりも現実的に冷たかった。

机の上には、素数表、符丁の解読記録、アンナの警告、ヴォルコフの宮廷文書、そして給金延期の通知が並んでいる。

紙の匂いは同じなのに、そこに書かれた言葉はそれぞれ別の方向から俺たちの首を締めていた。


外は雪だった。

サンクトペテルブルクの雪は、すべてを同じ白に沈める。屋根も、道も、馬車の轍も、貧しい書記の靴跡も、宮廷へ向かう橇の跡も。

窓の向こうで、街は静かに見える。だが、その静けさの下で、給金が止まり、宮廷文書が陰で動き、アンナが去り、ヴォルコフが入ってきた。


「金が止まった」

アレクセイが言った。


ぶっきらぼうな声だったが、冗談は混じっていなかった。


「一月遅れなら、まだ耐えられる奴もいる。二月止まれば、書記が消える。三月止まれば、紙屋が先払いを要求する。半年なら、研究じゃなく飢えの話になる」


エリザは通知を読み返し、淡々と言った。

「宮廷手続き停滞、という表現は虚偽に近い婉曲ね。実質的には支払い凍結でしょう」


「言い方を硬くすれば腹が膨れるのか」


「膨れません。だから記録します」


「ほんと、何でも記録だな」


「記録しなければ、後で誰かが『延期はなかった』と言う」


カタリナは、通知の紙質を見ていた。指先が、紙の端をそっとなぞる。彼女は最近、紙を見る時に少し眉を寄せる癖がついた。悪い紙、急いだ紙、隠した紙。その違いを見ている。


「この紙、会計係の通常紙ではありません。少し薄いです。急ぎの通達用か、在庫が少ないのかもしれません」


「在庫が少ない?」


「紙を節約している可能性があります」


その言葉で、部屋の中がさらに寒くなった。


紙がない。


それは、俺たちにとって血が減るのに近い。


名を守るにも、式を残すにも、図を描くにも、素数表を写すにも、紙がいる。

右目が悪くなった今は、大きな字で書くために、なおさら紙がいる。

紙が止まれば、見える形へ変えることすら難しくなる。


俺は右目を閉じ、左目で机の紙束を見た。


白、黄、薄灰。カタリナが分けた紙の色。素数表、合成数表、単位表。今やそれらは、単なる道具ではない。俺の右目を補う視界だった。


「ベルリンからの書簡は?」

エリザが聞いた。


俺は少し躊躇った。


その話は、まだ机の上に出したくなかった。だが、もう隠せる状況ではない。


「あります」


カタリナが静かにこちらを見た。

「いつ届いたものですか」


「三日前です」


「なぜ、おっしゃらなかったのですか」


責める声ではなかった。だからこそ、胸に刺さった。


俺は引き出しから封書を出した。

紙は上質で、サンクトペテルブルクの湿った紙とは少し違う。乾いていて、軽い。遠い街の空気を含んでいるようだった。

封蝋には、ベルリンからの印が押されている。


アレクセイが目を細めた。


「フリードリヒのところか」


「まだ正式な招きではありません。可能性の打診です」


エリザが短く言う。

「十分よ」


「何が」


「ここを離れる理由が揃い始めてる」


部屋が静かになった。


カタリナの指が、机の上の子どもの小さな木製の匙に触れた。

俺達の息子ヨハン・アルブレヒトのものだ。

まだ言葉も少ない幼子の道具が、素数表と宮廷文書の間にある。その小ささが、急に重かった。


「ここを離れるとしたら……」


カタリナがうなづいて、俺の言葉を待った。

「はい」


エリザは待たなかった。

「給金停止。宮廷の数学利用。アンナ様の退去。ヴォルコフの介入。右目悪化。紙不足。家庭の安全。すべて同じ方向を指しているわ。何を迷うの?」


「まとめるなよ」

アレクセイが言った。

「嫌なものが束にするな」


「束にしなければ判断できません」


「わかってるよ」

彼は窓の外を見た。

「だが、ロシアを出るってのは簡単じゃない。記録を置いていくことになる」


「それが嫌なんです」

俺は言った。


声が思ったより低くなった。


「ここには、バーゼル問題の写しも、橋の記録も、『Mechanica』の原稿も、素数表もある。エリザの赤線も、アレクセイの数表も、イワンの記録も、グゼル家の工房帳も。全部、ここに根を張っている」


「根があるからといって、凍った土にしがみつく必要はないわ」

エリザの声は冷たい。


だが、そこには少しだけ別の感情が混じっていた。


「根を分けるの。全部を持ち出す必要はありません。持ち出す写し、残す写し、隠す写し、送る写し。分類します」


アレクセイが苦笑した。

「また分類か」


「分類は防衛です」


「もうそれ、祈りだな」


「祈りより有効です」


カタリナは、ずっと黙っていた。


彼女はベルリンの封書を見て、次にヨハンの匙を見て、最後に俺の顔を見た。

右目を見ている。俺が隠そうとしても、彼女には見える。右側の白い滲み、細字を避ける癖、光を嫌うまぶたの動き。

彼女は全部を記録し、全部を心の中で並べている。


「レオンハルト様」


「はい」


「この街に残れば、草稿は守れるかもしれません」


柔らかい声だった。


だが、その先を聞く前から、胸が痛んだ。


「でも、あなたと子どもたちは守れません」


誰も口を挟まなかった。


カタリナは続ける。


「紙が足りなくなれば、大きな字で書けません。給金が止まれば、家の食べ物も、薬も、蝋燭も、紙も減ります。宮廷が変われば、あなたの数は別の名前で呼ばれるかもしれません。ヴォルコフ様は、数字を運命に使おうとしました。次は、もっと悪い使い方をするかもしれません」


「カタリナ」


「私は、怖いのです」


彼女ははっきり言った。


「草稿が消えることも怖いです。でも、あなたがこの街で削られていくことの方が、もっと怖い」


アレクセイが、何も言わずに目を逸らした。


エリザは静かに見ている。


俺は、返す言葉を探した。


歴史を守る。


未来を守る。


オイラーの名を守る。


ずっとそう言ってきた。


だが、目の前には妻がいて、子どもの匙があって、薬湯の匂いがして、右目は戻らない。未来文明より先に、明日の紙と食事と安全がある。


「ベルリンへ行けば、安全だという保証はありませんよ」

俺は言った。


「ええ」

カタリナは頷いた。

「でも、このままここに残るより、選べることが増えます」


「選べること」


「はい。紙を選ぶ。家を選ぶ。医者を選ぶ。誰の前で何を書くかを選ぶ。今のサンクトペテルブルクでは、それが減っていきます」


その言葉は、素数よりも明確だった。


カタリナは政治家ではない。

だが、生活の減り方を知っている。


紙が薄くなること、薬湯が減ること、蝋燭を節約すること、子どもの匙を見ながら移住を考えること。それは、宮廷文書よりも正確な現実だった。


アレクセイが机の上の符丁文書を指した。


「俺は残る」


「アレクセイ」


「先に言っとく。俺はロシアの計算官だ。宮廷の文書、数表、給金の流れ。こっちで見張る奴が要る」


エリザが続けた。

「私も同意見です。理論記録と赤線の写しは、サンクトペテルブルクに残る必要があります」


「まだ、行くと決めていません」


「決める前に、残すものを設計するの」

エリザは机に新しい紙を置いた。


持ち出す写し。残す写し。送る写し。焼く写し。


「焼く?」


カタリナが驚く。

「危険な宮廷符丁の写しなど、残す場所を誤れば害になります。全部を残すことが記録ではありません」


アレクセイが頷いた。

「そいつは俺が見る。燃やすべき紙は燃やす」


「あなたに任せると全部燃えそうです」


「失礼だな。半分は残す」


「余計不安です」


少しだけ、部屋に薄い笑いが生まれた。だが、それもすぐ消えた。


ベルリンの封書が、机の中央にある。


行くか。残るか。


俺はそれを見た。右目では封蝋が滲む。左目では読める。

だが、どちらの目でも、そこにある未来の形はまだはっきり見えなかった。

転生者である俺は未来を知っている。

しかしこの街で数学を守ってきた俺は、ここで名を成し、妻を娶り、友を得たのだ。


その時、ベルリンの封書の端に、黒い文字が浮かんだ。


【雪の都を離れれば、残した名が消える】


カタリナが息を呑む。


エリザが赤い羽ペンを構える。


アレクセイが低く言った。


「脅しだな」


「はい」


俺は、黒い文字を見た。


【離れれば、名が消える】


残れば、身体と家族が削られる。


校閲者はいつも、選択肢そのものを汚してくる。


カタリナが、俺の手にそっと手を重ねた。


「大丈夫です。離れても、残せるようにしましょう」


「どうやって?」


「これまでと同じです。写しを分けます。声に出します。誰が何を見るかを決めます。あなたがいなくても、紙が息をできるようにします」


エリザが静かに言った。

「そのために、私が残るわ」


その一言で、部屋の空気が止まった。


俺はエリザを見た。


彼女はもう決めていた顔だった。


「私は、行きません」


その言葉が、雪の夜より冷たく、そして確かに響いた。


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