第47話 符丁と素数表
ヴォルコフが去った後、部屋には湿った外套の匂いが残った。
あの男が持ち込んだ宮廷文書は、机の上で冷たく沈黙している。
皇子イワン。星回り。暦。周期。誤差。
紙に並ぶ言葉のひとつひとつが、数学ではなく権力の手垢を帯びているようだった。
アンナの手紙はその横に置かれている。
星ではなく暦を語れ。運命ではなく周期を語れ。未来ではなく誤差を語れ。
その三行だけが、冷たい水の中に沈めた刃のように光っていた。
俺は右目を閉じ、左目で宮廷文書を読んだ。
右目では、文字が白い煙の向こうに溶ける。左目なら読める。けれど、読めることが嬉しくない文書もある。皇子の未来を数で保証せよ、という圧力は、文字の形を取った呪いだった。
エリザが、文書の表題を赤で直している。
「皇子の星回り、という表題は不可。暦周期および誤差に関する数学的所見。これ以外は認めません」
「認めないと言って、宮廷が従いますか」
「従わせるために、全写しへ同じ表題を入れます。表題は分類です。分類が崩れれば、内容は利用されます」
アレクセイが椅子の背に寄りかかり、腕を組んだ。顔は不機嫌というより、ずっと奥で何かを警戒している顔だった。
「ヴォルコフは表題なんか気にしねえぞ。あいつは、欲しい言葉だけ切り取る」
「だから切り取られても意味が変わらないよう、文ごと固めます」
「女史の文は固すぎて、切る前に刃が欠けそうだな」
「それが目的です」
カタリナは、ヴォルコフの置いていった封書を調べていた。紙の厚さ、折り目、封蝋の色、筆跡。柔らかい手つきだが、見る目は鋭い。
「この封書、表の文と内側の文で筆跡が違います。表の宛名は宮廷書記の手ですが、内側の依頼文は別人です。ヴォルコフ様ご本人ではないかもしれません」
「誰が書いたかも隠しているのか」
「はい。ですが、急いで書いたものではありません。準備されていた文書です」
エリザが赤い羽ペンを止めた。
「つまり、アンナ様の失脚前から用意されていた可能性があるってこと?」
アレクセイが低く舌打ちした。
「あの陰気野郎、出番を待ってたってわけか」
机の端で、素数表がまだ開かれていた。
二、三、五、七、十一。
素数棚の図。棚の中は和、棚どうしは積。その図の横に、宮廷文書が置かれている。
数の骨を見つけるための紙と、数を権力の飾りにしようとする紙。似たインクで書かれているのに、匂いが違うように感じた。
カタリナが、ふと宮廷文書の裏を見た。
「数字があります」
「数字?」
俺は身を乗り出した。
裏面の下端に、小さな数字が並んでいた。二、三、五、七、十一、十三。素数表の始まりと同じ数字。その間に、短い線と点が打たれている。飾りのようにも見える。だが、飾りにしては規則的すぎた。
アレクセイの顔が変わった。
「おい、見せろ」
彼は文書を引き寄せ、数字列を睨んだ。目が速い。実務計算官の目だ。俺が読むより先に、彼は舌打ちした。
「符丁だ」
エリザが眉を寄せる。
「断定できますか」
「数字の並びが文の区切りに合ってる。二、三、五、七で単語をずらしてる。素数表を鍵にしてるつもりだな」
「鍵?」
カタリナが聞く。
アレクセイは紙を取り、ざっと線を引いた。
「たとえば、文の一文字目を二つ進める。次は三つ、次は五つ。そんな具合に、素数の列をずらし幅として使う。雑だが、知らない奴には読みにくくなる」
「秘密文書ですか」
「秘密文書ごっこだ」
アレクセイは吐き捨てるように言った。
「素数を使えば賢く見えると思ってやがる」
エリザの表情が冷えた。
「数学の権威を符丁の飾りに使っている」
「それだけならまだいい」
アレクセイが言った。
「雑な符丁は、破られる。破られたら、素数表のせいにされる。数学が漏洩を生んだ、とな」
俺は奥歯を噛んだ。
ヴォルコフの顔が浮かぶ。数を理解しないが、権威として利用する男。
数学が何を保証し、何を保証しないかなど気にしない。
宮廷文書に素数を散らせば、それだけで神秘と威厳が増すと考える。
カタリナが、素数表の端をそっと押さえた。
「素数表が、星回りではなく、秘密の手紙にも使われようとしているのですね」
「使われること自体が問題じゃない」
エリザが言った。
「問題は、誤った分類よ。素数表は公開され、検算される数学的記録です。それを秘密権力の道具として扱えば、表そのものの意味が歪む」
アレクセイが頷いた。
「それと、雑だ。とにかく雑だ。俺ならこんな符丁、三日で破る」
「三日もかかるのですか」
エリザが聞く。
「皮肉か? 俺はお前ら天才とは違う。凡人だ」
「単なる事実確認です」
「半日だよ、悪かったな」
カタリナが小さく笑いそうになったが、すぐに文書へ視線を戻した。
その時、素数表の上に黒い文字が浮かんだ。
【数は隠すためにある】
部屋の空気が冷えた。
エリザが即座に断定する。
「誤りです」
アレクセイが机を叩いた。
「違う。数は隠すためにも使えるが、それだけじゃねえ」
「それだけ、という曖昧さが危険です」
エリザは赤い羽ペンを構えた。
「数は隠すためにある、という命題を否定します。数は検算可能性を持つ。公開され、再現され、訂正されることで信頼される」
「長いぞ」
アレクセイが言う。
「長くします。短い標語は政治に盗まれます」
俺も羽ペンを取った。
『素数表は、秘密の飾りではない。検算できる骨である』
エリザがすぐに赤を入れる。
「骨、は比喩。正式文は、公開検算可能な数表、と併記してください」
「はい」
俺は続けて書いた。
『素数表は、公開検算可能な数表である』
黒い文字が揺れた。
【数は隠すためにある】
その文字は消えない。
むしろ、宮廷文書の裏の数字列が黒く濃くなった。
素数が、符丁の鎖のように紙へ沈み込んでいく。
アレクセイが低く言った。
「こいつは、俺がやる」
「何を?」
「破ってやる。今ここで」
彼は宮廷文書を引き寄せ、素数列を横に写した。
二、三、五、七、十一、十三。
次に、文中の文字を数え始める。
この男、仕事で膨大な数表を扱ってきたのだ。
口は悪いが、手は速い。紙に点を打ち、線で結び、ずらし幅を書き込む。数字の上に数字が重なり、乱暴な地図のような紙面になった。
「これ、皇子の文書じゃねえ。別の指示が隠れてる」
「読めますか」
カタリナが聞く。
「待て。雑すぎて逆に面倒だ」
「雑なのに面倒なんですか」
「雑な鍵は、作った奴の癖まで読まなきゃならねえ」
エリザが冷静に言った。
「作成者の癖を特定できれば、ヴォルコフ側の文書作成過程も見てくるかも」
「そういうことだ。女史は話が早くて嫌だな」
「嫌われても問題ありません」
アレクセイは文句を言いながらも、手を止めなかった。
カタリナは別紙に、符丁の写しを丁寧に作る。
原文、素数列、ずらし幅、アレクセイの解読手順。
彼女の紙では、乱暴な作業が整えられていく。
俺はそれを見ていた。右目では細い数字が滲む。
だが、アレクセイが読み上げる声がある。カタリナの太字がある。エリザの分類がある。
「出た。くそ」
アレクセイが言った。
声が低かった。
「何と?」
彼は紙をこちらへ向けた。
『税支払い停止中のアカデミー費目を凍結せよ』
しばらく誰も言わなかった。
エリザが表情を硬くした。
「給金停止ですか」
「少なくとも、アカデミーへの支払いを止める話だ。皇子の星回りの文書に、そんな命令を隠してやがる」
カタリナが手を止めた。
「つまり、星回りの依頼は、表向きだけではなく、別の命令を運ぶ紙でもあったのですね」
「そうだ」
アレクセイは吐き捨てた。
「ヴォルコフの野郎、素数表を飾りどころか、宮廷の懐刀にする気だ」
俺は、机の上の素数表を見た。
公開された数表。検算できる骨。
それが、秘密命令の隠れ蓑にされている。
「このままだと」
エリザが言った。
「素数表の価値は、秘密通信の便利な道具として宮廷に吸い上げられます。数学的公開性が失われる」
アレクセイが頷く。
「それに、アカデミーの金が止まる。紙も買えねえ。人も逃げる」
「それが狙いかもしれません」
俺は言った。
「数学の記録網を弱めるために、まず紙と給金を止める」
黒い文字が、また濃くなった。
【数は隠すためにある】
俺は、それを睨んだ。
「違う」
声が低くなった。
「数は、隠すためだけにあるんじゃない」
エリザが言う。
「だけ、を入れると弱くなるわ。肯定余地を残してしまう」
「では」
俺はペンをとった。
『数は、検算されることで信頼される』
カタリナが太字で清書する。
アレクセイが素数符丁の解読手順を書き足す。
「この符丁は破れた。理由は、鍵にした素数表が公開されていて、ずらし方が粗いからだ。つまり、素数表のせいじゃない。使い方が雑だからだ」
エリザが補う。
「数学の失敗ではなく、利用者の失敗。分類を明確化します」
カタリナが書く。
『符丁失敗記録
素数表の問題ではない。
使用法の問題』
黒い文字が薄れた。
【数は隠すためにある】
その文は消えないが、命令のような強さを失った。
アレクセイが、解読済みの宮廷文書を机の中央に置いた。
「これは俺が預かる」
「危険です」
カタリナが言う。
「知ってる」
「なぜですか」
「俺はロシア側の人間だ。宮廷文書と数表を見張るなら、俺が残るしかねえ」
残る。
その言葉が、部屋に落ちた。
まだ誰も、行くとは言っていない。けれど、アレクセイはもう、その先を見ている。
エリザもまた、静かに言った。
「私も写しを持ちます。理論記録と赤線は、サンクトペテルブルク側に残す必要があります」
俺は二人を見た。
「まだ、何も決まっていません」
「決まってからでは遅いの」
エリザは断定した。
「給金停止、宮廷符丁、アンナ様の退去。環境条件は悪化しています。移動可能性を前提に記録分散を始めるべきよ」
アレクセイがぶっきらぼうに言う。
「逃げる準備くらいしとけ。逃げるかどうかは後で決めりゃいい」
カタリナは黙っていた。
彼女は素数表ではなく、部屋の隅に置かれた子どもの小さな上着を見ていた。
家庭の匂い。雪の都。右目の悪化。給金の不安。宮廷の湿った影。
すべてが、彼女の中で何かを結び始めているのがわかった。
その時、書記がまた扉を叩いた。
今日は、扉がよく鳴る。
「オイラー殿。アカデミー会計係より、至急の通達です」
アレクセイが低く言った。
「来たか」
書記が差し出した紙には、短い文があった。
『当月分支払い、延期。
理由、宮廷手続き停滞』
カタリナの手が、紙の端で止まった。
エリザが目を細める。
アレクセイは笑わなかった。
俺は、机の上の素数表を見た。
数の骨は見えてきた。
だが、その骨を残す紙を買う金が、雪の都から消え始めていた。




