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第46話 皇子の星回り


アンナの手紙は今、素数棚の図の上に置かれていた。


二の棚、三の棚、五の棚。その間を結ぶ線の上に、宮廷からの冷たい警告が重なっている。


『星ではなく暦を語れ。運命ではなく周期を語れ。未来ではなく誤差を語れ』


アンナらしい文だった。感情を削ぎ落とし、逃げ道だけを細い針のように残す。だが、その字の乱れだけが、彼女の失脚が本物であることを物語っていた。


部屋の中には、まだ夜の湿り気が残っていた。

蝋燭の芯が短くなり、油の匂いが濃い。外套についた雪が床で溶け、水の輪を作っている。

素数表、単位表、合成数表、素数棚。数の骨を見つけかけた机が、今は宮廷の影で冷えていた。


「明朝、この都を離れる、ですか」

カタリナが手紙をそっと見た。紙に触れる指先がいつもより慎重だった。

「封蝋が乱れています。急いで閉じたものです。筆圧も、最後の三行だけ強いです」


「最後の三行」

俺はもう一度読んだ。


『星ではなく、暦を語りなさい。

運命ではなく、周期を語りなさい。

未来ではなく、誤差を語りなさい』


エリザは腕を組んだまま、窓の外を見ていた。硝子の向こうは黒く、雪明かりだけが薄く残っている。

「合理的な警告よ。アンナ様は、宮廷内で数学の利用法を理解していた。危険ではありましたが、交渉可能だったわ」


「過去形にするなよ」

アレクセイが低く言った。

「まだ死んだわけじゃねえ」


「失脚した権力者は、しばしば死者より発言力がないの」


「相変わらず言い方がきついな」


「事実だから」


アレクセイは舌打ちした。彼の顔には、不快感だけでなく焦りがあった。宮廷で禄を食み、その空気を知る者の顔だ。アンナが去る意味を、俺よりよく知っている。


「悪くなるぞ」


「何がですか?」


「全部だ。記録、宮廷からの依頼、アカデミーへの圧力。場合によっちゃ給金も。一番痛いのは、文句を言おうにも、話の通じる奴がいなくなることだ」


カタリナは手紙を折り直した。

「それでも、警告を残してくださいました」


「だから余計に悪いんだよ」

アレクセイは窓の方を見た。

「逃げる奴が、最後にまともな忠告を残す時は、本当に危ない」


その言葉は、部屋の空気をさらに重くした。


俺は手紙を見つめた。

イワン六世。幼い皇子。星回り。未来。

転生者である俺は知っている。だが、口に出せない。出せば、歴史だけでなく、人の命や運命に触れる。

数式ならまだ逃げ道がある。証明が必要だ、記録が必要だ、時期が違う、と言える。最悪、俺が失敗しても、誰かがカバーしてくれる可能性がある。

だが、未来そのものを問われたらどうする? 知っている未来を、知らないふりでやり過ごせるのか。


「私は占星術師ではありません」

まだ誰も来ていないのに、俺はそう呟いた。


エリザが即座に言った。

「その返答だけでは不足よ。拒否だけなら敵を作る。アンナ様の警告通りに」


「では、どうしろと?」


「思い出して。アンナ様は、あなたの『命中表ではなく誤差表を』というのを覚えていた。だからこんな警告を残したのよ。……暦、周期、誤差へ転換する。未来予言ではなく、計算可能な繰り返しへ落とす。言葉を間違えれば、数学の権威を占星術へ貸すことになるわ」


カタリナが柔らかく続けた。

「星の位置を記録することと、皇子様の未来を決めることは、違うのですね」


「違います」


「では、その違いを、紙に残しましょう。後で言葉を変えられないように」


アレクセイが頷いた。

「まず書け。宮廷の連中は、口で言ったことを都合よく畳む。紙に釘を打っとけ」


俺は羽ペンを取った。


『星の位置は計算できる。人の運命は計算しない』


  ◇  ◇  ◇


そう書いた数日後、扉が叩かれた。


三度。


ゆっくりと。


夜の来訪にしては丁寧すぎる音だった。丁寧すぎて、不吉だった。


カタリナとエリザは素数表とアンナの書簡を別々の紙束に分けた。

アレクセイは椅子から立ち上がり、扉の方を睨んだ。


「来たな」


扉が開いた。


入ってきた男は、雪を払っていなかった。黒い外套の裾から溶けた水が石床へ落ち、点々と跡を作る。

痩せた長身。色の薄い唇。目の下に影があり、顔全体に湿った灰のような暗さがあった。

礼は深い。だが、その礼には敬意ではなく、手続きを済ませる冷たさだけがあった。


「夜分に失礼いたします」


声は低く、滑らかだった。暖かさのない絹のような声。


「グリゴリー・ヴォルコフ。宮廷より参りました」


アレクセイの顔が硬くなった。

「ヴォルコフか」


男はゆっくり彼を見る。


「航海局のヴォロンツォフ殿。まだこちらに?」

「悪いか」

「いいえ。証人が多いのは、宮廷にとっても有益です」


嘘だ。


その声だけでわかった。


ヴォルコフは、机の上の紙束を見た。素数棚、単位表、合成数表。アンナの手紙はカタリナが戸棚に隠しておいた。彼の目はそこへ一瞬だけ向き、すぐ離れた。気づいたのか。気づいていないふりをしたのか。判断できなかった。


「オイラー殿」

「はい」

「宮廷は、あなたの数に期待しております」

「私は宮廷の期待が苦手です」


ヴォルコフの唇が少しだけ動いた。笑みの形だが、笑ってはいない。


「謙遜は不要です。あなたは偉大な数学者だ。この国で既に大きな成功を収められた。数式は、無限を測り、都市を読み、運動を追った。ならば、星の巡りにも光を当てられるでしょう」


エリザが低く言った。

「数学と占星術を混同しないでください」


ヴォルコフは、礼儀正しく彼女へ顔を向けた。

「ベルヌーイ嬢。混同するかどうかを決めるのは、学者ではなく宮廷である場合もあります」


「それは誤謬です」


「誤謬でも、印章が押されれば文書になります」


部屋の温度が下がった。


アンナの危険は、刃のようだった。触れれば切れるが、刃の形は見えた。

ヴォルコフの危険は湿った布のようだ。じわりと口と鼻を塞いでくる。


彼は懐から封書を出した。


「皇子イワンの星回りについて、アカデミーの数学的所見を求めます」


来た。アンナの警告そのままだ。


カタリナの指が少し動いた。

アレクセイは舌打ちを飲み込んだ。

エリザは、赤い羽ペンを持ったまま動かない。


俺は封書を受け取らなかった。


「私は占星術師ではありません。その依頼は然るべき方へどうぞ」


ヴォルコフは封書を差し出したまま、静かに言った。


「未来を言い当てよ、とは申しません。ただ、皇子の星回りに、数の保証を添えていただきたい」

「同じことです」

「いいえ。言葉が違います」

「言葉を変えても、中身は変わりません」

「中身が変わらなくても、記録は変わります」


その言葉に、胸の奥が冷えた。


こいつは数学を理解していない。だが、記録の力は知っている。

ある意味ではイワンより厄介だった。イワンは記録を操ることを楽しんでいた。ヴォルコフは記録を、宮廷のために淡々と汚す。


「数は未来を命令しません」

俺は言った。

「ただ、繰り返しの構造を見せるだけです」


ヴォルコフの目が、わずかに細くなる。

「繰り返し。周期。暦。よい言葉です」


しまった。

アンナの助言通りに逃がしたつもりだったが、相手はその言葉すら拾う。


「では、皇子の未来ではなく、星の周期と暦の誤差についてご説明いただきましょう。宮廷は、それを星回りの所見として扱います」


「扱わせません」

エリザが即座に言った。

「周期計算と星占いは別分類です。文書名を分けなさい」


ヴォルコフは彼女を見る。


「分類にこだわる方ですね」

「分類は防衛です」

「防衛」


彼はその言葉を、舌の上で転がすように繰り返した。


「宮廷は、防衛よりも効能を求めます」


アレクセイが前に出た。


「効能が欲しけりゃ、薬屋へ行け。数で皇子の運命なんざ作るな」

「粗野ですね」

「お前よりはましだ」

「航海局の計算官が、宮廷使者へその口を」

「記録しとけよ。俺は後で読み返しても後悔しない」


ヴォルコフの表情は変わらない。だが、目の奥だけが暗くなった。


カタリナが静かに紙を出した。


「では、今ここで文書の表題を記録いたします。皇子の星回り、ではなく、暦周期および誤差に関する数学的所見。よろしいでしょうか」

柔らかい声だった。


だが、彼女の手はすでに表題を書き始めている。


ヴォルコフはしばらく黙った。


「オイラー夫人。あなたは、紙の上で逃げ道を作るのが上手い」


「逃げ道ではありません。道の名前を間違えないようにしているだけです」


その言葉は静かに効いた。


エリザが短く言う。

「妥当です」


俺はようやく封書を受け取った。

「受けるのは、暦周期と誤差に関する所見だけです。皇子の運命については、一切書きません」


ヴォルコフは深く礼をした。

「もちろんです」


信用できない。まったくできない。


封書を開くと、宮廷の命令文が現れた。皇子イワン。星。誕生時刻。吉凶。未来の安泰。そんな言葉が並ぶ。その黒い文字は、紙の上で妙に生々しかった。


すると、その余白に、校閲者の黒い文字が浮かび上がった。


【未来を知る者は、未来を語れ】


俺の手が止まった。

カタリナが息を呑む。

エリザの目が鋭くなる。

アレクセイが低く呟く。

「最悪だな」


ヴォルコフだけが、薄く笑った。

「ほう。紙も、そう申しておりますね」


俺は、黒い文字を見た。


【未来を知る者は、未来を語れ】


知っている。

俺は知っている。

だが、語れない。

語ってはならない。


俺は羽ペンを取った。

手が震えた。


【未来ではなく、周期を記す】


さらに、その横に書く。


【運命ではなく、誤差を記す】


黒い文字は消えなかった。


だが、わずかに薄れた。


ヴォルコフは、その様子をじっと見ていた。


「オイラー殿。宮廷は、あなたの沈黙も記録します」


「どうぞ」


俺は言った。


「ただし、私もあなたの依頼を記録します」


ヴォルコフの笑みが、ほんの少し消えた。


「よろしい。互いに記録いたしましょう」


彼は礼をし、濡れた外套の裾を引きずって去った。扉が閉まると、部屋に湿った冷気だけが残った。


カタリナが、アンナの手紙をもう一度机に出した。


「星ではなく、暦。運命ではなく、周期。未来ではなく、誤差」


エリザが言った。

「この三行を、防衛線にします」


アレクセイは、宮廷文書を睨んだ。

「アンナがいなくなった途端にこれか。やっぱり、ここは悪くなるぞ。……オイラー、あんたには小さな子供もいる。考えておけ」


俺は、皇子の名が書かれた紙を見た。


イワン。幼い名。未来を知らない名。


その未来を知ってしまっている俺。


机の上には、素数棚がまだ残っていた。

数の骨を見ようとしていた紙の隣に、今度は人の運命を読めという紙がある。


『数は未来を命令しない』


そう書いた文字だけが、今夜の俺たちの薄い盾だった。


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