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第45話 積を消すな


積という語が、紙の上から白く抜け始めた。


『足し算の奥には、素数の積がある』


そう書いたばかりの一文で、積だけが消えていく。黒い線が薄まり、紙の繊維へ沈むのではなく、最初からなかったように抜ける。そこに残ったのは、足し算の奥には、素数の がある、という骨の外れた文だった。


部屋の空気が冷えた。窓の外では雪が風に押され、硝子を細かく叩いている。

机の上には、素数棚の図が何枚も並んでいた。二の棚、三の棚、五の棚、七の棚。棚の中には足し算。棚と棚の間には積。

その二段構造をようやく紙に定着させかけたところで、校閲者はそこを狙った。


エリザが赤い羽ペンを構えた。

「予想通りです。対象は、積という語です。和と積の変換を切断しに来ています」


アレクセイが机を叩いた。

「語一つ消したくらいで、棚が消えるわけじゃねえだろ」


「語が消えるだけなら問題ありません」


エリザは即座に言った。


「しかし、概念名が消えると、次に記録間の対応が曖昧になります。棚の中が和で、棚の間が何であるかを失えば、全体が崩壊します」


カタリナは素数棚の図を胸に抱えたまま、白くなった文を見つめていた。彼女は怖がっている時ほど、紙を強く握らない。むしろ、折れないように静かに支える。今日もそうだった。


「積という語がなくても、棚と棚をどう重ねるかを絵で残せます」


「お願いします」

俺は言った。


右目では、白く抜けた部分が雪の穴のように広がって見える。

左目では、消えた文字の形だけがかろうじてわかる。

目が悪くなって以来、消える文字の輪郭が妙に記憶に残るようになった。読めないからこそ、失われた場所が痛む。


カタリナは新しい紙を出した。

二の棚と三の棚を横に描き、その間に、手で結ぶような線を引いた。二の棚から一つ選び、三の棚から一つ選ぶ。二を二回使う札と、三を一回使う札。

彼女はそれを細い線で結び、下に十二と書く。


「文字ではなく、選び方の線です。二の棚から一つ、三の棚から一つ。これを結んで、一つの数を作ります」


アレクセイが覗き込む。

「つまり、掛けるって字を書かずに、選んだ札を一緒にするわけか」


「はい。棚どうしを結びます」


「結ぶ、か。積よりは柔らかいが、まあわかる」


エリザはすぐに注記を書いた。

「結ぶ、は比喩です。正式には乗法操作。ですが、積が白化する状況では代替表現として有効です」


「結局、注記には硬い言葉が残るんですね」


「当然です。柔らかい表現だけでは腐っていくもの」


その時、注記の中の乗法という文字も白く揺れた。


エリザの目が鋭くなる。

「乗法も狙われています」


「徹底してるな」


アレクセイが低く言った。

「じゃあ、言葉を変えるだけじゃ駄目だ。実例で殴るしかねえ」


彼は紙を引き寄せ、乱暴だが太い字で書いた。


四分の一。


三分の一。


それを並べて、下に十二分の一。


「ほら。二を二回使えば四分の一。三を一回使えば三分の一。合わせると十二分の一だ。字が消えても、数で見ろ」


「合わせる、も曖昧です」


エリザが言う。


「なら何て言えばいいんだよ」


「分子と分母をそれぞれ組み合わせる、と言えばよいでしょう」


「長い」


「正確です」


「飯が冷める」


「冷めた飯でも正確な方がましです」


「お前、料理にも赤線入れそうだな」


「必要なら入れます」


カタリナが小さく笑った。

けれどすぐに表情を戻し、アレクセイの例を大きく描き直した。四分の一の下に、二を二回使う、と添える。三分の一の下に、三を一回使う、と添える。五以降の棚には一を選ぶ、と添える。


「十二分の一は、一度だけ現れます」


カタリナが言った。


「二の棚から二回、三の棚から一回、他の棚から使わない、という選び方が一通りだからです」


「それが核心です」


エリザが頷いた。


「一意分解が、ここで重複を防ぎます。積という文字が消えても、この一通りの選択は残せます」


俺は羽ペンを取った。


積という文字を使わずに書く。


『各素数の棚から一つずつ札を選び、それらを一つの項に組み合わせる。そうして得られる項は、整数の逆冪と一対一に対応する』


エリザがすぐに見る。

「一対一。よい語です。ただし、ここも狙われます」


「でしょうね」


「だから先に補強します。数え漏れなし、重複なし、を併記してください」


俺は頷き、書いた。


数え漏れなし。重複なし。


カタリナが同じ語を太く写す。アレクセイが指で机を叩きながら、低く読み上げた。

「数え漏れなし。重複なし。十二分の一は一回。十八分の一も一回。二十分の一も一回」


「十八も追ってみましょう」

カタリナが言った。

「二を一回、三を二回、他は使わない。二分の一と九分の一を組み合わせて、十八分の一」


「いいですね」


俺は頷いた。


「例を増やせば、接続が強くなる」


エリザが即座に言う。

「例は証明ではありません。ただし、防衛線としては有効です」


「今日も容赦ないですね」


「例示は入口。一般性は別。混同禁止です」


アレクセイが顔をしかめる。

「女史、今のを全部大衆に言ったら寝るぞ」


「大衆向けではなく、校閲者対策です」


「校閲者も寝てろよ」


「寝る相手なら楽でした」


確かに。


机の上では、積という文字が完全に消えかけていた。

だが、素数棚の図と、四分の一、三分の一、十二分の一の例は残っている。

乗法という文字は薄いが、選び方の線は残る。

校閲者は、文字を削ってくる。だが、それらが表す構造はまだ削り切れていない。


その瞬間、素数棚の間を結ぶ線が白く光った。


「線です」


カタリナが声を上げた。


「棚どうしを結ぶ線が消えてかけています」


やはり来た。


文字が駄目なら図。図が駄目なら線。


校閲者はなんとかして接続そのものを切りに来ている。


俺はすぐに言った。

「声で残します。二の棚から二回、三の棚から一回、他は使わない。十二分の一」


カタリナが続ける。

「二の棚から一回、三の棚から二回、他は使わない。十八分の一」


アレクセイが言う。

「二の棚から二回、五の棚から一回、他は使わない。二十分の一」


エリザが締める。

「各選択は一つの整数逆冪に対応。整数逆冪は一つの選択に対応。一対一対応」


声が部屋に重なった。


素数棚の線は薄れたが、消えなかった。線の代わりに、声の順序が接続を支えた。俺の右目では滲む線が、耳の中でははっきり通った。


「声でも、棚はつながりますね」

カタリナが言った。


「はい」

俺は答えた。

「紙の線が消えても、手順が残れば戻せます」


エリザが赤で書く。


『接続手順。

一、各素数棚から一札を選ぶ。

二、選択した札を一項へ組み合わせる。

三、得られた項は整数逆冪に対応する。

四、一意分解により重複しない』


「手順化します。これなら、積という文字が消えても、操作は残る」


「操作」

俺はその言葉を見た。


積という名を消されても、操作は残る。


橋の時もそうだった。橋という物が線へ抽象されても、人が渡る手順が残れば都市は動いた。ここでも同じだ。積という字が消えても、棚から選び、組み合わせる手順が残れば、数はつながる。


アレクセイが机の上の素数表を見ながら言った。

「しかし、これ、無限に棚があるんだろ」


「あります」


「全部選ぶって、馬鹿みてえだな」


「実際には、ある整数を作るには有限個の素数だけを使います」


エリザが言った。


「五以降は使わない、という一を選ぶ。ここで単位表が必要になります」


カタリナが薄灰色の単位表を出した。


一。


使わないことを表す札。


素数にあらず。


「一を外したことが、ここで効くんですね」


「はい」

俺は言った。

「使わない棚からは、一を選ぶ。だから、余計な素数を使わずに済む」


アレクセイが唸る。

「一が素数じゃない理由が、また出てきたな」


「数の居場所が決まると、後で効いてきます」

カタリナが柔らかく言った。


「素数の棚、一の札、合成数の表。みんな役割があるのよ」

エリザが頷く。

「分類は防衛です」


アレクセイが笑った。

「それ、もうお前の紋章にしろよ」


「不要です」


「だろうな」


その時、机の端に置いていた無限級数の覚書が黒く滲んだ。


【和を積へ移すな】


先ほどの文字が、さらに濃くなる。だが、その下に新しい一行が続いた。


【積がなければ、骨はつながらない】


校閲者が、今度は逆のことを言ってきた。


エリザが目を細める。

「奇妙です。積を消しておきながら、積がなければつながらないと主張している」


「矛盾しているようで、していません」

俺は言った。

「積という語を奪えば、こちらはつなぐ言葉を失う。すると校閲者だけが、つながらないと宣言できる」


「言葉の支配ですね」


「はい」


カタリナが素数棚の図をそっと撫でた。

「では、言葉を増やします。積、乗法、組み合わせ、棚の選択、接続手順。どれか一つが消えても、同じことを戻せるように」


エリザが言う。

「語彙の多重化。ただし乱用は混乱を招きます。対応表を作ります」


アレクセイが肩をすくめた。

「また表だ」

「表は強いので」

「知ってる。誰よりもな」


四人で、語彙対応表を作った。


積。乗法。

棚どうしの組み合わせ。

各棚から一札ずつ選ぶ操作。

選択を一項へまとめる手順。


正式語、比喩語、口述語、図版語。


対応表ができるにつれ、白化は鈍った。


積という文字は、まだ白い。だが、周囲に網ができた。


校閲者は、ひとつの語を消せても、同じ操作を示すすべての道を一度には消せない。


俺は、もう一度書いた。


『足し算の奥には、素数の積がある』


積の字は薄い。だが、消えない。


「残りました」

カタリナが小さく言った。


その声には、いつもの記録者の落ち着きと、ほんの少しの喜びが混じっていた。


エリザはすぐに言う。

「残りましたが、危険です。無限個の棚、収束、一意性。未処理の課題が残っています」


「わかっています」

今回は、素直にそう言った。


アレクセイがにやりとした。

「今度は、かなりって言わねえんだな」


「危なすぎるので」

「よし。少しはまともだ」

「褒めてます?」

「少しな」


俺は素数棚の図を見た。

右目では端が滲む。左目では、棚の始まりが見える。

その棚は、紙の上からどこまでも奥へ続いているようだった。二の棚、三の棚、五の棚。素数たちが、見えない地下道のようにつながっている。


その時、部屋の扉が叩かれた。


夜にしては硬い音だった。


カタリナが立ち上がる。扉を開けると、アカデミーの若い書記が立っていた。顔色が悪い。外套には雪がついている。手には、封蝋の乱れた一通の手紙。


「オイラー殿。急ぎの書簡です。差出人は、アンナ様」


アンナ。


しばらく姿を見せていなかった名前に、部屋の空気が変わった。


カタリナが封蝋を見る。

「割れ方が乱れています。急いで封じたものです」


俺は手紙を受け取った。紙は冷たく、湿っている。封を開けると、アンナらしい整った字が並んでいた。ただし、いつもの余裕がない。線がわずかに急いでいる。


『オイラー殿。

私は明朝、この都を離れます。

理由は書けません。

ただし、警告を残します。


近いうちに、皇子イワンの星回りを、数で示せという依頼が来ます。

受けてはいけません。

しかし、拒めば敵を作ります。


星ではなく、暦を語りなさい。

運命ではなく、周期を語りなさい。

未来ではなく、誤差を語りなさい』


読み終えた時、手紙の紙がやけに重く感じられた。


アンナが去る。

宮廷の中で、まだ話が通じた危険人物が消える。

その後に来るものが、良いはずがない。


エリザが低く言った。

「政情が変わる、とは聞いていたけれど」


アレクセイは舌打ちした。

「くそ。宮廷の空気が悪くなる」


カタリナは、アンナの手紙をそっと見つめた。

「星回り……それをレオンハルト様に?」


俺は、素数棚の上に置かれたアンナの手紙を見た。

数の骨を見つけたばかりの机に、今度は運命を読めという紙が来た。


次の危険は、数学ではなく、数学の権威を借りた予言だった。


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