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第44話 足し算の奥の積


足し算の列の向こうで、素数が影を伸ばしていた。


一、二、三、四、五。


どこまでも続く整数の列。その逆数、その二乗の逆数、その三乗の逆数。紙の上では、ただ小さな分数が並んでいるだけに見える。だが、右目の白い滲みを閉じ、左目だけで見直すと、その列の底に別の骨格があるように感じた。


二。三。五。七。十一。


素数たちは、整数の列のあちこちに隠れている。見えているのは足し算だ。けれど、その足し算を作る整数たちは、素数の積にほどける。ならば、無限に続く和の奥にも、素数の影があるはずだ。


部屋には、夜の冷気と紙の匂いがあった。

カタリナが机の上に三種類の紙を並べている。白い素数表。黄色い合成数表。薄灰色の単位表。さらに、その横に無限級数の覚書。

紙の色が違うことで、右目が滲んでも役割が見分けられる。彼女の工夫は、もう俺の思考の一部になり始めていた。


「足し算の奥に、骨があるのですか」


カタリナが静かに聞いた。


「あるはずです」


俺は答えた。


「すべての整数が素数からできているなら、すべての整数を並べた和にも、素数の痕跡がある」


エリザはすぐに赤い羽ペンを取った。


「痕跡、という語は不十分です。接続を示してください。足し算の列が、なぜ掛け算の形へ移るのか。そこを曖昧にすれば崩壊します」


「まだ入口です」


「入口ほど危険です」


彼女の言葉は冷たい。だが、正しい。無限と円をつないだ時も、危うい類推に何度も赤線を入れられた。今度は、足し算と掛け算をつなごうとしている。危険でないはずがなかった。


アレクセイは、黒パンをかじりながら素数表を見ていた。


「足し算が掛け算になるってのは、見せ方を間違えると詐欺だな」


「詐欺じゃない。数学だよ」


「わかってる。だが、聞いた瞬間はそう聞こえる。そこを何とかしろ」


「的確ですね」


「褒めるな。気味悪い」


カタリナが、合成数表から十二の分解図を取った。


「整数が素数へほどけるなら、級数の一つ一つの項にも、素数の骨が入っているということでしょうか」


「そうです」


「では、箱ではなく、棚にしてみます。箱が増えると、少し見分けにくいので」


彼女は新しい紙に、横長の棚を描いた。


二の棚。


三の棚。


五の棚。


七の棚。


それぞれの棚には、小さな札が並んでいる。


使わない。


一回使う。


二回使う。


三回使う。


カタリナは、二の棚の札を指した。


「この棚の中は、選べる札を全部並べるのですね」


「はい」


俺は頷いた。


「二の棚なら、二を使わない項、二を一回使う項、二を二回使う項、二を三回使う項。それらを全部並べる」


エリザの羽ペンが止まった。


「並べる、では不十分です。棚の中は、足し算ですか」


「はい」


「では、棚と棚の間は?」


「掛け算です」


アレクセイが黒パンを置いた。


「つまり、あれか。左の括りから一つ、右の括りから一つ選んで掛けるやつか」


「そうです」


「たとえば、二つの和と二つの和を掛けると、四通り出る。左から一つ、右から一つ。全部掛けて足す。(a+b)(c+d)=ac+ad+bc+bd。あれと同じか」


「そう、それです」


エリザが短く頷いた。

「有効です。既知の分配法則として説明できます。ただし、無限個へ拡張する危険は明記してください」


「さっそく赤線ですか」


「当然です。有限の分配と無限の分配を同一視してはいけません。そこが危険域です」


カタリナは、棚の横に大きく書いた。


棚の中は和。


棚と棚の間は積。


右目でも読める、太い文字だった。


アレクセイがそれを見て言った。


「これならまだわかる。棚の中で足す。棚同士を掛ける。で、開くと選び方が全部出る」


「はい」


俺は頷いた。


「そして、その選び方が、整数の素数分解に対応する」


「具体例を出せ」


アレクセイが言った。


「今すぐだ。ここで抽象のまま行くと、たぶん人類の半分が寝る」


「半分?」


「俺を含む」


「自分で言うんですか」


「正直だろ」


エリザが冷たく言う。

「具体例は必要です。十二でやってみましょう」


カタリナが、紙の中央に大きく書いた。


十二。


「十二は、二を二回、三を一回使います。五以降の素数は使いません」


俺は言った。


カタリナは二の棚から、二回使う札を選んだ。


三の棚から、一回使う札を選んだ。


五の棚から、使わない札を選んだ。


七の棚からも、使わない札を選んだ。


「逆冪で見るなら」


俺は慎重に続けた。


「二の棚からは、二を二回使う重み。三の棚からは、三を一回使う重み。他の棚からは、一を選ぶ」


アレクセイが紙に書いた。


「二を二回なら、四分の一。三を一回なら、三分の一。あとは一。掛けると十二分の一」


「ただし、今は普通の逆数で見た場合です」


エリザが補足する。


「二乗の逆数、三乗の逆数など、冪を変えるなら、全体の指数をそろえて扱う必要があります。ここは入口として許容します」


「珍しく許した」


「入口として、です」


俺は頷いた。


「こうして、十二分の一にあたる項が一度だけ現れます。十二の素数の骨が、一通りだからです」


カタリナが、十二の図の下に書く。


二を二回。


三を一回。


他は使わない。


だから十二。


そして、逆数なら十二分の一。


彼女は少し考えてから、棚の下にもう一行加えた。


数え漏れなし。


重複なし。


エリザの声が少し低くなる。

「ここで一意分解が効きます」


アレクセイが眉を上げた。

「そんなに大事か」


「核心です」


エリザは断定した。

「整数が素数の骨を一通りにしか持たないから、棚を広げても同じ整数の項が二度現れません。もし十二が別の骨を持てるなら、十二分の一は二度現れます。もし骨を持たない整数があるなら、その項は漏れます」


「だから、数え漏れなし、重複なし、か」


「はい」


俺は言った。


「それがあるから、足し算の列と、素数の棚の展開が対応する」


アレクセイは腕を組み、しばらく黙った。


「分かりかけると、気持ち悪いな」


「なぜです」


「足し算だと思ってたものの裏側で、掛け算が歯車みたいに回ってる感じがする」


「よい感覚です」

エリザが言った。


「気持ち悪い、は論文語ではありませんが」


「お前は何でも論文にするな」


カタリナが小さく笑い、棚図の線を少し太くした。

「では、この棚を正式な比喩にしてよろしいでしょうか」


エリザが即座に赤を入れる。

「棚で統一しましょう。他の比喩を並走させると、記号系が混乱します」


「はい。棚で統一します」


「ただし、棚は比喩です。正式文には、各素数について選択肢を足し、それらを掛ける、と併記します」


「はい」


アレクセイがぼやく。


「棚にも注記がついた」


「比喩は便利ですが、野放しにすると暴れます」

エリザは涼しい顔だった。


俺は無限級数の覚書を引き寄せた。そこには、ただ整数の逆数を足す列だけでなく、逆二乗、逆三乗も並んでいる。右目では小さな分母が滲む。カタリナがそれに気づき、すぐに大判写しを横へ出した。


「こちらをどうぞ。分母を大きく書いています」


「ありがとうございます」


「整数そのものを足すと、どうなるのですか」


カタリナが聞いた。


「果てしなく大きくなります」


俺は答えた。


「だから、整数そのものではなく、整数の冪の逆数に重みをつけます。大きな数ほど小さく扱う。そうしなければ、和は暴れます」


エリザが頷いた。

「収束のための重みですね。明記してください」


アレクセイが言った。

「要するに、でかい荷ほど軽く見積もる札をつけるわけか」


「違いますが、入口としては近いです」


「また入口かよ」


「入口が多い数学なので」


カタリナは、棚の札に新しい記号を書き足した。二を使わない札には一。二を一回使う札には二の冪の逆数。二を二回使う札には二を二回使った冪の逆数。三の棚も同じ。五の棚も同じ。


棚の中は和。


棚と棚の間は積。


展開すると、素数の使い方がすべて出る。


そして、その一つ一つが、整数の逆冪に対応する。


エリザが赤い線を引いた。


「これで飛躍が小さくなりました。まだ完全ではありません。しかし、比喩としては機能しています」


「褒めましたか」


「評価です」


「褒めてはいない?」


「必要なら褒めます。今は不要です」


アレクセイが笑った。


その瞬間、無限級数の覚書が白く光った。


足し算の列。


その横に描かれた素数棚。


その二つをつなぐ線が、白く抜け始める。


「接続です」


カタリナが言った。


「足し算と棚の間が消えています」


校閲者は、まさにそこを狙ってきた。


足し算の和と、素数の棚の積。


その接続を切ろうとしている。


エリザが赤い羽ペンを構えた。


「接続命題を言語化してください」


「各整数は、素数の使い方の一通りに対応する」


俺は言った。

「一通り、という語を残します」


エリザが書く。

『素数の使い方が一つ決まれば、整数が一つ決まる。整数が一つ決まれば、素数の使い方も一つ決まる』


アレクセイが続ける。


「数え漏れなし。重複なし」


カタリナが、その二語を太く書き直す。


右目でも読める文字だった。


白化は少し止まった。


だが、完全には止まらない。足し算と棚の間の線は、まだ薄い。


「式が必要です」


エリザが言った。


「わかっています」


俺は羽ペンを取った。現代なら、ゼータ関数と素数にわたる積を一行で書ける。だが、ここでは慎重に進む。記号そのものが時代から浮けば、校閲者が狙う。だから、最初は言葉で書く。


素数を調べるために無限級数・無限積という解析の道具が使えることを、やがて「オイラー積」と呼ばれリーマン予想にもつながるアイデアを、後世に伝えるために。


『すべての整数の逆冪を足す和は、各素数について、その素数を何回使うかをすべて足した棚を作り、それらの棚を全素数にわたって掛け合わせたものとして見られる。』


長い。


だが、必要な段差は入った。


棚の中は和。


棚と棚の間は積。


アレクセイが顔をしかめた。

「長い。読んでる間に飯が冷める」


「もう少し短くしますか?」


エリザが言う。

「短くしすぎると危険です」


「では中間を探します」


カタリナが、棚の図の上に題をつけた。


『素数棚』


「この言葉はどうでしょう? 素数棚の中身は和。素数棚どうしは積。そう説明を添えます」


「良いです」

俺は頷いた。


「素数棚」

エリザが補足する。


「ただし、棚は比喩。正式文には、各素数に対応する級数因子、と注記」

「また硬い」

「硬い部分が骨です」

「それ、気に入ってます?」

「有効なので」


足し算と棚の接続線は、そこで少し濃さを取り戻した。


白化は完全に止まったわけではない。だが、線は消えていない。


「見えてきましたね」

カタリナが言った。


「はい」

俺は素数棚の図を見た。


素数ごとの棚。

棚の中では、その素数を使う回数を全部足す。

棚同士を掛けると、使い方の組み合わせがすべて出る。

その組み合わせが、整数の逆冪を一つずつ作る。


胸の奥で、何かが開く感じがした。


無限と円がつながった時とは違う。あれは空に穴が開くような驚きだった。今は、地面の下に隠れていた骨格を掘り当てるような感覚だ。世界が上へ広がるのではなく、下へ深くなる。


その時、紙の端に黒い文字が浮かんだ。


【和を積へ移すな】


校閲者の声だった。


エリザが低く言う。

「やはり、ここが禁所なので」


「禁所?」

アレクセイが聞く。


「校閲者が最も嫌がる接続点です」


カタリナは素数棚の図を胸に抱えた。

「棚の中の足し算と、棚の間の掛け算が、つながるところ」


俺は黒い文字を見た。


【和を積へ移すな】


校閲者は、この接続を禁じたい。


なら、ここに価値がある。


俺は羽ペンを取った。


『Post additionem latet productum numerorum primorum. (足し算の奥には、素数の積がある)』


黒い文字が揺れた。


エリザがすぐに赤を入れる。

「積という語は、次で狙われます。備えてください」


「わかっています」

「本当に?」

「……今回は、危ないほどに」


アレクセイが低く笑った。

「少しは学習したな」


カタリナが新しい紙を出す。

「では、積を消されてもよいように、素数棚の図を増やします」


その言葉の通り、次の瞬間、積という文字が白く光り始めた。


やはり来た。


足し算の奥の積。


その積そのものが、消されようとしていた。


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