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第43話 数の骨


【すべての整数は、素数からできている】


その一文のうち、【素数から】という部分だけが白く抜け始めた。


紙の中央に、雪が落ちたような白い穴が開く。

周囲の文字は残っている。

すべての整数は、できている。けれど、何からできているのかが抜け落ちていた。骨を抜かれた身体のような文だった。


カタリナが紙の端を両手で押さえた。紙に触れすぎないよう、爪先だけを使っている。彼女の袖口からは、昨日子どもの寝台で使った石鹸と、今日のインクの匂いが混じって漂った。彼女は怖がっていたが、目を逸らさなかった。


「ここだけです。素数から、の部分だけが白くなっています」


「攻撃の対象は、素因数分解の核心です」


エリザが断定した。赤い羽ペンの先が、すでに紙の上で構えている。


「一を混ぜる攻撃より直接的です。素数が整数の構成要素である、という接続を切りに来ています」


アレクセイは合成数表を引き寄せた。乱暴な手つきだが、紙の端を折らない程度には丁寧だった。


「じゃあ、実物で殴るしかねえな。数を割って見せりゃいい」


「実物?」


カタリナが聞く。


「十二だの十八だのを、素数にほどく。表でな」


「はい。積み木の図も使えます」


カタリナはすぐに新しい紙を出した。

薄い黄色の紙。合成数表用に選んだ紙だ。右目の滲む俺でも白紙と区別できるよう、彼女が紙の色を分けてくれている。

素数表は白。単位表は薄灰。合成数表は黄。分類は、もう視覚の補助でもあった。


俺は右目を閉じ、左目で白化を見た。


【素数から】が消えていく。


そこが消えれば、整数の骨格は見えなくなる。六も十二も十八も、ただの数字の塊になる。割れば中に二や三や五がいるという事実が、曖昧になる。


「まず、小さい数から行きます」


俺は言った。


「二」


カタリナが白い素数表に書く。


二。


「三」


三。


「四は」


「二掛ける二」


アレクセイが即答した。


カタリナは黄色い紙に、二の小箱を二つ描いて四とした。


「五」


「素数」


エリザが言う。


「六」


「二掛ける三」


俺は答える。


カタリナの羽ペンが、二の箱と三の箱を並べる。六という数字が、二と三の骨を持つ形になる。小さな図だが、見ていると、数が中身を持ち始めるようだった。


「八」


「二掛ける二掛ける二」


アレクセイが言う。


「九」


「三掛ける三」


エリザ。


「十」


「二掛ける五」


カタリナが、少し嬉しそうに答えた。


「そうです」


俺は頷いた。


合成数表が埋まっていく。四、六、八、九、十、十二、十五、十八。数が素数の小箱へほどけていく。紙の上で、整数たちが骨格を取り戻していく。


白化は、少し止まった。


だが完全ではない。


消えかけた文はまだ、すべての整数は、できている、のままだった。


「足りない」

エリザが言った。

「例示だけでは一般性が不足します。【すべて】という語を守るには、方法を示す必要があります」


「方法?」

俺は唸った。

「なら、これなら、どうです? ……任意の合成数を取る。素数でなければ割れる。割れた片方が素数でなければ、さらに割る。これを続ければ、いずれ素数に至る」


「それを今の言葉で」

エリザが言った。

「オイラー、あなたが定義して」


容赦がない。


俺は少し考えた。未来の言葉なら簡単だ。素因数分解。自然数の整列性。帰納法。だが、ここでそれをそのまま投げると、また時代から浮く。


「どんな数でも」

俺はゆっくり言った。

「素数でないなら、二つの小さい数の積に分けられます」


カタリナが書く。

『分けた数がまた素数でないなら、さらに分ける』


アレクセイが続ける。

「数は小さくなる。いつまでも割り続けられねえ」


エリザが頷く。

「有効です。有限性を明示できます」


俺は続けた。

「続ければ最後には、もう割れない数だけが残る。それが素数です」


カタリナは、その言葉を大きく清書した。


『素数でない数は、小さい数へ分かれる。分け続ければ、最後に素数が残る』


白い穴が、少しだけ縮んだ。


素数から、という言葉はまだ戻らない。けれど、その周囲に骨が増えていくようだった。


アレクセイが数表を見ながら言った。

「でもよ、分け方がいくつもある場合はどうする。十二なら二掛ける六でも、三掛ける四でもいいだろ」


「よい指摘です」

エリザが即座に言った。

「そこが次の危険です。分け方が違っても、最後に残る素数の集まりが一致することを示さなければなりません」


「また面倒な場所を見つけやがった」


「面倒な場所が証明の核心です」


「ほんと、お前は核心が好きだな」


「不備が嫌いなだけです」


俺は十二を見た。


二掛ける六。三掛ける四。


どちらから始めても、二掛ける二掛ける三になる。


カタリナが即座に、二通りの分解図を描いた。左は二と六、六が二と三に分かれる。右は三と四、四が二と二に分かれる。最後は同じ二、二、三。


「二つの道が、同じ骨にたどり着きますね」


「はい」

俺は頷いた。

「道筋は違っても、たどり着く骨は同じです」


エリザが赤で補足する。

「ただし、これは例です。一般の証明は要補強」


「刺すのが早い」


「早期補強です」


アレクセイが笑った。

「女史の赤は、病気より早いな」


「失礼ですが、有効です」


「褒めてんのか?」


「分類不能です」


カタリナが小さく笑い、その笑いの途中で表情を引き締めた。


「白化がまた動いています」


今度は、十二の分解図だった。


片方の道、三掛ける四の方だけが白くなっていく。まるで、分解の道を一つだけ残そうとしているようだった。


「分解の多様性を消しに来た?」


俺が言うと、エリザは首を振った。

「違います。別の分解から同じ素数へ至る事実を消そうとしています。骨が同じ、という接続への攻撃です」


アレクセイが紙を押さえる。

「十二は二掛ける六でも三掛ける四でもいい。最後は二、二、三だ」


カタリナが声に出して続ける。

「十二。二と六。六は二と三。十二。三と四。四は二と二」


エリザが書く。

『両経路とも、二、二、三へ到達』


俺も言う。

「道は違っても、骨は同じ」


白化が止まった。


三掛ける四の道は薄いが、残った。


カタリナはすぐに別紙へ同じ図を描き直した。

今度は、二つの道の最後に同じ骨印を付ける。骨印は彼女の考案した小さな記号で、エリザの注記付きだ。

数学的対象ではない、ただし分類補助として有効。硬い注記ごと、もう見慣れてきた。


その時、机の隅で封書が小さく鳴った。


エリザが顔を上げる。

「私の書簡です」


「未来から刺してくるやつですか」


「昨日出したものです」


書簡を開くと、赤字が最初に見えた。


『合成数は、素数の積へ分解される。比喩で済ませるな』


アレクセイが吹き出した。


「遠隔なのに、今この場で怒ってるみてえだな」


エリザは涼しい顔で言う。

「怒ってはいません。予防です」


「怖え予防だ」


書簡にはさらに、十二、十八、二十、三十の分解例が並んでいた。各経路の最後が同じ素数列へ到達することが赤で示されている。今まさに必要な補強だった。


カタリナが感心したように言った。


「エリザ様の赤線は、先に投函されて届くのですね」


「論理上、次に壊される場所は予測できます」


「医者みたいですね」


「証明の医者です」


「自分で言った」

アレクセイが呟いた。


エリザは無視した。


俺は書簡を見ながら、背筋に奇妙な感覚を覚えていた。

離れた経路で送ったはずの赤線が、この場の白化に間に合う。紙の網が、また働いている。

いつか本当に距離が離れても、この赤線の助けは届くのかもしれない。そう考えて、少しだけ胸が痛んだ。


史実では、オイラー一家は、やがてこの街を離れることになる。


まだ先の話だ。今は素数だ。


俺は白化した文へ戻った。


【すべての整数は、素数からできている】


消えかけていた【素数から】の部分が戻ってきている。だが、まだ薄い。


「最後に、声で残します」

カタリナが言った。


「また唱和か」

アレクセイが言う。


「はい。数字は耳にも残ります」

彼女は合成数表を読み上げた。

「四は二と二。六は二と三。八は二と二と二。九は三と三」


アレクセイが続ける。

「十は二と五。十二は二、二、三。十五は三と五。十八は二、三、三」


エリザ。

「二十は二、二、五。二十一は三と七。二十二は二と十一」


俺も声に出す。

「どの合成数も、素数へほどける」


声が重なる。紙の上の数が、音になる。

右目が滲んでも、耳は拾う。

暗算が、それを確かめる。


四、六、八、九。ほどける。十、十二、十五、十八。ほどける。


白い穴が、ゆっくり埋まっていく。


素数から、の文字が戻ったわけではない。だが、消えた場所の周囲に、たくさんの証拠が積まれた。定義、分解図、合成数表、声、赤線書簡。ひとつの文が消えても、もう意味は一箇所ではない。


最後に、カタリナが大きく書いた。


『すべての整数は、素数を骨として持つ』


エリザがすぐに訂正を入れる。

「骨として持つ、は比喩。正式文には、素数の積へ分解される、を併記」


「はい」

カタリナは隣に書いた。


『すべての整数は、素数の積へ分解される』


その文字は、白くならなかった。


俺は息を吐いた。


やっと、数の奥に骨が見えた。


だが、その瞬間、素数表とは別の紙がかすかに黒く滲んだ。

俺が転生してから残っている、あの無限級数の覚書だった。自然数の逆数、逆二乗、逆三乗。足し算の列が並ぶ紙。


その余白に、黒い文字が浮かぶ。


【骨が見えるなら、和の奥にも骨を見よ】


アレクセイが眉をしかめる。

「今度は何だ」


エリザが紙を見て、低く言った。

「足し算の級数に、素数を接続しようとしてるの?」


カタリナは素数表を胸に抱えた。

「足し算の奥にも、骨があるのですか」


俺は、無限級数の紙を見た。


右目では滲む。だが、左目では確かに見える。


一、二、三、四、五。


その奥に、二、三、五、七、十一。


足し算の列の向こうで、素数が静かに影を伸ばしていた。


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